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35. 敵状視察

「アンジェリカ、大丈夫かな」

 食堂へ向かう途中、リックがぽつりとつぶやいた。

 ジークは暗い顔でうつむいた。今日、アンジェリカは休んでいる。きのうあんなことがあったばかりだ。仕方がない。そうは思っても不安は募る。もしかしたら……。

「アカデミーにはもう来ない方がいいのかもしれないね」

 ジークはリックを鋭く睨みつけた。リックはうろたえながらも、自分の考えを説明した。

「だってアカデミーにいたら、ユールベルって子と顔を会わさないわけにはいかないし」

 ジークは苦々しく歯噛みした。

「僕もアンジェリカの気持ちは尊重したいよ。でも、あそこまでひどいとは思わなかったし」

 リックの言っていることは正論だ。反論の余地もない。それどころか、ジーク自身も同じことを考えていた。だが、だからといって、感情的にはどうしても納得ができなかった。

「でも、俺は、どうにかしてやりたい」

 ジークは言葉にすることで、決意を確かなものにしようとしていた。

「……うん」

 リックは弱々しくうなずいた。どうやって? と尋ねたかったが、切り出すことが出来なかった。

 ジークはまっすぐ前を向き、こぶしを小さく握りしめて気合いを入れた。


 そのとき、ジークはユールベルの後ろ姿を見つけた。鮮やかな長い金の髪は、探そうと思わなくても目についてしまう。食堂へと続く廊下の先で、彼女はひとりで歩いていた。

「ジーク?!」

 急に走り出したジークを追って、リックも走った。彼はまさかと思ったが、その不安は的中していた。

「ユールベル、ちょっといいか」

 ジークはユールベルの背後から声を掛けた。彼女は眼帯の巻かれていない側から、ゆっくりと振り返った。それと同時に、微かに甘いにおいがあたりに舞った。彼女は真面目な顔のジーク、そして、その後ろでおろおろしているリックを順に眺めた。

「アンジェリカはいないのね」

「ああ、休んでる」

 ジークの声は硬かった。ユールベルはしばらく無言で、彼のこわばった表情を見つめていた。

「わかったわ」

 彼女はそう言うと、食堂へ足を向けた。

「なに考えてるの?!」

 リックは責め立てるような口調でジークに耳打ちした。

「敵を知らなきゃ対策の立てようもねぇだろ」

 ジークも小声で返事をした。そして、彼女の後について食堂へ入っていった。リックもしぶしぶ後を追った。


 三人はそれぞれ昼食を乗せたプレートを手に、丸テーブルについた。普段ならアンジェリカ座っているはずの位置にユールベルが座っている。背筋をまっすぐ伸ばし、顔は正面、手は膝の上にそろえられている。文句のつけようがないくらい正しい姿勢だ。

 ジークは落ち着かない気持ちとともに、軽い緊張を覚えた。

「それで、私に何の話なの?」

 ユールベルはジークとリックの中間を見つめて、静かに口を開いた。

 ジークは何から話し始めればいいのか迷い、黙りこくってしまった。そんなジークを、リックは軽く睨みつけた。声を出さずに口を動かしている。無言でジークを急き立てているようだった。

 ジークは困ったように首を傾げ、腕を組んだ。

「えーと、だな」

 ユールベルはジークに顔を向け、開いている方の目を細めた。透き通った蒼の瞳に陰が落ちる。それに呼応して、ジークの鼓動は強くドクンと打った。大きく息を吐き心を鎮めてから、ユールベルを見つめ返した。

「きのう言ってただろ。アンジェリカと友達だったって。あれは本当か」

「もちろんよ」

 ユールベルは間髪入れずに答えた。

「今は、昔の友情を取り戻したいと思っているわ。いけない?」

「いけなくはない、けども……」

「でも、何年も会ってなかったのはどうして?」

 ユールベルの勢いに押されているのジークを見かねて、リックが隣から口を挟んだ。ユールベルは視線をリックへと流した。

「会いたくても会えない状況だったのよ」

 表情のない顔の中で、その瞳だけが冷たく、そしてどこか寂しげな光をたたえていた。

「どういうこと?」

 リックは眉をひそめた。

「これ以上は言いたくないわ。知りたいのならバルタスに聞いて」

「誰なんだよ、バルタスって」

 ジークはいらついて尋ねた。

「半分、私と同じ遺伝子を持つ人」

 ユールベルは顔を上げ、虚ろに遠くを見た。ジークとリックは一瞬、顔を見合わせた。

「父親……ってこと?」

「その言い方は好きじゃないわ」

 それきり言葉が途切れた。

 ジークは伏目がちにユールベルの様子をうかがっていた。何かがあると思ったが、尋ねることは出来なかった。リックも目を伏せ、複雑な表情で口をつぐんでいた。


「……お父さんのこと、嫌いなの?」

 長い沈黙のあと、うつむいていたリックがぽつりと言った。それからゆっくりと顔を上げるとユールベルをじっと見つめた。

「話題を変えて」

 彼の視線に応えることなく、ユールベルは遠くを見たまま短く言った。リックは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。

「じゃあ……その包帯はどうしたの?」

「ものもらいよ」

 ユールベルはあっさり答えを返した。だが、その答えは嘘に違いない。ふたりともそう思った。

「何週間か前に見かけたときも、包帯してたぜ。ずっとものもらいなのかよ」

 ジークが食ってかかった。しかし、ユールベルはまったく動じることはなかった。

「そうよ」

 その機械的な声に、ジークは眉をひそめた。

「おまえなんでそんな無表情なんだよ。笑いもしない、怒りもしない。しゃべり方もずっと一本調子。おかしいだろ」

 ユールベルはゆっくりジークへと顔を向けた。右の瞳が彼をとらえた。ジークは小さく息を呑んだ。

「無表情なんかじゃないわ。あなたにも、何度も笑いかけてるでしょう?」

 ジークはとまどったように、リックに目をやった。彼は小刻みに首を横に振った。リックにも彼女が笑っているようには見えなかったらしい。

 彼女はからかっているのか? それとも本気なのか……?

 ジークは再びユールベルに向き直った。険しい表情で彼女を覗き込む。

「おまえ、笑ってるつもりなのか? 全然、笑えてねぇぞ」

 ユールベルはぴくりと眉を動かした。

「笑っていたでしょう? どうしてそんなことを言うの?」

 ジークの胸にチクリと小さなとげが刺した。しかし、彼は続けた。

「いや、笑ってない。鏡を見てみろ」

「……いや」

 弱々しくかすれた声。ユールベルの蒼い瞳が揺れ、顔がこわばった。白いワンピースから伸びた細い腕は小刻みに震えていた。

「鏡はいや、鏡はきらい……」

 消え入りそうな声で何度もそうつぶやきうつむいた。今まで何を言っても動じた様子を見せなかった彼女が、突然、感情を表した。そのことがかえってジークたちを動揺させた。

「ユールベル?」

 ジークはうつむいた彼女を覗き込んで、恐る恐る声を掛けた。

「……っ!」

 何かに気がついて、彼女は大きく息を呑み、身をのけぞらせた。その表情は怯えたように引きつっている。彼女の右目は水の注がれたグラスを凝視していた。

「ユールベル?」

 今度はリックが声を掛けた。

「……嫌……いやぁあっ!!」

 彼女は甲高い声を張り上げ、目をそむけながらテーブルの上のグラスをなぎ払った。それは宙を跳び、ジークを襲った。とっさに手でかばったので顔への直撃は免れた。だが、割れた破片が彼の腕と頬を切った。

「……ってぇ」

 ジークはよろけながら椅子から立ち上がろうとして、床に膝をついた。顔からは浴びた水が、腕からは血がしたたっていた。

「ジーク!」

 リックは椅子から飛びおり、ジークに駆け寄った。

「平気だ。かすり傷だ」

 ジークは落ち着いていた。リックの方がうろたえていた。

「かすり傷なわけないよ! ボタボタ血が落ちてる。ラウルのところへ行こう!」

「大丈夫だって言ってんだろ」

 その言葉とは裏腹に、ジークの顔からは血の気が失せていた。

 バリッ、バリッ……。

 ユールベルが破片を踏みしめながら、ジークに近づいてきた。そして、ジークの目の前で膝をついた。

「おまえその辺、破片と血……」

 そう言われても、ユールベルはおかまいなしだった。彼女の白いワンピースは、裾から赤く染まっていった。

 彼女は白いレースをあしらったハンカチを取り出し、ジークの腕の傷口を縛り始めた。彼女が動くたび、甘い匂いがふわりと舞い上がった。それは血の匂いと混じりあい、ジークに奇妙な感覚を与えた。

 ジークの腕は不格好に縛られた。

 ユールベルは手を止め顔を上げた。彼の視線を捉えると、ぐいと顔を近づける。息の触れ合いそうな距離。ジークは鼓動が止まったかのように感じた。ユールベルは、血が滲んだジークの頬にそっと指を置いた。

「ごめんなさい。私のことを嫌いにならないで」

 あごのあたりに、微かに彼女の吐息がかかった。ジークの頭はぐらりと揺れた。腕の痛みさえ忘れてしまいそうだった。


「すみません! 先生いますか!」

 リックがドンドンと医務室の扉を叩いた。

 ガラガラ――。

 姿を現わしたラウルは、黙ってふたりを見おろした。顔をそむけ立っているジークの腕は赤く染まっている。そのことに気がつくと、面倒くさそうにため息をついた。

「またおまえか」

 ジークはうつむいたまま顔をしかめた。

「入れ」

 ラウルは短くそう言うと、ガーゼや消毒薬などを手際よく準備し始めた。

「ジーク、ほら!」

 リックに促され、ジークはしぶしぶ医務室に入った。


「それほど深くはないな。すぐに治る」

 ジークの腕に包帯を巻き終わると、絆創膏を投げてよこした。

「頬にはそれでも貼っておけ」

 ジークは仏頂面でラウルを睨んだ。

 ――コンコン。

 軽いノックのあと、すぐに扉が開いた。そこから姿を見せたのはサイファだった。

「来客中か?」

 そう言いながらも、彼は遠慮することなく部屋に入ってきた。ジークとリックが会釈をすると、彼は穏やかな笑顔を返した。腕の包帯や血まみれの服を見ても、そのことには触れなかった。ジークは少しほっとした。

「今、終わったところだ。おまえは何の用だ」

 ラウルはため息まじりに言った。

「相談したいことがあってね」

 サイファはにっこりと微笑んだ。だが、目は笑っていなかった。それに気がついたのはラウルだけだった。

「じゃあ、僕たちは戻ります」

 リックがそう言って、ふたりは立ち上がった。

「すまないな」

 サイファは軽く詫びた。そして、ふいに尋ね掛けた。

「ジーク、腕はどうしたんだ?」

「……ガラスで切りました」

 ジークはどう答えようか迷ったが、経緯を伏せたまま事実のみを述べた。その声は重く沈んでいた。だが、サイファはそれ以上の追求はしなかった。

「そうか、お大事に」

 短くそれだけ言った。

「あの」

 ジークはとまどいながら切り出した。

「アンジェリカ、あしたは来ますか?」

「体調次第だが、なるべく行かせるよ。おそらく大丈夫だろう」

 サイファは再びにっこり笑った。ジークはその答えに安堵して、つられるように微かに表情を緩めた。


「あんなことを言っていいのか」

 ラウルは後片づけをしながら、背後のサイファに問いかけた。ジークとリックは出ていったので、ここにはふたりきりしかいない。サイファは窓枠にひじをつき、外の景色を眺めていた。

「相談したいのは、そのことなんだ」

 彼は空を見上げながら、ぽつりぽつりと言った。

 ラウルは椅子に腰を下ろすと、サイファの方へ体を向けた。それに呼応するかのように、サイファもさっと振り向いた。思いつめたような真剣な表情。しかし、それとは対照的な昼下がりの穏やかな風、柔らかな光が、彼の鮮やかな金の髪を上品に煌めかせている。

「アンジェリカの、開きかけた記憶の扉を、もう一度閉じることは出来るか?」

 ラウルは眉をひそめた。

「いつまでも嘘をつき通せるものではないだろう」

「隠し通すさ」

 サイファは少しの迷いも見せずに答えた。ラウルはギィと軋み音を立て、背もたれに身をあずけた。そして、無表情で口を開いた。

「ここまで来たら、思い出させるべきだと思うがな。もう幼い子供ではない。今の彼女なら耐えられるだろう」

 サイファは目つきを険しくしてラウルを睨んだ。

「それはおまえの憶測でしかない。失敗が許されることではないんだ」

「記憶を消すにも危険は伴う。忘れたのか」

「おまえは一度も失敗していない」

 サイファはめずらしくむきになっているように見えた。しばらくふたりは無言で視線を戦わせていた。

「アカデミーが終わったら、家に来てくれ」

 厳しい表情のまま、サイファは有無を言わさぬ口調で言い切った。そして、ラウルとすれ違い、戸口へ足を進めると、扉を開こうとしてふいに手を止めた。

「私はこれからバルタスに会ってくる」

「あまり派手に動くな」

 ラウルは背を向けたまま静かに言った。

「忠告、感謝する」

 サイファに微かな笑顔が浮かんだ。


 煌々と蛍光灯が照らす、天井の低いオフィス。十人ほどが机を並べるその奥に、がっちりした男が大きな机を構えていた。

 サイファは、部屋に入るとつかつかと彼の前へ進んでいった。書類やペンの音がやみ、あたりはしんと静まり返った。そこにいた全員がサイファに視線を注いだ。

「お久しぶりです。バルタス事務官」

 バルタスと呼ばれた男は、うつむいて苦い顔をした。しかし、すぐに厳格な表情を繕い、前を向いた。

「何の用だ」

 威厳に満ちたよく通る低音。だが、サイファは畏縮することなく、にっこりと笑いかけた。

「少し外でお話ししませんか?」

「もう昼休みは終わった。仕事でないのなら帰ってくれ」

 取りつく島もないあしらい方。それでもサイファは引かなかった。

「半分は公用、と言っていいかもしれません」

 意味ありげにそう言うと、真剣なまなざしで挑むように笑ってみせた。バルタスは無言で席を立った。

「すぐに戻る」

 フロア内の部下たちにそう言い残し、サイファと連れ立ってその場を後にした。

 ふたりが部屋を出ると、残された者たちは色めき立って、口々に話を始めた。


 王宮の外れにある小さな森。その中にひっそりとたたずむ散歩道をふたりで辿る。あたり一面にうっすらと緑のフィルタがかかり、枝葉の隙間からもれる光がまだら模様を映し出していた。

「君は、何を知っている」

 先に口を開いたのは、前を歩くバルタスだった。

「あなたの家の偽装結界のことだけです」

 サイファがそう言うと、バルタスの足は止まった。彼は空を仰ぎ、大きく息を吐いた。

「私を罰しに来たのか」

 サイファはバルタスの背中を見つめた。大きいがどこか頼りなく、哀愁が漂っているように見えた。

「公用と言ったのは、あなたを連れ出すため。ことを大きくするつもりはありません」

 バルタスは腰に手を当てうつむいた。

「……だろうな。ラグランジェ家の恥を公にすることなどできまい。それに、そのおかげで君の娘が今日まで何事もなく暮らせてこられたのだからな」

 そう言いながら、自嘲ぎみに鼻先で小さく笑った。

「否定はしません」

 サイファは冷静に答えた。

「それでも、もっと早く気づくべきだったと思います」

 その言葉を聞くと、バルタスはゆっくり振り向いた。サイファは彼と目を合わせた。そしてさらに話を続けた。

「どうして今になって結界を解いたのですか。そして、彼女をアカデミーに通わせるわけは……。私が伺いたいのはそれだけです」

 サイファの真剣なまなざしがバルタスに突き刺さる。彼は重い口を開いた。

「あの子はもう私の手には負えない。すべてはあの子の意思なのだ。私には何を考えているのかわからんよ」

 何もかも諦めたような言い方。サイファは彼のそんな様子を見て決意を固めた。

「今度、お宅の方へうかがいます。もう門前払いをする理由はないでしょう」

「ああ、歓迎するよ。今はあの子とふたりきりでね。正直、気が滅入る」

 バルタスはやりきれなさを滲ませた。

「奥さんと息子さんは?」

「妻の実家に身を寄せている。そうする以外に守りようがないからな」

 風が吹き、葉のこすれる音が、ざわざわと上から降りそそぐ。バルタスは寂しげに笑った。

「呪われているのは、君の娘でなく、私の娘の方かもしれんな」


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