リング
この小説は完全なフィクションです。
あれは白すぎ。
こっちは、細すぎ。
右のは、筋肉質すぎ。
左のは、毛が多すぎ。
手前は、短すぎで、奥のは、掌が小さすぎ。
炎天下、駅前まで食料品を買いに来た帰り道、確かな意識を保つために、すれ違う男性のむき出しになった腕を批評することにした。
女性はたぶん、多かれ少なかれ男性の腕に魅力を感じると思う。男性の腕の筋肉のつき方は、如実に私のものとは違う、というような「男」を感じる部分だからだと私は解釈する。そしてたぶん、一般的な女性よりも、私はこだわりが強い。
二の腕の部分と、肘から下はほとんど同じ長さがよく、柔らかそうな肩からの筋肉が肘で一度きちんとしまっているのが良い。肘から下も柔らかい筋肉が手首にかけてほどよくしまっていて欲しい。決してありありと血管が浮くほど脂肪がついていないわけではなく、薄っすらともその筋肉のありようが認められないほど貧弱でもない。そして肘から下は、そこそこに体毛にくるまれていて、自然な紫外線に対する健康的なメラニン色素の働きといったくらいの黒さが良い。羨ましいほどの白さも人工的な黒さも必要ない。肝心なのは手の大きさで、割合的には少し大き目が好ましい。掌は横にも大きく、真っ直ぐに伸びた指は、掌と同じ長さであって欲しい。
勝手にだめだしをしながら歩く私はというと、地元の駅前だからと、普段武装のように履いている高いヒールではなく底の擦り切れかけたスニーカーを履き、いつ買ったのかも覚えていない涼しいだけがとりえの薄っぺらいデニムの短パンに、どう考えても暑いだろうという黒のTシャツを着て、日焼け止めは完璧に塗っているものの、眉毛だけは一応書いておきましたという化粧で、ひっ詰めた髪に眼鏡をかけて、習慣で身につけている左手の中指の指輪以外は、いつもの自分からは他人の振りをしている有様だった。
運動不足にならぬように、駅から少し遠いマンションを選んだのは私自身だった。祖父が亡くなり、祖母と一緒に住むという母と別に暮らし始めて一年がたつ。祖母のことについては、母のいいわけだと思う。もうすぐ四十の声を聞こうというのに、一向に結婚しようとしない娘を心配してか、それともこのまま一人なのであれば、自分が先立ったときに一人でも生きていけるようにしておかなくてはという責任感か、とりあえず私に一人暮らしをさせる口実なのだ。
一緒に住んでいる間は、家事は母がほとんどやっていたが、小さい頃に両親が離婚して母に引き取られて以来、妹と二人で家事を分担してきたのですべてのことをこなせた。――ちなみに妹も独り身だけれど、早いうちから独立し、私よりもしっかりもしているので心配していないらしい――
久しぶりに自分で家事をやってみると、これが楽しくて、こんなにも自分が綺麗好きでグルメだったということに驚いた。倹約も身についていて、実はマンションの近くにもスーパーはあるのだけれど、駅前のほうが安いから運動ついでに買出しに来たのだ。しかし目的のスーパーにつく頃には激しく後悔していた。この暑さの中を十五分も歩くより、少々お高くても近くで快適に買い物をすればよかった。それくらいの贅沢が許されるくらいは収入も得ているはずだ。
交差点の向こう側に、理想に近そうな腕をみつけて気色ばむ。私と同じ歳くらいだろうか。ポケットに入れられた手の大きさを確かめようと、なんとなく近くに寄りつつすれ違ってがっかりした。手は思いのほか小さかった上に、ほのかにオヤジの匂いがした。汗の匂いなら百歩譲って我慢しよう。夏なのだから。そうではなく、気を遣っていない大人の匂いがしたのだ。同じ歳くらいだということにさらに、がっかりしてしまう。男をあきらめずに精進していて欲しいのだ。
これほどまでに腕に執着しているのは、この間、恋のようなものに遭遇しそうになった相手の腕が理想的だったからかもしれない。同じ年で婚歴なし。男三人の三男坊で気ままな独身貴族。
「俺っていう息子はいらない?」なんていう包容力ゼロ発言をかわいいと思ってしてしまう永遠の弟キャラはいただけないものの、ヒールを履いた私より背も高かった。少々髪が薄くなりそうな不安はあったけれど、そこは自分で選べることではないと、私の中ではすでにあとまわしのこと。顎を上げて話すのはちょっと気になったけど、笑った顔はチャーミングだった。
猛プッシュを受け、幾分引き気味だった私が腰をあげようとしたところ、向こうが急激な失速。たぶん私が、何かしら彼の地雷を踏んだのだろう。結局まともなデートもすることもなく、私は置き去りにされた。心にささくれるように彼にこだわっているのは、身勝手に置き去りにされ、フェイドアウトを狙うような責任感の無い男にちょっとでも揺らいでしまったことでプライドを傷つけられたからだろうとは、自分自身察しがついている。
「フェイドアウト、いいじゃないですか」
去年バツイチになって、独り身を謳歌している後輩がいった。
「私と旦那みたいに、完全に切れちゃったら、二度と復活はないですから。まあ、復活したくもないですけどね」
彼との復活を考えてみるが、私もありえないような気がする。元々腕が理想的だったのも、二十代の前半に片思いで終わった人の腕という理想形があるからで、十五年ぶりに見つけたので舞い上がったのかもしれない。
「結婚したいなあ」
つぶやいてみた私を後輩は鼻で笑った。
「思ってないでしょ。結婚するには結婚するための方向で恋愛しないといけないんですよ」
そういう後輩の結婚はそんなことはなかった。大恋愛の末の結婚だったと記憶している。――だから破綻したのか。
「腕以外にどこがよかったんですか?」
思い返す。
声。
声が好きだった。少し甘えたような話し方。語尾の開け放ち方とか、あ行の発音の平たさとアクセントのつけ方が好きだった。初恋の人の話し方と似ていて。
そう説明すると、後輩は白い目で私を見て、
「不毛ですね」と断言した。
「お前、十年も前の元彼と遊んでないで、婚活しろ、婚活」
かつては朝まで飲み明かした、ライバルと呼ぶべき同級生は、いつの間にか三児の父となっていて、あの頃からは想像できないほど質素な格好をしながら、チェーン店の居酒屋でそう一喝した。
「婚活ねぇ」
「それとも元彼と復活か?」
十年前までの三年間付き合っていた年下の元彼は、その頃問題となった金銭感覚もいまではきちんとして、何の文句もない、いい男になっていた。しばらく連絡をとっていなかったのだけれど、一人暮らしが落ち着いたので報告をしたらご飯でも食べようということになって一度会った。
「お互いに結婚が『夢』ではなく、『問題』の歳になったね」という一言が元彼と交わされた恋愛についての話のすべてだった。
同級生はにたにたしながら、
「いい男になっていたんだろう?」という。ライバルとはいえ、何につけても私のほうがちょっとだけ上という感じだった同級生にとって、家庭を持っているということは絶対的に私に勝っていると思っていることで、恋愛話を必ず引き合いに出す。
「うーん、でも向こうももういいって感じなんじゃない?」
「ばかいえ。下心なく元カノになんか会うかよ。はやくしないとさらわれちゃうぞ、若いちょっとかわいい女に。お前、いくら見た目を若く保ってるとはいえ、いい歳なんだからな」
「うーん。本当に何にも不満はないんだけどね」
元彼はヒールを履いても少し見上げるくらい背が高く、がっしりとしている。腕は少々太めだけれど掌の大きさも申し分なく、まつげの長い可愛らしい顔をしている。よく汗を吸い取るタオルをきちんと持っていてオヤジの匂いをさせることもなければ、一見しておしゃれという感じではないけれど自分に似合う洋服を知っている。少し高い声で話す内容は機知に富んでいて頭もいいし、趣味も合う。年下だけれど、「僕が守ります」という姿勢をきちんと貫ける包容力も持ち合わせている。全く、非の打ち所はない。
それでも、若い娘にさらわれるのであれば、それはそれでかまわないと思っていた。結婚問題に必ずついて回るお世継ぎ問題。いくら最近高齢出産も多いとはいえ、若いに越したことはない。男前の元彼が幸せになるのは、そちらの道ではないだろうか。父性にあふれる元彼はいい父親になるだろう。連れ合いに先立たれ一人で元彼を育てたお父さんにも、かわいい孫をみせてあげたいだろう――気がつくと母のような目線になっている自分がいる。
「不満はないけど、なんなんだ?」
いつのまにか上手になった箸の持ち方で、焼き魚の身だけを綺麗にとりわけ口に運びながら同級生がきく。
「……もうすぐ到着すると思うんだよね」
「何が?」
「途中で悪い魔女にあって、カエルにされちゃったから、この冬は三鷹ジャンクション辺りで冬眠してて、今向かってるところのような気がするんだよね……」
「だから何が?」
「私の王子様」
同級生は私を一瞥し、
「悪い魔女を探して、お前もカエルにしてもらったほうが早いと思うぞ」というと、普段は発泡酒だという久しぶりのビールをぐいぐい飲んだ。質素だけれど、とても清潔で大切にされているシャツから幸せの匂いがしていた。
マンションまでの距離、半分を残し住宅街に入ると、気を紛らわせるための腕を披露してくれる男性陣も見当たらなくなって、限界に近付いた。ぽつんと立つ自動販売機の前に立ち、小銭を入れた。スポーツドリンクのボタンを押すが、出てくる気配がない。返却レバーを押してみるが、小銭が戻ってくる気配もない。返却口をあきらめて、あらたな小銭をだそうとしたとき、左手から指輪が落ちて転がり、機械の下にもぐりこんだ。私は脱力して蹲った。
――私の何がいけないんだろう。
急に悲しくなった。
運動不足に気を遣い、駅から離れたところに住んでいる。それでも倹約のため、遠いスーパーにまで足を運ぶこともできる。家事の能力もあるし、仕事をきちんとこなしながらでも料理をするバイタリティーも持ち合わせている。今はひどい格好をしているけれど、普段はきちんとしている。お世辞でなく十歳ちかく若く見られるときもある。
そもそも、結婚とはなんなのだろう。
『夢』から『問題』へと変わってしまう類のものなのだろうか。
母のせいにするわけではないが、幼い頃から母だけの生活で、結婚自体がわからない。それをするために努力するべきものなのだろうか。その状態を続けるために伴侶と呼ばれる人と共に努力していくものなのではないか。
それに、子供は好きだけれど、放任主義の下にいきてきた私には子育てとはなんだろうという疑問もある。生命として誕生した限り、子孫を残すのは当然の義務だという意見はわかる。その機会に恵まれないということは、動物界の摂理という面から見て、私は淘汰されるべき弱い存在なのだろうか。
「どうかしましたか?」
気がつくと、自動販売機と同じステッカーの車が止まっていて、胸に同じステッカーをつけた暑苦しい長袖をきた三十代半ばくらいの男性が私の横にかがんでいた。
「ジュース、出てこなくてお金も返ってこなくて、その上指輪がもぐりこんじゃって」
「それはすみません。ちょっと、そちらによけていただけますか?」
男はそういうと、鍵の束を機械に差込み、扉のように開けた。中からうっすらと冷気が漏れ出す。スポーツドリンクを一本取り出すと私に手渡して、
「飲みながら待っててください」というと、帽子のつばをくるりと後ろに回して地べたに這い蹲り、手を機械の下に突っ込んだ。
「これですか?」
いとも簡単に見つけ出したのはいいものの、どこか水溜りでもできていたようで、袖は泥にまみれていた。
「ありがとう。そしてごめんなさい。袖汚しちゃいましたね」
「もう一枚車につんでありますから、気にしないでください」にこやかに笑った男は、差し出した私の手をみて、
「綺麗な指ですね」といい、
「結婚指輪じゃないみたいですね」と付け加え、上着でさっと拭いた指輪を渡してくれた。私はむっとする気力もなく、
「結婚どころか、彼氏もいない四十女ですから」と自嘲気味に笑った。困惑しながら上着を脱ごうとしている男にもう一度お礼をいって歩き始めた。五歩も歩くと、とんでもなく失礼なことをいわれて、とんでもなく恥ずかしい返答をしたような気がしてきたけれど、ちょっとだけすがすがしいような気分がそこにあることも感じていた。
「すみません」小走りによってきた男の声に振り返った。
「あの、連絡先を教えてもらえませんか?」
スポーツドリンクも売ってもらったし、指輪も拾ってもらった。なぜだろうと男をみつめると、男は大きな掌と同じくらい長い指でこめかみの辺りを掻きながら、
「ええと、また指輪を落としたときに、あなたと同じく身軽な僕がいつでも拾いに来ますから」と元彼と似たような長いまつげをしばしばさせながら、恥ずかしそうにいった。
ヒールを履くと、多分同じくらいの背の高さになってしまうだろう。帽子の下は、年齢より早く歳をとっているかもしれない。理想的な曲線を描く腕に続く身体には、今は清潔なTシャツを身につけているけれど、私服は最悪かもしれない。若く見えるけど、私よりも随分年上かも。
「携帯電話でいいですか?」
私がそういうと男はとてもチャーミングに笑い、大きく頷いた。
結婚をするための付き合い方なんて私にはわからない。過去の経験からいいところばかりを繋ぎ合わせて、自分をがんじがらめにしているのかもしれない。だって結婚は怖い。子育てはもっと怖い。それでも、私はまた恋をする。
なんのために?
その腕に抱きしめられるために。
愛おしい人を抱きしめるために。
たとえ命のリングからははみ出してしまっていたとしても。
この人が王子様でなかったら、ぜひとも魔女を探し出して、私もカエルにしてもらおうと思いながら、携帯電話をとりだした。