第5章
「征十郎!」
リフィーサは征十郎の傍らにいる紗耶に殺意を向けた。
ほんの少し遅れて静華も道場に入ってくる。
「邪魔な人間ね。あんたの相手はこいつらで充分だわ」
紗耶が吐き捨てるように言うと、征十郎になぎ倒されて気絶していた男たちがのっそりと立ち上がり、ゆらりと体を揺らしながら静華の方に向かっていく。
「ゴスロリの魔女と言われた私を甘く見てもらっては困るわね」
静華は口の端を吊り上げて冷笑すると、一歩前進する。
まさにそれは一瞬の出来事だった。
リフィーサには何が起こったのかまったく理解できなかった。気が付けば、道場には幾重もの男たちの人間ピラミッドが完成していた。
ちなみに、静華の衣服に乱れはない。
楽勝、と高笑いする静華を横目に、リフィーサは白目を剥いている洋輔の姿を見つける。
「この人たちの中には静華の舎弟もいたんじゃないの?」
「確かにそうだけど、私はもう人妻。私の肌に触れていいのはダーリンだけ♪ 例えかわいい舎弟たちであっても私に牙をむく奴は全力でぶっ潰す!」
静華は拳を高々と掲げて公言する。
さすがのリフィーサも洋輔たちに同情せずにはいられなかった。どうやらそれは征十郎も同感だったらしい。人間ピラミッドを見て悲哀に満ちた表情を浮かべていた。
「ホント、役に立たない人間たち。でも、おかげでいい手駒を見つけた」
紗耶は舐めるように静華を見つめた。
「クソ生意気なガキだね。ここらで大人のルールってのを教えてあげた方がいいのかしら?」
静華は紗耶の胸倉をつかんで、その赤い双眸に啖呵を切った。
「静華、その子の目を見てはダメ!」
リフィーサが叫ぶと、紗耶はくくっと喉を鳴らして笑った。
「残念でした。もうこいつは紗耶のいうことしかきかないよ」
「誰があんたのいうことしかきかないって?」
静華は鋭い眼光を放った。
「どうして? あの男といいこの女といい、どうして紗耶の魔力が通用しないの?」
紗耶は征十郎と静華を交互に見やり、信じられないといった面持ちで唇を噛みしめた。
「私たち武道家にそんな変な術がきくわけがないでしょ。日々鍛錬してんのよ!」
「最近はその鍛錬も怠っていたんじゃないですか? こんな簡単に俺に後ろを取らせるなんて」
いきなり背後から現れた弘臣がリフィーサの喉もとに突然サバイバルナイフを押し当てた。隣にいた静華が舌打つ。
「もしやと思っていたが、やはり黒幕は貴様か、弘臣」
「おや、鈍感な征十郎くんにしてはよく気がついたね」
「この紗耶という少女が貴様の名前を口にしたからな。すべては貴様の入れ知恵か?」
「何だ、そういうことか」
弘臣は悪びれもせず、のほほんとした口調で呟く。
「どういうことか説明してくれない?」
「すみません、静華さん。かわいい女の子が困っていたら何とかしてやりたいと思うのが男でしょ?」
「ここにもかわいい女の子がいるでしょうが」
「俺、人妻には興味ないんですよね」
「弘臣、あんた殺されても文句は言わないでよ」
静華が剣呑なセリフを笑顔で言うと、殺気を漲らせて攻撃態勢に入ろうとする。相手が凶器を持っていようが関係なかった。
「言いませんよ。でも、静華さんが動くよりもナイフの切っ先が彼女の首を切り裂く方が早いと思いますよ」
あくまで笑みを絶やさない弘臣。
臨戦態勢を整えていた静華は、強く握りしめたままの拳をゆっくりと下げた。ここで下手に手を出せば、弘臣は躊躇なくリフィーサの喉笛をサバイバルナイフで切り裂くだろう。
「弘臣、貴様見損なったぞ! 女に節操がなくていいかげんな奴だとは思っていたが、そこまで非道なことをするとは」
「これはお前のためでもあるんだけどな」
「黙れ! 言い訳など聞かん! 貴様などもう友ではない!」
征十郎は悲痛な面持ちで怒りに体を震わせていた。ロープで縛られていなければ、間違いなく弘臣を殴り倒していただろう。
「愛情だの友情だのって、ホント人間は愚かな生き物だね。まあその方が利用しやすくて助かるけど」
「そんなことないわ!」
それまでずっと黙っていたリフィーサが紗耶の言葉を否定した。
「人間は……征十郎は堅物だけど何事にも一生懸命でとても優しくて、誰よりもステキな人間だわ!」
「何、虫唾が走るようなこと言ってんの? まあいいわ。あんたに惚れたっていうこの男の血を紗耶が先に吸ってやる、あんたの悔しがる顔を見ながらね」
紗耶が征十郎の顔に手が触れた瞬間だった。
「俺に触るな!」
征十郎の声と同時に紗耶が尻もちをつく。征十郎を押さえつけていた青年たちもその場に倒れ伏す。紗耶は何が起きたのか理解できず、茫然としていた。
「さすがは私の弟」
「これが火事場のバカ力ってやつかな? それとも……」
征十郎の放った気に当てられたことに気づいたのは、おそらく静華と弘臣だけだろう。
征十郎は立ち上がると体の自由を奪っていたロープを引き千切り、すばやく移動し、リフィーサの眼前へと迫った。
「リフィーからその汚い手を離せ!」
「トイレから出たら手はちゃんと洗っているんだけどなぁ」
おどけてみせる弘臣に、征十郎はするどく右拳を突き出した。
リフィーサは息を呑んだ。
征十郎がリフィーサの首に押し当てられていたサバイバルナイフの刃の部分を握りしめた。赤い液体が征十郎の腕を伝って床へと滴り落ちていく。
「征十郎、手が……」
「気にするな。愛する女を守るのは男の役目だ。右手の一本くらいたいしたことない」
征十郎は気丈な笑みを見せた。
「リフィー、今すぐ血ケットとやらを使って俺の血を吸え!」
「あなた、私の正体を知ったのね……」
リフィーサはこんな状況にもかかわらず、自分を見る征十郎の目が変わっていないことに安堵していた。そして、征十郎に対する自分の気持ちにも気づき始めていた。だからこそ、血ケットを使うことができなかった。
愛する人と同じ人間でいたい。
そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。
「ダメだわ。私にはできない」
「それではおぬしの病は治らないぞ。吸血鬼に戻ればこの窮地を脱することも可能だろう?」
「もう、いいの。私……もうバンパイアに戻れなくてもいいの」
「リフィー……」
「はい、ラブシーンはそこまで」
弘臣はサバイバルナイフの柄を手放すと、紗耶のそばへと歩み寄る。
「征十郎、ひとつ聞いていいかな? お前はリフィーちゃんがバンパイアに戻ったとしても、さっきと同じことが言えるかい?」
「当然だ。リフィーが人間であろうと吸血鬼であろうと関係ない。例え世界中の人間を敵に回しても俺は全力でリフィーを守る!」
弘臣はヒューと感服したように口笛を吹くと大仰に拍手した。
「俺たちの負けだ。完敗だよ」
弘臣の敗北宣言に征十郎たちは唖然とする。かたや、紗耶は認めないといった感じだ。
「何を言ってるの、弘臣。せっかくのチャンスなのに」
「引き際が肝心だよ。それにもうキミは」
「やだ! 紗耶はあの男の血を吸うんだから!」
紗耶は弘臣が制するのも聞かず、征十郎に飛びかかり首筋に噛みついた。
しかし。
血は吸えなかった。
「どういうこと?」
「おぬし、気付いておらんのか? 自分の牙がなくなったことに」
紗耶は征十郎の言葉を聞いて、おもむろに自分の歯を触って牙の有無を確かめると崩折れた。自分がヒューマン症候群にかかるとは思いもしなかったのだろう。かなりのショックを受けているようだった。
「んじゃ人間になったってことで、お仕置きタイムといこうかね、お嬢ちゃん」
殺意に満ちた双眸で静華は紗耶を見下した。
「許してやってくれないか、姉上。聞けば紗耶も辛い身の上の持ち主のようだし」
「何言ってんの。大人のルールというものをちゃんと教えておいてやらないと」
「私からもお願いするわ、静華」
「ったく、お人好しだね。まあ当事者のあんたたちがそう言うなら仕方ないわね」
静華は泣き崩れる紗耶の頭を軽く小突く。
「あんたも自分を愛してくれる男を捜してみることだね。ま、そんな奇特な男がいればの話だけど」
「大丈夫よ。案外身近にいたりするものだから」
静華とリフィーサは弘臣を見た。
「俺の愛は重いから一人で抱えるのは大変だよ」
いつもへらへら笑っている弘臣もこの時ばかりはどこか寂しそうな顔をしていた。
「征十郎、リフィーちゃんのこと大事にしろよな」
そう言い残して弘臣は紗耶を連れて姿を消した。
後日談ではあるが、弘臣はその昔人間とバンパイアが共存するための組織を設立した人間の子孫だった。バンパイアの世界にも精通していた弘臣は、紗耶の復讐心を利用して征十郎とリフィーサの仲を取り持ちたかったのだという。その理由は「面白そうだったから」の一言で、静華に半殺しの目に遭ったのはいうまでもなかった。
道場の片付け――大半は紗耶の魔力から解放された青年たちがやった――が終わった頃には、すっかり空は茜色に染まっていた。
右手に包帯を巻いた征十郎は、傍らに立つ愛しい金髪の女性を見つめた。
「リフィー、血ケットはもう一枚あるのだろう? それを使えば……」
リフィーサは征十郎の目の前で最後の血ケットを破り捨てた。
「言ったでしょう。私はもうバンパイアには戻らないって。征十郎と共に老いて死んでいくことを選んだの。お母様もお父様も許してくれると思うわ」
リフィーサが目を閉じると、征十郎は狼狽した。
「リフィー、すまない。こういう時に男はどうすればいいのか俺にはわからぬのだ」
「まったく、どこまでも失礼な奴ね。もういいわ。黙って目を閉じて」
「こうか?」
征十郎はきつく目を閉じた。
リフィーサはほんの少しだけ背伸びをする。
そして、二人は唇を重ねた。
おわり
最後まで読んでくださってありがとうございます。