第3章
「ねえ、私のこと愛してる?」
リフィーサはオールバックヘアの橘洋輔の耳元で甘く囁いた。
アロハシャツから伸びた細い右腕にリフィーサの胸のやわらかさを感じて鼻の下を伸ばした洋輔は、何度もコクコクとうなずいてみせた。
リフィーサが日本に来てから、一週間が経過していた。静華が紹介してくれた男性の中から一番まともそうに思えた洋輔を選び、デートを重ねていた。
夜景が見える山頂の公園のベンチには、リフィーサたちの他にも数組のカップルがいた。ここは数少ないデートスポットのひとつだった。
「なら、私のために死ねる?」
この問いにイエスという答えを聞くまでは、血ケットは使えない。目に見えないもの、つまり人の愛を確認することは難しい。そのため、リフィーサは自分のためなら死ねるという男性を探すことにしたのだった。
(ああ、面倒だわ。どうしてこんなまどろっこしいことをしなきゃいけないのかしら。本当にこんな方法でバンパイアに戻れるの?)
疑心暗鬼にかかってしまったリフィーサは胸中で愚痴る。
「オレはリフィーのためなら死ねるぜ!」
洋輔は親指を一本立てて笑顔を見せて答えた。
「本当に?」
「本当だ。死ねと言われれば今すぐにでも死んでみせる!」
「ありがとう。私、とてもうれしいわ」
笑顔とは裏腹に抑揚のない言葉だったが、洋輔を有頂天にさせるには充分だった。
この男は私のことを愛している、と確信した。
リフィーサは洋輔の首に両手を回して顔を近付けると、あらかじめ右掌に隠してあった血ケットを額に貼り付けた。彼女の碧い瞳が真紅の輝きを見せる。薄紅色の唇が開くと、犬歯が覗いて見えた。
リフィーサはおもむろに洋輔の首筋に牙を突きたてた。
「……リフィー」
洋輔は恍惚して、名を呟く。
「!」
リフィーサは洋輔の首筋から牙を抜くと、口に含んだ血を吐き出した。洋輔は惚けたままピクリとも動かない。
「不味い……。まさかこの男、他のバンパイアに血を吸われているの?」
洋輔の首を確認する。バンパイアによるものと思われる、小さな傷跡が二ヶ所あった。
「うかつだったわ」
悔しげに歯噛みする。慎重に事を運んだつもりが、ここにきて凡ミスを犯してしまった。ヒューマン症候群の治療として必要とされる人間の血は、他のバンパイアに血を吸われていては意味を成さない。
しかも、失敗の代償としてまたしても二十四時間眠り続けなければならない。
「こんなところで眠るわけには……」
リフィーサは急激に襲いくる睡魔と闘いながら、ふらつく足取りで公園を出ようとする。しかし、数歩進んだところで、完全に睡魔に指導権を奪われた。自由を失った体はまるで糸の切れたマリオネットのように崩れ倒れていく。
そんなリフィーサの体を支えたのは、草の茂みから現れた静華だった。
静華に軽々と抱えられて公園を出て行くリフィーサを見つめる少女がいた。髪は肩のところで切りそろえられ、カップルばかりの公園に来るにはまだ早い年頃と思えるあどけない顔をしていた。真紅色の瞳が妖しく輝き、この暑さの中で瞳と同じ真紅色のコートで全身を包み、涼しげな笑みを浮かべていた。
少女はベンチに一人取り残され未だに惚けている洋輔の隣に座り、くすくすと小さな笑い声を立てた。
「洋輔はもう紗耶のものなんだよね。あんたには人間の血は一滴も吸わさせはしない。一生人間のままでいればいいんだ」
少女――望月紗耶はその柔和な笑顔とは対照的に冷淡な声でそう呟くと、洋輔の首筋に自分の牙を突きたてた。
リフィーサが目を覚ましたのは翌日の夜のことだった。
「ねえ、バンパイアに戻れた?」
開口一番に静華は瞳を輝かせて聞いてきたが、リフィーサは黙って首を横に振った。
「どういうこと? 昨日のデートを見た限りでは血を吸っていたみたいだったけど」
「他のバンパイアに血を吸われた人間の血では効力はないのよ。まさか他のバンパイアに邪魔されるなんて思ってもみなかった」
日本人バンパイアを母に持つリフィーサは、この土地にもバンパイアがいることは承知のはずだった。しかし、焦燥感が冷静な判断力を鈍らせていた。
静華の機転で――興味本位でデートを覗き見していただけのような気もするが――公園で二十四時間寝ることは免れたが、貴重な血ケットをまた一枚ムダにしてしまったことが悔やまれてならなかった。
「リフィー以外にもバンパイアっているのね。まあ不思議じゃないか。でも、私の舎弟に手を出すなんて許せないわね」
静華は両手の指の関節をボキボキと鳴らし、見知らぬバンパイアに殺意を漲らせていた。が、携帯電話から何やら可愛らしい着信音が鳴り響くと、一瞬にしてその殺意は木っ端微塵に砕け散り、頬を紅潮させ鏡の前で身なりを整え始める。
「ダーリンからなの。ちょっとごめんね~」
声色まで変わった静華は、ウインクすると軽やかなステップで部屋を出て行った。
静まり返った室内で、リフィーサは手の中に残った一枚の血ケットを握りしめた。
「あと一枚……」
不安が心を支配する。もう失敗は許されない。失敗すれば人間として短い一生を送ることになるだろう。それならば今ここで死を選ぶ方がマシだ。それだけ彼女はバンパイアであることに誇りを持っていた。
「静華に紹介してもらった男に好みのタイプはいなかったし、こうなったら当初の予定通り自分で男を捜しに行くしかないわ」
静華が男性を紹介してくれていたおかげで怠慢になっていたが、本来は自分で特効薬なる男性を探すつもりでいたのだ。人間など当てにせず最初から自分で探すべきだったと自責の念にかられた。
そう思うとこんなところでのんびりと寝てなどいられない。今すぐにでも探しに行かなければ。そのためには、まずは汗でベタついた体と二十四時間眠っていた脳みそをすっきりさせるためシャワーを浴びに行こうとしてリフィーサは部屋を出た。
すると、部屋の前でまたしても右往左往している征十郎に出くわした。どうやら心配で居ても立ってもいられなかったらしい。
「リフィーサ、もう大丈夫なのか?」
「別に」
難病の話を信じて身を案じている征十郎を鬱陶しく感じ、リフィーサは短く答えた。それでもしつこく心配してくる征十郎を振り払って浴室に向かおうとするが、めまいを感じて思わず壁にもたれかかる。
「顔色が悪いぞ。医者に診てもらった方がいいのではないか?」
「平気よ。ちょっと血が足りないだけだから」
消え入りそうな声でリフィーサがそう言うと、征十郎は大仰に驚いてみせた。
「そ、そうだったのか。早く言ってくれればよかったものを。まだスーパーは開いている時間だな。よし、すぐに買出しに行ってくる!」
征十郎は玄関に向かって走り出した。
「何なの、あいつ?」
リフィーサは征十郎の背中を一瞥して首を傾げた。
征十郎は築地塀の曲がり角で、出会い頭に赤いコートの少女と軽く肩がぶつかった。
「すまない、大丈夫か?」
「あんた、あの家の人?」
少女は築地塀の向こう側に見える家屋を指差した。
「ああ、そうだが」
「ふーん」
少女の瞳が妖しい輝きを放つ。しかし、征十郎は少女が放つ禍々しい眼光に物怖じする様子はなかった。逆に少女の方が唖然としているように思えた。
「悪いが、俺は今猛烈に急いでいる。入門希望者なら大歓迎だが、今日はもう遅い。ご両親が心配しているぞ。一度家に戻って、明日の朝にでもまた訪ねて来てくれ」
征十郎は少女の頭をなでると、猛ダッシュでスーパーに向かって駆け出した。
少女は忌々しげに征十郎の背中を見つめ、怒りに体を震わせて両拳を強く握りしめた。
「紗耶のことを子供扱いしたあげくに魔力が通用しないなんて……。あいつ、許せない! 絶対に紗耶のものにしてやるんだから!」
日本のお風呂が気に入って、ついつい長湯をしてしまったリフィーサが部屋に戻ろうとしていると、征十郎に呼び止められた。
「夕飯の支度ができているぞ」
「いらないわ。私、これから出掛けるの」
「ならば、尚更食べておいた方がいい」
「いらないって言っているでしょ」
「そうはいかん」
征十郎はリフィーサを抱きかかえると、居間に向かって歩き出す。
「ちょっと何するのよ! 下ろしなさい!」
「ダメだ。二十四時間眠ったままで何も食べてはおらんのだろう。少しでも食べて体力をつけねば病魔には勝てぬぞ」
確かに今のリフィーサには征十郎に抗う体力すら残っていなかった。
「わかったわよ。だから、下ろしてちょうだい」
リフィーサは仕方なく征十郎につき添われる形で食事が用意されている居間へと歩き出した。
座敷のその部屋には不似合いなダイニングテーブルがあった。座卓で食事を取るのはリフィーサには不便だろういうことで、静華が便宜を図ったものだった。
ダイニングテーブルには四人分の食事が用意されていた。疑問に思ったがすぐにその答えにたどり着いたリフィーサは、ダイニングテーブルに当たり前のように腰掛けている人物を見て不快感を露わにした。
「こんばんは、リフィーちゃん」
弘臣がダイニングテーブルに頬杖をついて満面の笑みで迎えた。
リフィーサは物憂げな表情で静華の横に座った。
「すまんな、リフィーサ。帰れと言ったのだが」
「そんな言い方はないだろう。征十郎がスーパー袋提げてダッシュで帰っていくのを見かけたから、静華師範が戻ってきているんじゃないかと思って馳せ参じたっていうのにさ。いやー、師範はいつ見てもお美しいですねぇ」
「弘臣ったら相変わらず正直な子ね。でも、私のことを師範と呼ぶのはもうやめてちょうだい。今は普通の主婦なんだから」
「普通の主婦は弟が作った料理を毎晩もらいには来ないだろう」
征十郎はボソッと小声で愚痴をこぼす。普段ならここで静華の右ストレートが炸裂するところだが、どうやら真崎から電話があったおかげで上機嫌らしく、征十郎の愚痴も笑ってスルーした。
「さあ何にもないけど好きなだけお食べなさい」
「姉上!」
「いいじゃないの。たまには大勢で食べる方が賑やかで美味しいでしょ。それになんだかんだ言いながらちゃんと弘臣の分も用意してあるんだし」
征十郎は渋々と、だが手際よく弘臣の分のご飯を茶碗に盛る。
「レバーの煮付け、しじみの味噌汁、ほうれん草のおひたし、れんこんのきんぴら。どれも鉄分たっぷりの料理ばかりだねぇ」
「血が足りんと言っては姉上に毎月こういった料理ばかり作らされていたのを思い出したのでな。これを食べればリフィーサも元気になるだろう」
「リフィーちゃんは幸せ者だねぇ」
リフィーサは完全に弘臣の存在を無視して、料理を口に運んだ。和食はイギリスでも何度も食べていたが、征十郎の料理は格段に美味しく思えた。リフィーサの体を気遣い、庭で採れた新鮮な野菜を使ってバランスの良い料理を作ってくれていた。征十郎は嫌いだが、彼が作る料理は好きだった。
「これだけ征十郎の世話になってるんだから、元気になった暁には何かお礼をしなきゃねぇ、リフィーちゃん」
リフィーサは無言で弘臣を睨みつけた。
「弘臣、俺は貴様から礼を受けた記憶は一度もないがな」
「やだな、征十郎。俺とお前の厚い友情の間にそんなものは必要ないだろう。っていうか、今は俺のこと言ってるんじゃないんだけどな」
弘臣はやぶへびだと肩をすくめて、食べるだけ食べてとさっさと帰っていった。
リフィーサも食事を終えると、小さく「ごちそうさま」と告げて居間を出た。出掛けるつもりだったが、外で弘臣に出くわすと面倒なことになりかねない。出掛けるのを諦念して部屋に戻り、その日は早く寝ることにした。