第2章
目を覚ましたリフィーサが最初に見たものは、厚みのあるピンク色の唇の端を吊り上げて微笑む女性の顔だった。素顔にロンパースといったラフな格好で雰囲気は違って見えたが、ゴスロリファッションの女性と同一人物だろう。
「ホントに二十四時間目を覚まさなかったわね、リフィーサ・ミシュリーネさん」
「あなた誰? どうして私の名前を知っているの?」
リフィーサは警戒心を露わにすると、天蓋付のベッドから素早く半身を起す。女性の手にはリフィーサのパスポートがあり、足元には無理矢理開けたと見られるスーツケースがあった。リフィーサが眠っている間に物色したのだろう。日本人はマナーという言葉を知らない人種だと、また悪評のレッテルを貼りつけた。
「私は真崎静華。征十郎の姉よ。単刀直入に聞くけど、あなたバンパイア?」
リフィーサの表情が一瞬強張ったが、すぐにとぼけたように首を傾げた。
「ごめんなさい。私、日本語がよく理解できなくて」
「とぼけたってムダよ。ねえ、どれくらい強いのか私に見せてよ」
静華はリフィーサの小さな顔を鷲掴みにすると、そのままベッドに押し倒し、彼女の体の上に馬乗りになる。必死に抵抗するリフィーサだが、静華はビクともしない。
「ヒューマン症候群になると、魔力も使えなくなるのね。つまんない。ま、それを治すために日本に来たんでしょうけど」
静華はがっくりと肩を落とすと、リフィーサの体の上から退く。
リフィーサは警戒心を解くことなく、ゆっくりと半身を起こす。そんなリフィーサを見て、静華は朗らかな笑みを見せる。
「安心して。私はあなたの協力者だから」
「協力者?」
「統子ちゃんの遺言ってとこかな。ミシュリーネって名前の人が現れたら異性を紹介してやってくれってね。それから、バンパイアのこと、ヒューマン症候群のこと、血ケットのこととか教えてくれた。信憑性に欠ける話だったから死に際のばばぁの戯言かと思っていたけど、まさか本当に来るなんて。さすがの私も驚いた」
「私の正体を知っていて協力すると言っているの?」
「私さ、強い奴と戦うのが好きなのよね」
静華は右拳をリフィーサの眼前に突き出した。
「でも、最近相手になる人間がいなくて退屈していたの。だから、あなたが本当にバンパイアなら一度は戦ってみたいと思ったのよ。強いんでしょ、バンパイアって?」
普通の人間ならば恐怖に慄いて十字架やらニンニクやらバンパイアが苦手とされているアイテムを持ち出して騒ぎ立てそうなところだが、静華はまるで大好きなおもちゃを目の前にした子供のように瞳をキラキラと輝かせていた。
「ま、そういうわけだから。治るまではこの部屋は好きに使ってちょうだい」
「あなた、人間のくせに変わっているわね」
「そう? あ、でも、征十郎は何も知らないはずだから、あなたの正体は隠しておくわね。あなたのことは統子ちゃんの初恋の人の孫で、とある難病の治療のために日本にやってきたってことにするから。そこんところよろしくね」
静華はそう言って部屋を出ると、ドアの前で右往左往していた征十郎の耳を引っ張っていった。心配そうにリフィーサを見つめる征十郎と一瞬だけ目が合ったが、どうにも第一印象が悪かったのか、彼女は嫌悪感を覚えてすぐに目線を逸らした。
静華に引っ張られ自室に入ると、征十郎はリフィーサがしばらくの間北見沢家に滞在することになったと告げられた。難病の治療のためと聞いた征十郎だが、いささか納得がいかなかった。あの傲慢な態度はとても病人のようには思えなかったからである。しかし、一日中眠っていたところを見ると、元気そうに見えてもやはり何か病気を患っているのかもしれない。しかも、統子と縁のある人間だと知れば尚更放っておくわけにもいかなかった。
「ところで姉上はいつ帰るのだ?」
「当分はここにいるわよ。私はここで寝るから、あんたは父さんたちの部屋で寝なさいね」
「家には真崎先生がいるのでないか?」
静華の夫、真崎匡は彼女の女子高時代の担任教師だった。姉の結婚相手は世界一強豪な男だと思っていただけに、世界史を専攻とする極普通の高校教師だったと知った時にはさすがの征十郎も驚愕した。だが、今思えば、当時『ゴスロリの魔女』と恐れられていたあの静華の言動を笑って許してくれる温厚な性格が最強の武器だったのかもしれない。静華が高校を卒業すると同時に結婚し、近所のアパートに住まいを構えている。結婚してもう三年経つが今でもラブラブな夫婦だ。
「ダーリンはイタリアの何とかってとこで何とかっていう遺跡が見つかったとか連絡があって二週間は戻ってこないの。だから、どっちにしたってここに戻ってくる予定だったのよ」
「そういうことは前もって言ってもらわねば困る」
「何言ってんのよ。昨日そのことを電話で話そうとしたらあんたがすぐに電話を切ったんでしょうが!」
正論なだけに何も言い返せない征十郎だった。
「それに、ひとつ屋根の下に若い男と女を二人きりにさせるわけにはいかないでしょ。まあ姉としては十七歳になってもチェリーなあんたを男にしてあげたいってのが本音なんだけど、相手が相手だけにね」
「何を言っているのだ、姉上。俺は生まれたときから男だ。サクランボなどではないぞ」
「あー、はいはい。そうね、男だね」
剣術のことしか考えてない堅物な弟を見て、静華は嘆息した。
一人部屋に残されたリフィーサは、大きな吐息をもらした。
「あの人間、信じていいのかしら?」
バンパイアであるリフィーサは、人間になってしまうバンパイア特有の病気、ヒューマン症候群にかかっていた。なぜそのような病気にかかってしまうのか、原因はまだ解明はされていない。
バンパイアであることを誇りに生きてきたリフィーサにとって自分が人間になってしまったことは屈辱以外の何物でもなかった。
唯一の治療方法は、リフィーサのことを心底愛してくれた人間の男性の血を、自らの牙によって吸うことだった。しかし、人間になってしまったリフィーサは、バンパイアの証しである牙と人間を惑わす魔力を失っている。
そこで必要になってくるのが、八十年ほど前に日本で開発された血ケットだった。それさえあれば三分間だけバンパイアの能力を取り戻すことができた。今では世界各地どこでも入手は可能だが、当時は日本に行かなければ入手することができないくらい希少なアイテムだった。
リフィーサの父もその昔ヒューマン症候群を発症し、血ケットを求めて来日し治療に成功したのだという。その後、日本人バンパイアである母と知り合って大恋愛の末に結婚。日本での滞在中にいろいろと世話になったのが北見沢統子だったらしく、日本に行って彼女に会えと父が助言してくれたのだった。しかし、当の統子はすでに他界し、慇懃無礼な曾孫しか残っていなかった。
(もしかしたら、お父様に血を与えてくれた女性っていうのが北見沢統子だったのかしら?)
父は詳しいことは何も教えてはくれなかった。統子さえ生きていれば重要なヒントを得られることができたかもしれないというのに。
「残る血ケットは、あと二枚……」
リフィーサはワンピースの胸元から小さな赤い紙を二枚取り出し、淡いピンク色のシーツの上に置いた。
血ケットの使用限界枚数は三枚。それ以上は使用しても免疫ができてしまい、効果がなくなるということだった。貴重な一枚を焦燥感にかられて使ってしまったことを、リフィーサは後悔していた。しかも、自分の正体を知っているかもしれない謎の青年に。軽薄そうに見えたが、闇色に輝く瞳が何か得体の知れない恐怖のようなものを感じさせた。
「けど、人間だと言っていた」
弘臣の存在は気になるが、今はバンパイアに戻る方が最優先である。そのためにも同じミスは許されない。慎重に事を運ばなければならない。
「あの女の言うこともどこまで当てになるかわからないし」
男を紹介してくれると言った静華の言葉など最初から信用していなかった。
だが、翌日になると静華は約束どおり数人の男性――舎弟だと言っていたが――を紹介してくれたのだった。