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第1章

 リフィーサ・ミシュリーネはどこまでも果てしなく続く築地塀を横目に、大きな四脚門の前に立っていた。

 門扉の横には、北見沢道場と達筆な文字で書かれた看板が掲げられている。

「どうやらここで間違いなさそうね」

 リフィーサは夏のきつい日差しを背中に感じながら、小さく吐息をもらす。金色に輝く長い髪を一度かきあげてから、旅行用のスーツケースを片手に、母屋へと誘う石畳を歩き出す。ワンピースの裾が軽やかに揺れ、サンダルのヒールがリズムを刻む。

「うちに何かご用か?」

 ふいに声をかけられ、リフィーサは一瞬体を硬直させた。そして、ゆっくりと声のする方向へ振り向く。漆黒の髪を無造作に一つに束ね上げた、道着と袴姿の体躯の良い青年が母屋の角先に立っていた。右手にキュウリとトマトが入ったザルを持っている。年の頃は十七、八歳といったところだろうか。

「あなた、ここの人? 私、北見沢統子という人に会いに来たのだけど」

 リフィーサが問うと、青年は驚愕して持っていたザルを落とす。キュウリとトマトが地面に散乱する。

「も、もしや入門希望者か?」

「え?」

「さすがは大ばば様だ。異国の地にまでその名を馳せるとは。うちの道場も有名になったものだ。父上と母上の武者修行の旅もムダではなかったということか!」

 青年は興奮した様子で駆け出し、リフィーサのか細い右手を握りしめた。

「歓迎するぞ!」

「な、何をするの? 放しなさい! 人間風情が気安く私に触らないで!」

 激昂したリフィーサは右手を振りほどくと、そのまま青年の頬に平手打ちを放つ。

乾いた音が閑静な庭に木霊した。








「大ばば様の客人に無礼なことをしてしまって大変申し訳ない!」

 北見沢征十郎きたみざわせいじゅうろうは自分の犯してしまった過ちを素直に認め、非を詫びた。畳に額を擦りつけ、何度も謝罪の言葉を連呼した。

庭に面した座敷に通されたリフィーサは、上座に座って征十郎を冷ややかに見下ろしていた。障子は開け放たれており、池で鯉が跳ねると涼しげな音を立てた。

「私の方こそ気が動転してしまって、つい」

 征十郎に比べると、抑揚のない謝罪だった。碧い双眸にはまだ怒気が残っている。もう二、三発引っぱたいたくらいではこの怒りは治まらないだろう。

「それにしても、北見沢統子きたみざわとうこが他界しているなんて知らなかった」

 リフィーサの呟きにも似た小さな声に、顔を上げた征十郎は表情に翳りを見せた。

「もう十年前の話だ」

「あなたは統子の血縁者よね?」

「俺は曾孫だ」

「そう。じゃあ早く部屋へ案内してくれるかしら? 私、長旅で疲れたの」

「部屋に案内とは、どういう意味だ?」

 征十郎は首を傾げた。

「もういいわ。自分で探すから」

 長旅の疲れからか、征十郎の対応の遅さに苛立ちを感じたリフィーサはそう言って、ロウカに出る。

 次々とふすまを開けていくリフィーサ。その後を追いかけては、開けっ放しになったふすまを閉じていく征十郎。先刻の非礼もあって、無下に引き止めることができずにいたようだった。

「さっきから何をやっているのだ?」

「私の部屋を探しているのよ」

 リフィーサが木製の洋風扉に手をかけると、征十郎が叫んだ。

「その部屋の扉は開けるな!」

 リフィーサは征十郎の制止する声を無視して扉を開けた。そこには日本家屋には不似合いなロココ調家具で統一された乙女チックな部屋があった。

「いい部屋があるじゃないの。私ここにするわ」

 リフィーサは天蓋付きのベッドに腰を下ろした。

「ここはダメだ。姉上の部屋だ」

「だったらその人には別の部屋に移ってもらってちょうだい」

「いや、姉上はもう嫁いでいるので、この家にはいないのだが」

「だったら問題ないでしょう」

「大ありだ。姉上はこの部屋をこよなく大切にしている。他人が侵入したと知ったら……。と、とにかく急いでこの部屋から出るのだ」

 顔面蒼白の征十郎はリフィーサの右腕を引っ張った。

「ちょっと、私に触らないでと言ったでしょ!」

 しかし、征十郎は詫びる様子もなく、無言で室内からリフィーサを引っ張り出した。透き通るような白い頬を赤く染めて激昂したリフィーサは、空いた左手で征十郎の頬を叩きつけようとしたが、難なく阻止された。

「今回の無礼はおぬしにある。だいたい俺はおぬしが誰なのか、いったい何の用で当家に来たのか、何も聞かされていない」

「私、帰る。お父様が日本に行くのならここで生活すればいいって言ったから来たのに、こんな仕打ちを受けるとは思わなかったわ」

 駄々をこねたあげくに父親に叱られてすねた子供のような反応に征十郎は戸惑った。これでは征十郎が完璧に悪者扱いである。

「いや、俺はただ」

「もういいわ。イギリスに帰るから、放してちょうだい!」

 リフィーサは征十郎の手を振りほどき突き飛ばす。征十郎は壁に押し付けられる形になっただけで、転倒することはなかった。それも面白くなかったのか、リフィーサは無言で睨みつけると、そのまま来たロウカを足早に戻っていく。

「お、おい」

 リフィーサを引き止めようとした征十郎だったが、隣の自室から電話の着信音が鳴り響き、舌打ちする。電話の相手がわかっているような面持ちで。







 リフィーサは玄関に向かい、格子戸に手をかけた。すると、格子戸の向こうからキュウリを片手に持った青年がひょっこり入ってきた。

「おーい、征十郎。玄関前に野菜が散乱していたぞー。って、あれ? かわいい女の子発見。珍しいねぇ。こんな寂れた道場に、金髪美人がいるなんて」

 青年は目を瞬かせる。

品定めでもするかのように上から下まで見つめられ、リフィーサは不快感を露わにし、嘆息した。

(日本にはまともな男はいないのかしら?)

「まさか入門生ってことはないよね? どう、彼女? こんな古臭い道場にいないでさ、俺とどこか遊びに行かない?」

 青年は外国人であるリフィーサに臆することなく、日本語で誘ってくる。

 今度はリフィーサが青年を品定めする番だった。

服装はパーカーとカーゴパンツ。髪は茶色に染めている。片耳にはピアス。どこにでもいそうな軽薄な日本人。第一印象はそんなところだろうか。征十郎と同じくらいの年齢のようだが、堅物な彼とは正反対のように思えた。

「あなた、私のことが好きになったの?」

「さすがは碧い瞳のお嬢さん。言うことがストレートだねぇ。けど、そういうのは嫌いじゃない。そうだな。俺はキミに一目惚れしてしまったみたいだ」

「……そう」

 リフィーサは口元に笑みを浮かべると、ワンピースの胸元から小さな一枚の赤い紙を取り出し、それを額に貼りつけた。赤い紙はまるで体の中に吸い込まれるように消滅していく。碧かったリフィーサの瞳は真紅へと変貌していき、可憐な指先が青年の頬へと伸びていく。

「ふーん、俺なんかの血を吸うために貴重な血ケットを使ってもいいのかなぁ」

「!」

 リフィーサは咄嗟に青年から離れる。

「あなた、何者?」

「世界平和を夢見る、極フツーの人間」

深津弘臣ふかつひろおみと名乗った青年は破顔してキュウリを一口かじった。

「弘臣!」

 遅れてやってきた征十郎が一喝した。

「おー、征十郎」

「おー、ではない! 貴様、何をした?」

「俺はまだ何もしてないぜ。な、お嬢さん?」

 同意を求められ、リフィーサはぷいとそっぽを向く。

「まったく、久しぶりに顔を見せたかと思えば、節操なしに女性に手を出しおって」

「心外だなぁ。俺は落し物を届けに来てやっただけなのに。ま、お取り込み中みたいだから、今日は帰るとするか」

 弘臣は食べかけのキュウリを征十郎に渡すと、ひらひらと手を振りながら玄関を出ていった。

(あの男、血ケットのことを知っていた?)

 リフィーサは弘臣が出て行った玄関の格子戸を凝視した。

「っ?」

刹那、格子戸がぐにゃりと歪んで見えた。いや、格子戸だけではない。心配そうに覗き込んでくる征十郎の顔も歪んで見えた。

 リフィーサは右手で自分の視界を覆う。

 副作用。

 イギリスを発つ前に母から言われた言葉が脳裏をよぎる。

(確か……)

 思い出そうとするが、思考回路が働かない。

 そんな時。

 一度は閉ざされた格子戸が勢いよく開いた。弘臣が戻ってきたのかと思いきや、入ってきたのは殺意を漲らせた亜麻色の縦ロールヘアにゴスロリファッションの女性だった。

「征十郎! お姉様からの電話を勝手に切るとはどういう了見なの?」

 女性は入ってくるなり、征十郎の胸倉を掴んで玄関の外に放り出した。征十郎の体が人形のように軽々と宙を舞う。石畳に打ちつけられるかと思われたが、しなやかなネコの動きのように体をうまく回転させて着地する。

「甘い!」

 間髪いれずに、女性は着地したばかりの征十郎に飛び蹴りを見舞った。さすがの征十郎もよけきれず、今度は石畳の上に背中をしたたかに打ちつけた。

「私に勝とうなんて一億年早い!」

「いや、一億年は姉上も俺も生きていないと思うのだが」

「例えでしょ! 相変わらずノリの悪い子ね! そのへらず口がきけないように一生眠らせてやろうかしら」

 真顔で突っ込みを入れてくる征十郎に、女性は両手の指の関節をボキボキと鳴らしながら双眸に剣呑な輝きを宿す。

(何なのよ、あの二人は? 眠る……?)

 そんな二人のやりとりを見ながら、リフィーサは睡魔の深淵に沈む直前にようやく母の言葉を思い出した。

 ――失敗すると二十四時間は眠ったまま起きないから、くれぐれも気をつけて使うのよ。








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