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第五章(終)

 禁域の扉の前で、セドリックはただ、立ち尽くしていた。

 どれほどの時が過ぎたのかも、分からない。


 扉が、音もなく開いた。


 「――兄上」 

 

 そこにいるのは、確かにセラフィールだった。

 だが、それはセドリックの知るセラフィールではなかった。


 純白だった髪に、細く金の筋が混じっていた。

 内側から滲み出るように、淡く。


 そして――。

 固く閉ざされていたはずの瞼が、わずかに開いていた。

 その奥に覗く金の瞳。

 だが、焦点はどこにも結ばれておらず、見えてはいないとわかる。


 ――神化。

 神が器を満たし始めていた。


 「戻りましょう」

 「……はい」


 色濃く残る異質な気配。ここに留まるのは危険だ。

 セドリックは兄の手を取り、ゆっくりと元来た道を歩き出した。


 セラフィールの神化は日ごとに進んでいった。

 純白だった髪は、金に近づく。


 神化が進むにつれ、セラフィールは徐々に人としての反応を失っていった。

 今はもう、セドリックの呼びかけにも答えることなく、食事に手をつけようともしない。

 身体を寝台に横えたまま、宙を見つめるのみ。


 長い髪がほぼ金に変わり、一筋の白髪を残すのみとなったある日。


 セラフィールがしばらくぶりに、小さくセドリックの名を呼んだ。

 「はい、兄上」

 セドリックは兄の枕元に膝をつき、顔を寄せる。


 「……セドリックは」


 神化が進む前と同じ、やわらかく穏やかな気配。

 髪の色さえなければ、神化のことなど忘れてしまいそうになる。


 静かな口調でセラフィールは続けた。


 「私が、人でなくなっても……」


 顔はあおむけたまま、金の瞳をセドリックに向けることもなく。

 手だけをためらいがちにセドリックに伸ばす。


 「……私のことを、兄と呼んでくださいますか?」


 あの時と、同じ問い。

 声は乞い願うように揺らぎ。

 その響きは、セドリックの胸を締め付ける。

 

 幼い日の記憶が甦る。

 幼い頃からセラフィールは何も望まなかった。

 そのセラフィールのただ一つの願い。


 「もちろんです」


 セドリックは兄の手を取った。

 兄の手はかすかに震えていた。


 セドリックはその震える手を両手で包む。


 「たとえ、人でなくなったとしても」


 セラフィールの金の瞳を見つめる。兄はセドリックを映さない。

 ならば、セドリックが兄を瞳に映せばよい。


 「あなたは私の兄上です」


 セラフィールの金の瞳から、涙が一筋流れた。


 セドリックの手に、セラフィールはもう一方の手を重ねた。ため息よりも密やかに、言葉が零れる。


 「もう少しだけ、私は……」


 その直後。

 全てが、止まった。


 セラフィールの指先から、温もりが零れ落ちる。


 「兄上……?」


 セラフィールから光が滲み出す。

 脈打つように、溢れるように、神の気配が満ちてゆく。


 その瞬間――。


 「時は、満ちた」


 セラフィールの声で、セラフィールではないものが告げた。


 髪は完全な金。

 圧倒的な光が膨れ上がり、セラフィールの形に収束した。


 それはセラフィールの形をした、神だった。


 この世を映さぬ金の瞳は、完全に開かれている。

 そこには、もう人の気配はほとんどない。


 セラフィールは滑るように、音もなく移動する。

 それは、もはや人の歩みではなかった。


 気がつけば、禁域を守る結界の前に立っていた。

 扉の前で、動きが止まる。


 やがて、ゆっくりと――

 セラフィールの身体が、セドリックを向いた。


 開かれた金の瞳。


 何も映さぬはずの、その瞳の奥深く――。

 小さく、しかし確かに、セドリックを探すように、揺らめいた。

 何かを伝えようとするように、かすかに唇が動いた。


 だが――声にならない。


 セドリックはセラフィールの身体を強く抱きしめた。


 「兄上!」


 神が封印を正した後、セラフィールがどうなるのか分からない。


 人に戻れるのか。

 この世界に戻ってこられるのか。


 その時――


 「……行かなければ」


 セラフィールがセドリックの腕をほどいた。


 ゆっくりと一歩、足を踏み出す。

 片足を引きずるその歩みは、人としての名残を留めているように見えた。


 「たとえ……戻れなくても」


 セラフィールは微笑んだ。


 この世界の綺麗なものすべてを集めたような微笑み。


 「私は、神の器なのです」


 その瞬間――。


 完全に――神が器に満ちた。


 セラフィールから眩い光が溢れ出す。

 光は圧となって、空間を支配した。

 息をすることすら、できない。


 セドリックは、その場に膝をついた。

 その存在はもはや、人のものではなかった。

 神は扉に吸い込まれるように溶けて消えた。


 その途端――

 空気が蠢いた。音もなく、断末魔のように軋む。


 しかし、すぐに凪いだ。


 重く立ち込めていた気配が、静かに薄れていく。

 すべてが、元と変わらぬように、静まった。


 そして――どれほどの時間がたったのか。


 禁域の外に、セラフィールが再び姿を現した。


 その髪は、純白。


 その場に崩れ落ちるセラフィールを、セドリックは抱き止めた。

 セラフィールから、圧倒的な気配は感じない。


 封印は正され、神は去った。


 セドリックは腕の中の兄を抱きしめる。

 

 「……兄上」

 「セド……」


 セラフィールはセドリックの名をかすかに唇に乗せた。

 何かを探すように指を動かし、セドリックの頬にそっと触れる。


 「兄上っ……!」


 セドリックは、腕の中の重みを確かめるように、ゆっくりと抱きしめる力を強めた。


 「……もう、どこにもお行きにならないでください」


 「神は去られました」


 それは、神化する以前と変わらぬ、穏やかな兄の声だった。

 セドリックは息を呑み、それからゆっくりと目を閉じる。

 腕の中の温もりは、確かに、ここにある。


 セドリックは、もう一度だけ強く、兄を抱きしめた。


 二人の上に、金色に輝く光が差していた。

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