第7話
協会の換金窓口は、登録窓口より少しだけ愛想がなかった。
受付番号を呼ばれてカウンターへ行き、昨日持ち帰ったレッサーラビットの魔石と素材をトレーに乗せる。
担当の男は慣れた手つきでそれを確認し、端末に何かを打ち込み、金額をこちらへ向けた。
俺は提示された数字をノートに書いた。
レッサーラビット1体。
魔石・素材込み、1,000円。
「まぁ、こんなものか」
命を懸けた戦いの対価としては安いと思ったが、でもお金になるのは学生にはありがたい。
換金を済ませて外へ出る。
昼の光が少し眩しかった。
昨日は帰りの記憶が薄い。
スライムに遭遇したところで神経がそちらへ持っていかれ、換金までの手順はほとんど作業で処理した気がする。
駅へ向かう途中、スマホを取り出してスライムの情報を開いた。
昨日見た灰色の塊を思い出しながら、検索結果を絞っていく。
初心者向け、浅層、対処法、核、酸。
必要な単語だけを拾って、余計な体験談は飛ばす。
こういうとき、「俺はスライムをワンパンしてます」みたいな記事は本当に邪魔だ。
たいてい参考にならない。
帰宅して、靴を脱ぎ、ノートを開く。
そのままキューブを出す。
消す。
また出す。
消す。
検索結果を流し見しながら、手だけは止めない。
こうしていると、読んだ情報が頭に入りやすい気がする。
気がするだけかもしれないが、少なくとも累積回数は無駄にならない。
気休めと実益が両立するなら、もうそれは良い習慣だ。
出す。
消す。
出す。
消す。
スライムは、一般的にはレッサーラビットよりやや弱い初心者向けモンスターとされていた。
危険度は低く、動きも遅い。
そして突進力もない。
酸性の体液を飛ばす、あるいは接触で付着させる個体が多いが、浅層種の酸は致死性が低く、せいぜい肌が荒れる程度らしい。
ただし、弱いから適当に殴っていいわけではない。
そこを勘違いした初心者が、顔や目に酸を受けて大騒ぎする例はそこそこ多いらしかった。
死なないが、痛い。
死なないが、面倒。
そういうタイプの敵だ。
そして、弱点は核。
体の内部にある黒い球体を破壊すれば活動を停止する。
俺はそこでキューブを出す手を止めた。
黒い球体。
昨日見たスライムの身体を思い出す。
灰色で、輪郭が定まらなくて、キューブに当たってもぐにゃりと流れた。
確かに、中心あたりに少し濃い部分があった気もする。
ただ、戦闘中はそこまで余裕がなかった。
もう一度、別の資料を開く。
初心者向けの図解付き記事に、スライムの断面図が載っていた。
中央より少し下、揺れながら移動する黒い核。
個体によって位置はぶれるが、よく見れば視認可能。
核の位置に応じて動きが変わる、ともある。
「核さえ潰せば終わる、か。……問題は、どうやって核を正面に持ってくるかだ」
そこだった。
核があると分かっても、狙える位置に来なければ意味がない。
しかも相手は柔らかい。
キューブで正面から止めても、身体を変形させて回り込んでくる。
だったら必要なのは、止めることじゃない。
逃げ道を減らすことだ。
俺はノートを引き寄せ、簡単な略図を書いた。
スライム。
その進路の左右にキューブを1個ずつ。
正面だけを空ける。
左へ流れようとしたら、左のキューブに当たる。
右へ流れようとしたら、右のキューブに当たる。
なら、前に出るしかない。
その前進に合わせて、核が正面へ来た瞬間に叩く。
理屈としては単純だった。
問題は、思った通りに核が動くかどうか。
そこは現地で確かめるしかない。
俺は略図の横に戦術を書き足した。
スライム:キューブ2個で左右を制限。
前進させる。
核が正面に来た瞬間に打撃。
その下に、さらに1行。
酸対策:長袖が望ましい。
書いてから少しだけ考えて、俺はクローゼットを開いた。
昨日は半袖だった。
肌に直接かかる前提で行くのは、たしかに合理性が低い。
季節に対して多少暑くても、長袖の方がいい。
戦術の洗練というほど大げさな話じゃない。
単に昨日、素肌に酸を受ける可能性を考えていなかっただけだ。
……分かってたはずなのに、なんで昨日の時点で気づかなかったんだ。
俺は少しだけ眉を寄せ、それからまたキューブを出した。
消す。
出す。
消す。
このスキルは、派手に強くなるタイプじゃない。
だが、考えた分だけ選択肢が増える。
その手応えは少しずつ見えてきていた。
だったら、やることも決まっている。
考えて、試して、確かめる。
それだけだ。
翌日、俺は長袖に着替えてから家を出た。
新宿第三ダンジョンまでの道は、昨日の時点で頭に入っている。
乗り換えの時間、駅からビルまでの距離、朝の混雑具合。
未知の場所でも、1度通れば2回目はだいぶ違う。
ダンジョン入口の受付で簡単な確認を済ませ、地下へ降りる。
空気の重さは、やはり地上と違っていた。
昨日ほどではないが、肺が少しだけ構える。
空気が湿っているせいか、緊張のせいかは分からない。
たぶん両方だ。
視界の狭さも同じだった。
明るいのに、先が遠い。
曲がり角の向こうに何かいるというだけで、通路全体が少し嫌なものに見える。
俺は通路を進みながら、頭の中で昨日の記録をなぞった。
レッサーラビット。
初手は距離感を外した。
2手目で、軌道基準に切り替えて通した。
スライムは止まらなかった。
柔らかく、回り込む。
核がある。
今日の目的はスライムを倒す事。
それ以上でも以下でもない。
曲がり角を2つ越えたところで、嫌なほど昨日と似た気配が前方に見えた。
灰色の塊。
「いたな」
小さく呟いて、足を止める。
スライムは相変わらず音が薄い。
湿ったものが石床の上をずるりと滑るような気配だけがある。
輪郭は定まらない。
盛り上がったかと思えば横に流れ、中央が沈んだと思えばまた全体が持ち上がる。
見ているだけで、視線の置き場所に困る形だ。
だが今日は、見る場所が昨日よりはっきりしていた。
核。
俺は少し距離を取りながら、灰色の身体の内部へ意識を向ける。
いた。
黒い球体。
昨日は見逃しかけたが、知ってから見れば分かる。
身体の中央より少し下。
完全に固定されているわけじゃない。
移動に合わせて位置も少し変わる。
「一定じゃないのか」
予想通りと言えば予想通りだ。
スライム本体が柔らかい以上、核だけがぴたりと固定されている方が不自然ではある。
問題は、その揺れがどの程度か。
俺は呼吸を浅く整え、スライムの進路を読む。
来る。
速くはない。
だがこちらへ向かってくる意思だけははっきりしている。
昨日の時点で分かっていたことだが、こういう『急がない敵』は逆にやりづらい。
慌ててくれれば軌道が読みやすいのに、こいつは焦らない。
時間をかけて、ただ近づいてくる。
……野ウサギ1匹でもあれだけ消耗したのに、今度はゼリーと根比べか。
「なら、こっちで絞るか」
俺は進路の左へキューブを出した。
「出ろ」
ぽこん。
続けて、右へ。
「もう1個」
ぽこん。
黒い立方体が、灰色の塊を挟むように並ぶ。
スライムが左へ流れようとする。
左のキューブに触れ、形を崩し、少し戻る。
「よし」
今度は右へ広がる。
右のキューブに当たり、また中心へ寄る。
完全に塞げているわけじゃない。
だが、左右どちらへも素直には抜けられない。
身体を逃がそうとするたびに、黒い立方体に進路を削られる。
前だけが空いていた。
スライムは、じわじわと前へ進み始める。
「そうなるよな」
左右に流れられないなら、こいつは前へ出るしかない。
止めたわけじゃない。
選択肢を減らしただけだ。
だが、それで十分だった。
俺はバットを握り直す。
汗で少し滑る。
昨日よりましだが、緊張が消えたわけじゃない。
心臓はまだ速い。
ただ、昨日のラビット相手みたいな爆発的な鼓動ではなく、低く一定の速さで打ち続けている感じだった。
警戒がずっと切れない。
スライムが前進する。
核の位置が揺れる。
黒い球体が中央へ寄る。
ずれる。
また寄る。
まだだ。
もう少し。
身体の表面が左右に割れ、また戻る。
核がそこに引っ張られる。
前へ。
もう一歩。
「そこだ」
バットを振る。
手応えは、ラビットのときとまるで違った。
柔らかい外側を抜けて、奥の硬いものへ届く感触。
ぬるい抵抗の先に芯がある感じだ。
気持ちが悪い。
だが、当たった感触はあった。
スライムの身体が大きく揺れた。
形が崩れる。
左右に広がる。
戻らない。
もう一度叩くべきかと考えたが、その前に変化が起きた。
灰色の身体が、細かい光の粒になってほどけ始めた。
「……消えた」
粒子が空中へ散り、消える。
あとには小さな魔石と、半透明のゼリーみたいな素材だけが床に残った。
俺はしばらくその場に立ったまま、今の流れを頭の中で反復した。
罠を作った。
相手が、自分から入ってきた。
ラビットのときみたいに、ぶつかった衝撃で止めたわけじゃない。
左右を塞いで、前に出るしかない状態を作って、その先で核を叩いた。
純粋な停止じゃない。
誘導だ。
「火力じゃなく、選択肢か」
キューブは相手を消す力じゃない。
だが、相手の動きを狭めることはできる。
狭めた先に弱点が来るなら、それで十分戦術になる。
俺は魔石と素材を拾い、ノートを開いた。
スライム:キューブで左右の選択肢を奪い、前進を誘導。
核が正面に来た瞬間に打撃。
そこまで書いたところで、左腕にひりつく感じが走った。
「ん?」
袖をまくる。
前腕のあたりが少し赤くなっていた。
かすかにぬめりが残っている。
さっきバットを振ったとき、スライムの体液が少し飛んだらしい。
痛いというほどではない。
だが地味に不快だ。
肌がじわじわ熱を持っている。
俺はその赤みを見ながら、ノートの端に1行だけ書き足した。
軍手などが必要。
書いてから少し考える。
「……いや、最初からそうしろって話か」
長袖にして『対策済み』のつもりでいたのに、結局やられた。
分かってたのに詰めが甘かった、という事実が地味に引っかかる。
俺は小さく息を吐き、ノートを閉じた。
スライムの魔石と素材を袋に入れ、ノートをしまってから、俺は通路の奥へ視線を向けた。
引き返してもよかった。
今日の目的だったスライム討伐は終わっている。
しかも、思った以上にうまくいった。
戦術として成立する。
その確認だけで十分成果だ。
それでも、少しだけ先へ進もうと思った。
理由は単純で、まだ余裕があるように感じたからだ。
もちろん、その判断が正しい保証はない。
ダンジョンで「まだ行ける」はだいたい事故の前触れだ。
だから過信はしない。
ただ、引き返すには少し早い気もした。
身体はそこまで疲れていない。
呼吸も落ち着いている。
バットを握る手も、スライム戦のあとに少し震えただけで、今は戻っている。
なら、あと少しだけ。
俺はそう決めて、通路を進んだ。
曲がり角を越える。
もう1つ越える。
その次の角を曲がった瞬間、正面にいた。
ゴブリン。
「――っ」
足が止まる。
向こうも止まった。
距離が近い。
2メートルちょうどくらいか。
視界の手前にいきなり立っていたせいで、一瞬だけ距離感が雑になる。
小柄だが、ラビットやスライムとは明らかに違う。
二足歩行。
緑がかった皮膚。
顔の造形が、人間の失敗作みたいに嫌だった。
手には棍棒を持っている。
目が合った。
その1拍の停止のあと、先に動いたのは向こうだった。
棍棒が横薙ぎに振られる。
「うわっ」
反射で後ろへ跳ぶ。
空気を裂く音が、顔の前を通った。
風圧が頬に当たる。
遅れて、自分の呼吸が一気に浅くなっていることに気づいた。
今の、当たっていたら。
肩に変な力が入っている。
バットを握る手に余計な力がこもる。
喉が乾く。
心臓がうるさい。
慌てるな、と思うが、慌てるなと思っている時点でもう慌てている。
だが、止まっている場合じゃない。
俺はそのまま2歩、3歩と後ろへ下がる。
ゴブリンが追ってくる。
通路の幅が少し広い場所まで下がって、ようやく呼吸をひとつ入れる。
「落ち着け」
短く言って、自分の声で思考を繋ぎ直す。
相手は二足歩行。
棍棒持ち。
振りの予備動作がある。
視界内、2メートル以内なら置ける。
動いている。
軌道がある。
「さっきと同じだ。動いてる、軌道がある」
自分に言い聞かせるように呟く。
違うのは、人型だということだけだ。
――そこを『だけ』で片づけていいのか、という疑問はあった。
だが今それを掘ると遅れる。
ゴブリンが棍棒を振り上げる。
今度は縦か。
上から叩き潰すつもりらしい。
腕が上がる。
肩が開く。
顔面の前が無防備になる。
棍棒を振り上げ、俺に向けて振り下ろす。
そこだ。
「出ろ!」
顔の前方にキューブを置く。
ぽこん。
間の抜けた音の次に、鈍い衝突音が響いた。
ゴブリンの顔面が、キューブにそのまま激突する。
「ぎっ――!」
短く、濁った声が漏れた。
棍棒が手から落ちる。
床に転がる。
ゴブリンの身体がのけ反り、両手が顔を押さえるように上がる。
完全には倒れない。
だが、明らかに止まった。
いける。
俺は踏み込む。
バットを振る。
だが、1発目は浅かった。
当たった。
だが手応えが甘い。
打ち込んだというより、ぶつけたに近い。
ゴブリンが呻く。
声が出る。
その音で、手が止まりかけた。
声だ、と思った。
ラビットは鳴かなかった。
スライムはそもそも声の出しようがない。
だが、こいつは今、痛がった。
人間じゃない。
分かっている。
分かっているのに、その音だけが妙に耳に残った。
一瞬で十分だった。
ゴブリンは倒れきっていない。
膝をつきかけながら、まだ起き上がろうとしている。
片手が床を掴み、もう片方の腕がこっちへ伸びる。
止まったままなら、次に危ないのは俺だ。
「……っ」
考える前に、もう一歩踏み込んだ。
2発目。
3発目。
4発目。
どこに当たったかを細かく見ている余裕はなかった。
とにかく起き上がらせないことだけを優先した。
音がする。
重い感触が返る。
グリップが汗で滑る。
呼吸が乱れる。
心臓が速い。
腕が少し痺れる。
気づいたときには、ゴブリンは動いていなかった。
俺はバットを握ったまま、その場に立っていた。
息が上がっている。
胸が上下するたび、喉の奥がひりつく。
手のひらが熱い。
ゴブリンは倒れたまま、もう動かない。
レッサーラビットのときと状況は似ている。
だが、手の中に残る感触は違った。
骨格の位置が人間に近いせいかもしれない。
倒れ方が、あまりにも『それっぽい』せいかもしれない。
打撃が返ってくる位置も、ラビットより鈍い。
嫌な重さが、手首から肘へ、そこから肩の手前まで残る。
「……」
言葉にすると余計なものが混ざりそうだった。
しばらくして、ゴブリンの身体が光の粒になり始めた。
崩れるように、ほどけるように、細かい粒子になって空中へ消えていく。
血は残らない。
肉片も残らない。
さっきまでそこにあった身体だけが、最初から存在しなかったみたいに消える。
あとには、魔石と、棍棒が床に残った。
「そういう仕様か」
小さく呟く。
粒子になって消えるなら、返り血はない。
その考えが浮かんだ瞬間、自分でも少し嫌になった。
人型を殴った直後に考えることがそれか、と思う。
だが、実際にそう見えた以上、検討項目に入る。
仕方ない。
返り血がない。
つまり、刃物を使う選択肢も現実的になる。
バットは当てるまでの精度が要る。
振り切る動作が大きい。
相手が小さい、速い、あるいは近い場合、初動が1拍遅れることがある。
さっきのゴブリン相手も、1発目は結局浅かった。
刃物ならどうだ。
面で切れる。
刺突もできる。
急所に届けば効率はいいはずだ。
問題は間合いの管理と、自分が扱いに慣れていないこと。
「……次の検証項目だな」
自分で言ってから、少しだけ息を吐く。
棍棒が床に転がっているのが見えた。
拾って使えるか、という発想が頭をかすめたが、すぐ消えた。
こいつを今ここでいじると論点が増える。
武器候補の整理は別でやる。
俺は棍棒には触れず、魔石だけを拾った。
通路の壁際へ下がり、ノートを開く。
呼吸はまだ少し速い。
字が乱れない程度には落ち着いたが、ペン先を置く瞬間に、指先へ余計な力が入っているのが分かる。
俺は1つずつ、事実だけを書く。
ゴブリン:振り上げ頂点でキューブ展開。
顔面への衝撃で怯ませる。
その後、バットで追撃。
初回は躊躇あり。
要改善。
そこまで書いて、手が止まった。
『要改善』という言葉が、妙に事務的だった。
実際にはもっと別のものが混ざっている。
声が耳に残ったこと。
手が一瞬止まったこと。
人型を殴った感触が、ラビットのときよりずっと気持ち悪かったこと。
慣れるのか、これ。
慣れていいのか、これ。
だが、それをどう書くかは、まだ決めきれない。
俺はペン先をノートの上で少しだけ泳がせてから、最後に1行だけ足した。
慣れるのかどうかは、まだ分からない。
それを書き終えて、俺はノートを閉じた。




