第6話
ダンジョンの入場手続きを調べていたはずだった。
気づけば、画面には別の検索結果が並んでいる。
初心者の死亡原因。
我ながら、初ダンジョン前の検索履歴としてはだいぶ終わっている気がした。
だが、入場方法より先に死因を調べる方が優先順位として正しいのも事実だ。
入口はあとからでも見つかるが、死因の見落としは1回で終わる。
そういう言い訳めいたことを頭の中で考えながら、検索結果を上から順に開いていった。
能力者協会が公開している統計資料、浅層攻略のまとめブログ、初心者向けの注意喚起ページ、匿名掲示板の断片的な体験談、生還者の手記、動画付きの検証記事。
いつもなら、こういう検索結果は石の割合がもっと高い。
根拠不明の断言、都合よく盛られた武勇伝、やたら語尾の強い広告、ついでに怪しいサプリまで出てくる。
だが今回は違った。
死んだ人間の話になると、さすがにふざける余地が減るらしい。
共通項だけを拾う。
――1体目に気を取られて、2体目に横から噛まれた。
――後退したつもりが壁際に追い込まれていた。
――自分の攻撃距離を過信して踏み込みすぎた。
――倒したと思って近づいたら、死にきっていなかった。
――狭い通路で複数に囲まれた。
――視界の端の個体を処理できなかった。
派手なスキルの有無は、あまり関係がないように見えた。
火炎系でも死ぬ。
身体強化でも死ぬ。
風圧系でも死ぬ。
結局のところ、距離を読み違えれば終わるし、正面だけ見ていれば横から食われる。
ノートを開き、余計な感想を削って2行だけ書いた。
距離感の誤算。
複数同時出現への対応ミス。
それでだいたい足りていた。
初心者が死ぬ理由の大半は「知らなかった」ではなく「分かっていたのに処理しきれなかった」に属する。
強いスキルを持っているかどうかは、そのあとだ。
火を出せても横から噛まれれば終わるし、射程を一歩見誤ればその一歩で死ぬ。
スキルの格差はもちろんある。
だが、それとは別に、生き残るための最低条件が存在する。
そこを外したまま入る気はなかった。
次に、浅層に出るモンスターの種類を調べた。
最寄りのダンジョンは新宿第三。
電車で20分。
能力者協会の管理下にあり、初心者向けの浅層解放区画がある。
口コミを見る限り、平日午前は比較的空いている。
土日は論外だった。
初心者と配信者と見学気分の人間が一気に増えるらしく、検証する環境としては最悪に近い。
浅層の主な出現種は、レッサーラビット、スライム、そして稀にゴブリン。
遠距離攻撃持ちは確認されていない。
突進系が多い。
その一文を見たところで、手が止まった。
突進系が多い、つまり速度を持って自分からぶつかってくる相手が多いということだ。
キューブとの相性は悪くない。
むしろその条件だけを見るなら、かなりいい部類に入る。
もちろん、机上では、だが。
ノートに線を引き、その下へ1文だけ書き足した。
条件が分かっている相手から潰す。
未知に突っ込むのは最後でいい。
武器はバットにした。
最初は金属バットも考えたが重く、初めての実戦で振り回すには取り回しが悪すぎる。
結局、ホームセンターで売っていた一般用のバットを選んだ。
軽くて長すぎず、余計な機構がない。
何より役割が明確だ。
キューブで止めた後に叩く。
この順番で考えたとき、一番素直だった。
剣や槍は却下した。
間合いの理解がいる。
刃筋だの踏み込みだの、今さら覚えることが増えすぎる。
銃はもっと論外で、法的な問題もあるしダンジョン内での発砲は反響音と跳弾が危険すぎる。
初実戦の相棒が昨日まで園芸用品コーナーの近くに吊るされていたバットでいいのかという疑問はあったが、剣道もフェンシングもやったことがない人間に急に剣を持たせる方がもっとだめだ。
信用できるのは、往々にしてそういう雑な道具だった。
翌日、能力者協会の窓口へ向かった。
平日の午前ということもあって、窓口は思ったより空いていた。
受付の前にはモニターが何台か並び、初回登録の案内や注意事項が淡々と流れている。
華やかさはない。
役所と病院の中間みたいな空気だ。
身分証を出して登録用紙に記入する。
連絡先、緊急連絡先、居住地、既往歴の有無、危険行為に対する同意チェック。
自己責任の文言はやたら丁寧だった。
要するに、死ぬなとは言うが死んでも基本的にはそちらの責任です、という意味だろう。
それ自体は理解できる。
未知の空間へ入る以上、全面的な保護など期待する方が間違っている。
担当者は30代くらいの女性で、慣れた手つきで入力を進め、最後に端末の画面を1度だけ見てから口を開いた。
「座標固定、キューブ……ですね」
「はい」
「どういった効果ですか」
「壁を出すスキルです」
できるだけ短く答えた。
長く説明したところで、初対面の事務担当に細かい特性まで伝わるとは思えない。
仕様書を要求したら確実に警戒される。
「防御系ですね」
「たぶん」
「ありがとうございます」
それで終わった。
予想していた通りだった。
担当者の反応に熱はない。
驚きも期待も警戒も、ほとんどない。
書類上の処理として「防御系」に分類されただけだ。
ものすごく丁寧に言い換えると「地味なスキルですね」だと思う。
失礼だが、否定材料がない。
隣の窓口では、別の新人登録者がちょうど説明を受けていた。
「火炎放射ですか。それは頼もしいですね。深層でも十分活躍できると思いますよ」
聞くともなく耳に入ってくる。
視線は上げなかった。
温度差は気にしない。
というより、最初から想定に入っている。
派手なスキルと比べれば、キューブはどう見ても地味だ。
出てくるのは黒い立方体で、しかも1辺15センチ前後。
見栄えの面では最悪に近い。
だが、見栄えで死因は減らない。
そこだけは自信を持って言える。
浅層は自己責任で入場可能、危険区域はランク制限あり、怪我や死亡時の補償範囲は登録時の規約に準ずる、という説明が終わったところで受付横の売店へ向かい、簡単な応急キットと飲料水を購入した。
何事も準備が肝心だ。
新宿第三ダンジョンの入口は、雑居ビルの地下にあった。
地上から見れば、どこにでもある古びたテナントビルで、1階にはチェーンのカフェとドラッグストアが入っている。
だが地下へ降りるエレベーターの前には能力者協会の警備員が立っていて、通行人はそこから先へ入れない。
エレベーターに乗ると、降下の感覚は短かった。
それなのに、扉が開いた瞬間、空気が変わった。
重くて少し湿っているが、地下室の湿気とは違う。
カビ臭いわけでもなければ土の匂いが濃いわけでもない。
ただ、肺に入ってくる空気の密度が地上とほんの少しだけ違う気がして、音の反響の仕方も妙だった。
足音が返る位置が、コンクリートの廊下と微妙にずれている。
その場で1度だけ立ち止まり、深く息を吸った。
大丈夫だと自分に言い聞かせるためではなく、単に呼吸が浅くなっていることに気づいたからだ。
手のひらが汗ばんでいた。
緊張している自覚は、さすがにあった。
ただ、それを真正面から認めると余計に手が震えそうだったので、とりあえず握力の一時的低下として処理した。
現実逃避の方向が少し理屈っぽい気もするが、今さらだ。
バットを握り直すと、思ったより重く感じた。
子供の頃に振った物と同じはずなのに、環境が変わると物の重さまで変わったように感じるらしい。
人間の感覚は本当にあてにならない。
通路は石造りで、壁面にはところどころ苔がついている。
照明は等間隔に埋め込まれていて暗くはなく、むしろ明るい方だ。
それなのに妙に視界が狭く、先へ進むほど周囲の空気が寄ってくるような圧迫感がある。
一歩、また一歩と進むたびに足裏に伝わる感触を確かめた。
滑らない。
床は乾いている。
障害物もない。
それでも神経が張る。
頭の中には、これまでの検証結果が並んでいた。
ブランコの軌道、自転車の急停止、衝撃がどちら側に集中するか、路面すれすれに置いたときの反応、高さによって危険性が変わること、動いている物体に対してだけキューブが露骨に牙を剥くこと。
条件は同じだ。
ただ相手が、生きているだけだ。
その違いが、ひどく大きかった。
最初の個体は、曲がり角の向こうから飛び出してきた。
レッサーラビット。
膝くらいの高さで耳が長く、赤い目をしている。
形だけなら少し大型の野ウサギだが、見た目で判断していい相手じゃないのは一歩目で分かった。
速い。
「は――っ」
地面を蹴った音が聞こえたときには、もう距離が縮んでいた。
助走がない。
踏み込み1発で視界の奥から手前まで一気に詰めてくるので、反応が一瞬遅れた。
反射でキューブを出すと、ずれた。
「くそっ、なんで――」
ラビットの進路より30センチほど右。
たった30センチだが、小型の相手には十分すぎる隙間だった。
黒い立方体の脇を灰色の塊が抜けていき、風圧が腕をかすめる。
「あぶねぇ」
あと半歩、身体が前に出ていたら普通に噛まれていた。
心臓が1発大きく跳ねてどくん、と鳴ったあと、今度は細かく速く打ち始めた。
うるさい。
鼓動のせいで、自分の呼吸音まで遠く感じる。
背後で鈍い音がして振り返ると、ラビットが壁にぶつかっていた。
石壁に激突して跳ね返り、床に転がっている。
それでも終わらない。
頭を振って脚をばたつかせて、もう立て直そうとしている。
「距離感、狂ってる……30センチって、そんなにでかいのか」
頭では分かっていた。
家や公園での検証と実戦は違う、と何度も書き留めていた。
なのに実際にやったら初手でやらかした。
目の前に何かが飛び込んでくるだけで、頭の中で組み立てた座標が一瞬吹っ飛んだ。
視界が狭い。
肩に力が入りすぎている。
分かっていることと身体が追いつくことは、やっぱり全然違う。
「……練習の通りじゃないか。初手から」
自分のことなのに笑えない。
家なら誤差になる30センチが、ここでは死因になる。
その事実が、頭で理解していたはずなのに、恐ろしかった。
ラビットが向き直り、赤い目がまっすぐこっちを見た。
来る。
バットを握り直すと、グリップが汗で少し滑った。
呼吸を整えようとするが、1度乱れた呼吸は簡単には戻らない。
吸っても浅く、吐いても短く、肺の上の方だけで空気が動いている感じがする。
「落ち着け。次は……次は軌道を見ろ」
自分に言い聞かせる。
どこへ置きたいかじゃない。
あいつが、どこを通るかだ。
さっきは自分の感覚を基準にしたから外れた。
相手の動きを起点にしなければ話にならない。
ラビットが地面を蹴ると、脚の筋肉が縮んで重心が前へ落ち、軌道が決まった。
直線でブレがない。
「なら、読める……読めるから、落ち着け」
鼓動が速い。
呼吸がうるさい。
それでも目だけは逸らさない。
助走、加速、軌道確定。
進路上、膝の高さ。
そこへ。
「――出ろ」
ぽこん。
いつも通りの、間の抜けた音だった。
次の瞬間、ラビットの頭部がキューブに激突した。
鈍く詰まった音が響いて身体が横へ弾かれ、小さいくせに勢いがありすぎて1度床を跳ね、2度転がって止まった。
後ろ脚が2、3度痙攣して、それきり動かない。
止まったのは、あいつの方だった。
……動けなかった。
いけた、という感覚より先に、全身から力が抜けていく感じがあって、その次に膝が笑いそうになって、それから心臓がまだものすごく速いことに気づいた。
喉が乾いているのに唾が飲み込めないし、手のひらが汗でびしょびしょだ。
「……動くなよ」
1秒待つ。
たった1秒なのに長い。
ラビットは起き上がらない。
それでも油断はできない。
倒れたと思って近づいたら噛まれた、なんて例をさっきまで読んでいたばかりだ。
半歩だけ近づいて間合いを確認し、もう半歩進んで止まり、振り上げた。
「悪いな」
バットを振り下ろした。
鈍い手応えが両手に返ってきた。
床や壁を叩いたときの乾いた跳ね返りとも、素振りで空を切ったときの軽さとも違う。
柔らかいものを潰したあとその下の硬い部分に遅れて当たるような、重くて鈍い感触で、衝撃が手首で終わらず肘の内側までじわりと残った。
息を止めていたことに、そのあとで気づいた。
「っ、は……」
慌てて吸う。
肺がひりつく。
喉の奥が冷たい。
生き物を殴った。
その事実が、音じゃなく、手の中に残っていた。
しばらくその場に立ち尽くした。
勝ちました、という感じは全然しない。
初手でキューブを外して、運よく壁に当たってくれて、呼吸も整わないまま2回目を出して、それがたまたま通っただけだ。
胸を張れる要素が1個もない。
「……なんとか、なった」
かっこいい台詞を吐ける気分じゃなかった。
ただ今回は死ななかった。
それだけで今は十分だと思うことにした。
震える手でノートを取り出す。
感情が先に来て記録が後回しになりそうだったが、それをやると次に同じミスをする。
速く動く相手には強い、これはもう間違いない。
1回目は外した。
自分の感覚を基準にしたから。
2回目は相手の軌道を基準にした。
「要するに……自分の感覚を信用しすぎるな、ってことか。分かってたのに、な」
分かってたのにやらかした、という部分が地味に堪えた。
少し進んだところで、次の個体が現れた。
今度は雰囲気が違う。
足音に相当するものがない。
床を叩く音も跳ねる音も爪が擦れる音もなく、ただ湿ったものが石の上をずるりと滑っていくような気配だけがある。
曲がり角の向こうから、灰色の塊がにじむように現れた。
「……スライムか」
足を止める。
形が定まっていない。
進むたびに輪郭が崩れ、盛り上がったかと思えば次の瞬間には横へ広がり、また全体がひとかたまりに戻る。
どこが前でどこが頭なのかも分からない。
さっきまで速かった心臓が、今度は別の意味で嫌な音を立てた。
「速く動く相手には強い。じゃあ、遅い相手は……」
スライムの進路上にキューブを置いた。
「出ろ」
ぽこん。
スライムが、そのまま当たる。
止まらない。
「は?」
潰れもしない。
灰色の身体がぐにゃりと変形してキューブの角に沿って左右へ割れ、そのまま回り込むように流れ始めた。
「いや、そんな……ちょっと待て、どうなってる」
呼吸がまた浅くなる。
止められていない。
キューブは確かにそこにある。
ぶつかってもいる。
だが相手が「止まるべき形」をしていないせいで、衝撃が1点に乗らない。
ラビットのときみたいな急停止が起きていない。
しかもスライムはそのままこっちへ向かって進み続けている。
回避された挙げ句、普通に追ってきている。
「相性、悪くないか?……いや最悪か、これ。完全に最悪だ」
キューブをすぐに消して距離を取った。
視線だけは切らない。
スライムは慌てもせず、ゆっくりとこっちへ向かってくる。
速くはない。
だが遅いから安全というわけじゃない。
対処法が見えていない相手というのは、それだけで速い相手よりある意味怖い。
少なくとも今の俺には、速い相手の方がまだ戦いやすい。
形が決まっていてくれれば、軌道が読める。
バットで殴る選択肢を一瞬考えて、すぐに捨てた。
表面が柔らかかった場合、埋まるかもしれない。
飛び散る可能性もある。
内部構造も分からない。
初見でやるには情報が足りなすぎる。
「……やめだ。今日はやめだ」
心臓はまだ速いままだが、思考は逆に冷えていく。
スライムから目を離さないまま来た道を後退し始めた。
踵が石床を擦る音が自分でも妙に大きく聞こえる。
背中は見せない。
転ばない。
余計なことはしない。
「初日に無理する理由はない。データが足りない」
ダンジョンの出口が見えたところで、ようやく少しだけ呼吸が落ち着いた。
速い相手には強い。
だが遅くて柔らかくて形が曖昧な相手には、今日の段階では何もできなかった。
キューブを1発当てて、あっさり回り込まれて、すごすごと撤退した。
それが今日の実績だ。
「……情けないな」
正直に言うとそっちの感想の方が大きかった。
ラビットに初手を外して、スライムには何もできなかった。
頭の中で組み立てていた検証計画と実際にやれたことの落差が、帰り道でじわじわと効いてくる。
次にやることは山ほどある。
高さを変えたらどうなるか、複数配置で挟めるか、そもそも打撃が有効か、粘性の強さは、中心核の有無は。
考えることは多い。
それでも今日のところは、ラビット1体をなんとかしただけで膝が笑いかけた事実の方が、しばらく頭から離れなかった。
……野ウサギ1匹に、こんなに消耗するとは思わなかった。




