第5話
朝から出して消してを繰り返している。
棒状になる気配は、まだない。
ノートには「わずかに歪む」とだけ書いてある。
測定値で言えば2から3ミリの話だ。
1辺15センチの立方体が3ミリ歪んでも、定規を当てて初めて「少し長い」と気づく程度で、見た目ではほぼ分からない。
要するに、地味だ。
神様に投げつけられたときから地味だったが、成長しても地味だった。
地味の方向性だけが少しずつ増えている。
どこへ向かっているんだ、これ。
出す。
消す。
出す。
消す。
コーヒーを淹れてカップを置き、また出して消してを続けた。
気づいたら冷めていた。
冷めたコーヒーを飲みながら今日の回数を確認すると、午前だけで800回近かった。
2個に増えたのが700回台だったとすれば、次の変化もそのあたりに閾値がある可能性がある。
だが根拠は薄い。
サンプルが1個では統計とは呼べない。
まだ分からない、とノートに書いた。
分からないことを書き留めておくのも、記録の仕事だ。
午後になって、コンビニへ行くことにした。
牛乳が切れていた。
朝食のシリアルが成立せず、シリアルが成立しなければ午前の集中力が下がり、集中力が下がれば検証の質が落ちる。
つまり牛乳の補充は検証の一部だ。
そう結論づけてから財布を持って玄関を出た。
我ながら理屈が苦しい気もするが、外に出たかったのも本当だ。
住宅街の細い道を歩く。
この時間帯は人通りが少ない。
角を曲がると、信号つきの横断歩道に出た。
青だった。
先を歩いていた老人が、杖をついてゆっくり渡り始めていた。
俺はその後ろから続く。
そのときだった。
左側からエンジン音が来た。
減速していない。
顔を向けると、トラックの運転席の男が下を向いていた。
手元に視線が落ちている。
横断歩道の上に老人がいる。
距離と速度を瞬時に測る。
「危ないっ」
昨夜の公園が脳裏をよぎる。
ブランコの軌道、自転車の急停止、衝撃の入り方。
止まるのはキューブじゃなく、ぶつかった側だ。
一歩踏み出す。
視界内2メートル、路面すれすれ、前輪の進路上。
そこなら当たる。
ぽこん。
音はいつもと同じだった。
前輪がキューブに触れた瞬間、破裂音が弾けた。
タイヤが潰れてフレームがきしみ、トラックが急停止する。
だが止まりきらない。
慣性に押されて右へ流れ、電柱に激突した。
金属がひしゃげる音がして、エンジンが止まった。
老人が振り返った。
自分の後ろ3メートルで止まったトラックを、目を丸くして見ている。
キューブを消して、老人の視線が事故に向いている間に横断歩道を渡りきり、そのまま歩き続けた。
コンビニの冷蔵ケースから、牛乳を1本取った。
右に流れた。
もし左だったら——棚に並んだ商品を見ながら、頭の中で軌道だけをなぞる。
向かいの歩道のあの位置なら、別の歩行者に当たっていた可能性がある。
前輪を止めた時点で、その先の挙動は決められない。
助かった、という実感より先に計算の抜けが気になっていた。
我ながら人間味がないとは思うが、気になるものは気になる。
レジでお釣りを受け取り、袋に牛乳を入れて店を出た。
帰宅してノートを開いた。
方向制御不可。
設置後の軌道は制御できない。
要改善。
ただし改善方法は現時点では不明。
書いてからペンを置く。
改善方法が不明なら、今日やることはもうない。
ソファに転がってスマホでニュースを流し見すると、能力者関連の話題が今日も多かった。
新装備の発表、ダンジョン攻略の記録更新、S級冒険者の企業案件。
いつもの並びだ。
画面をスクロールしかけたとき、指が止まった。
霧島ハヤト。
本名は知っている。
中学からの親友だ。
インタビュー映像だった。
「今は安定しています。ただ——深層というのは、本質的に不安定なものです」
そこで一瞬、言葉が途切れた。
巻き戻してもう一度見る。
その間の取り方、視線の動き。
何か言いたくても言えないことがある、そういう顔だ。
中学のときから変わっていない。
スマホを持ち直し、連絡先を開く。
「ニュース見た。話せるか」
送信して5分後、着信が来た。
「よ。久しぶり」
声は映像より少しだけ疲れていた。
「忙しいところ悪い」
「いや、ちょうどよかった。ああいうの、喋りづらくてさ」
小さく笑う声がした。
昔と同じ笑い方だった。
「インタビューの話か」
「ああ」
「だろうな。お前が連絡してくるときは、大体そういうときだ」
少し間が空いてから、ハヤトが続けた。
「データ上は誤差で片づくレベルなんだよ。でも現場の感覚が違う。噛み合ってない」
慎重に言葉を選んでいるように聞こえた。
「管理局は『問題ない』って言う。間違ってはない。今すぐ崩れるわけじゃないからな」
「でも、その『今すぐ』の先は読めてない」
「……そうだな」とハヤトが短く答えた。
「最近、深層に潜る配信者も増えすぎてる。再生数狙いで無茶な動きも増えてるから、余白が削れてきてる」
「余白?」
「余裕の話だよ。少しのズレがそのまま崩壊に繋がりかねない状態だ」
その言葉をノートに書いた。
余白がなくなる。
「……まあ、今は大丈夫だと思う」
「『今は』な」
その言い方で十分だった。
「ところでお前、スキル何もらったんだっけ」
唐突だった。
「地味なやつ」
「どのくらい」
「神様に『ファンタジー適性皆無』って言われた」
電話口でハヤトが吹き出した。
「やっぱりか。仕様書とか要求しただろ」
「した」
「マジかよ……変わらねえな、お前」
笑い声混じりに言って、それから少しだけ声を落とした。
「……気をつけろよ。今の話、表には出てない」
「分かってる」
「じゃあな」
通話が切れた。
ソファに座ったまま、ノートを見返す。
方向制御不可。
その下に、深層のずれ、配信者の増加、余白の消失が並んでいる。
今は何も起きていない。
だが、起きるなら——その前にやっておくべきことがある。
スマホを取り出してダンジョンの入場手続きを調べ始めた。
初心者向けの浅層なら登録だけで入れる。
装備の規定も確認したが、問題はない。
ノートを開く。
検証場所をダンジョンに移す。
理由:実戦データが不足している。
ペンを止めて少し考えてから、もう1行付け加えた。
あと、牛乳はもう1本買っておく。




