第1話
部屋の温度は19度に設定してある。
眠気を遠ざける温度だ。
深夜でも集中力を保てる。
人間の集中力は環境変数で8割決まる――そういう話を読んで以来、俺はエアコンの設定をいじることをやめた。
そのソファに沈み込んで、タブレットでネットニュースを流し見していたときだった。
不意に、頭の奥へ直接、無機質な音声が流れ込んできた。
『……対象個体の適合を確認。これより、あらゆる厄災を退ける【絶対防壁】と、万物を無限に納める【亜空間収納】のスキルをインストールする』
あまりにも唐突で、あまりにも都合が良すぎる内容だった。
普通なら歓喜するのかもしれない。
だが俺の最初の感想は、喜びでも驚きでもなかった。
――雑すぎる。
「まず、あなたは誰ですか。名乗ってください。正体不明の存在からいきなりそんな話をされても困ります。振り込め詐欺でも、もう少し導入を工夫しますよ」
俺は天井を見上げた。
相手の位置は分からないが、どうせ聞こえているはずだ。
『私は神だ』
「神。何教のですか? あいにく特定の宗教を信仰していないので、所属不明の神を即座に信用するのは難しいんですが」
『神は神だ。そんなところに引っかかるな。それより、スキルを受け取るのか、受け取らないのか。本来なら高位適合者にしか与えられん上級スキルだぞ』
「それならなおさら確認が必要です」
俺はタブレットを脇に置いた。
心臓は少し速く打っていたが、それを理由に思考を止める気にはなれなかった。
「その『絶対』の定義は何ですか。防壁の座標系はどこに依存する? 地表基準か、重力基準か、慣性系か。まさか宇宙空間の絶対座標に固定するわけじゃないでしょうね」
『……スキルの挙動は、神秘の力により最適化される。案ずる必要はない』
「最適化、では回答になっていない。ブラックボックスでしょう、それは」
命を預けるインフラがブラックボックスなど、論外だ。
「もし宇宙基準の固定なら、発動した瞬間に地球だけが勝手に動いて、俺は防壁に激突する。死因が『チート能力の初期仕様』では笑えません」
『……問題は発生しない』
「その『問題は発生しない』を、何が保証しているんです」
俺はテーブルの上のメモ帳を引き寄せ、無意識にペンを取っていた。
こういう曖昧な説明は記録しないと危険だ。
焦っているのか冷静なのか自分でも分からなかったが、手は動いていた。
「それと【亜空間収納】。保存容量無限と言いましたね。維持エネルギーはどこから出る? 収納物の質量はどこへ行く? 内部で時間経過はあるのか? 生鮮食品は劣化するのか? 不具合で収納物が消失した場合、補償は?」
『……細かな仕様などどうでもいい。直感で受け入れろ』
「直感で危機管理ができるか」
思わず声が低くなる。
「命を預けるインフラなんだぞ。コンタクトレンズ1枚だって、仕様の怪しい保管庫には入れたくない。まして食料、水、医薬品ならなおさらだ。質量保存、エネルギー保存、座標基準、展開条件、解除条件、例外処理。最低限そこは開示しろ」
『……理屈っぽいガキだな。超絶レアなスキルを2つもやろうというのに』
「それはそっちの都合でしょう。こっちは安全確認をしているだけです」
『……神秘への理解度、ゼロ。ファンタジー適性、皆無か』
「ファンタジーで生活インフラの信頼性は担保されない」
俺は即答した。
「『なんかいい感じに動きます』で済ませるから事故るんです。説明責任を放棄したシステムほど危険なものはない。仕様書を出してください。詳細版で」
数秒の沈黙。
その沈黙が、妙に人間くさかった。
『もういい。神秘を拒絶する者に与える恩恵はない』
「おい待て。勝手に話を打ち切るな。提供側には説明責任があるだろ――」
『お前にはこれで十分だ。あとは自力で、気の済むまで検証でもしていろ。ではな』
次の瞬間、右手の前方、空中に。
ぽこん、と。
漆黒の立方体が、ひどく適当な感じで出現した。
俺はしばらくそれを見つめた。
10センチほどの、真っ黒な立方体。発光も演出もない。
神秘だの祝福だのという言葉とは、恐ろしく相性の悪い見た目だった。
「……これが?」
返事はない。
頭の中はもう静かだった。
本当に打ち切りやがった。
「最悪だ」
思わずそう呟いてから、すぐに言い直す。
「いや、訂正。最悪かどうかは、まだ分からない」
ソファから立ち上がる。
メモ帳を開く。ペン先を落とす。
未知の現象が目の前にあるなら、やることは1つだ。
「まずは仕様確認だ」
立方体は宙に浮いたままだった。
まずは観察。落ち着け、順番通りにやれ。
床からの高さ、おおよその位置、表面の質感。
黒1色で、光をほとんど反射しない。
角は妙に正確で、玩具にしては精度が良すぎる。
恐る恐る、ペンの先で突いてみる。
こつ、と乾いた感触が返ってきた。
軽く触れただけなのに、まるでコンクリートの塊でも突いたみたいだった。
「……硬いな」
次は手で押してみる。
指先に力を込め、手のひら全体でさらに押す。
びくりともしない。
浮いている。
なのに、押しても揺れない。逃げない。落ちない。
俺はすぐにメモ帳へ視線を落とした。
『位置固定。接触による移動なし』
続いて定規を持ってきて大きさを測る。
1辺はおよそ15センチ。ほぼ誤差のない正立方体だった。
「15センチ……」
中途半端に小さいくせに、存在感だけはやたら強い。
部屋のど真ん中に突然こんなものが浮いていたら、普通に邪魔だ。
俺は玄関へ向かい、ビニール傘を1本持って戻ってきた。
先端で軽く突く。やはり反応はない。
次は両手で握り、上から思い切り叩きつけた。
バキッ、と情けない音がして、傘の骨が曲がった。
「……は?」
立方体の方は無傷。
位置もそのまま。傾きすらしない。
俺は折れた傘と立方体を見比べ、それから小さく息を吐いた。
驚いた。本当に驚いた。
頭では『固定されている』と書き留めていたのに、この目で見て初めて、それが冗談じゃないと分かった。
「本当に固定されてる」
いや、固定どころじゃない。
俺が殴った衝撃を、あっさり傘の方へ返したように見えた。
スキルと言っていたからには、当然、俺の意思で動かせるものだと思っていた。
設置型の何かだとしても、せめて位置の調整くらいはできるはずだ。
そう考えて、立方体を睨む。
「動け」
反応なし。
もう少し意識を集中する。
右へ動け、左へ寄れ、手前に来い、上がれ。
頭の中で命令を並べる。何も起きない。
試しに声にも出してみた。
「右。左。上。下。前。後ろ」
立方体は完全に無視を決め込んでいた。
「おいおい、なんだこれ。動かないのかよ」
さっきから部屋の空間を堂々と占拠しているくせに、所有者の命令には一切従わない。
控えめに言って、ものすごく邪魔だ。
いや、邪魔というより――なんだろう、少し悔しい。
こいつに完全に主導権を握られている感じがして、それが妙に腹立たしかった。
俺は半ば苛立って吐き捨てた。
「いい加減、消えてくれよ」
その瞬間だった。
立方体は、音もなく消えた。
俺は数秒、何もない空間を見つめたまま固まった。
消えた。本当に消えた。
さっきまで確かにそこにあったのに、今は何もない。
部屋がいつも通りの部屋に戻っている。
それが妙に、嬉しかった。
「……消去コマンドはそれか」
慌ててメモ帳に書きつける。
『音声命令、あるいは意思と言葉の併用で消失。移動命令には反応なし』
よし。少なくとも1つ、仕様が分かった。
分かった。これは調べられる。
次の疑問はすぐに浮かんだ。
消えた。では、もう一度出せるのか。
俺は右手を前に出し、さっきと同じ黒い立方体を頭の中に思い浮かべた。
ぽこん。
何事もなかったように、漆黒の立方体が戻ってくる。
「再出現は可能、か」
メモ帳に書きつけながら、口の端が少し上がっているのに気づいた。
まずい、楽しくなってきた。
なら、次だ。
1つ出せるなら、同時に2つはどうだ。
立方体の少し横、空いている空間を意識して、もう一度念じる。
だが、何も起きない。
場所を変えてもう一度。やはり出ない。
俺はしばらく、宙に浮かぶ立方体を見つめた。
「……最大生成数、1個か」
そう書き留めて、手を止める。
1個。どう見ても地味だった。
だが俺はため息をつく代わりに、ペン先をノートへ押し当てた。
楽しい。
地味かどうかより、これが楽しい。
心拍数が上がっているのが自分でもわかる。ノートの余白が、黒いインクで埋まっていく。
仕様が分かるたびに、世界の輪郭が少しずつはっきりしていく感覚があった。
地味かどうかは、全部把握してから判断する。




