タイトル未定2025/11/03 23:50
少し離れた場所で喜治は見ていた。雨芽の様子は異常だった。やせ細り、以前よりも体重は軽くなっていた。顔色も悪く目の下には隈がくっきり浮かんでいる。家の前で雨芽を見つけた時、背中に何か覆いかぶさっていたがそれも払えば簡単に離れていった。あれは多分ただの思念で本体は雨芽の家だろう。
炬燵の傍で雨芽を心配していた爺が喜治の下へ飛んでくると台所の椅子に座った。
「なんかやっかいな者に好かれているようだが」
「そうだな……」
「さっき少し食べられていたから良かったが、食べられなくなっていたらアウトだったな」
と爺は頬杖をつくと長い息を吐いた。
「ああ……危ないとこだ」
「でも……このままだと危ないぞ?どうするんだ?喜治」
「どうもこうもない。祓ったとしても雨芽ちゃんが望まなければ何もならない。いくらでも引き寄せてしまう。欲しいと願えば願うほどに」
「そうだなあ……喜治は何が最善だと思う?」
うーん、と喜治は唸ると頭を掻く。
「忘れることだ。全て……前に進むために。でも雨芽ちゃんだけが問題じゃない」
「ふむ、ご両親と話すか?」
「いやー、それはどうだろうな。突然見知らぬ男が家に来て、あなたのお嬢さんには霊がついています、なんとかしましょう?なんて、どこぞの壷を売る奴と似たようなもんだろ」
「……ならアレを受けたらどうだ?もっと動きやすくなるだろう?」
喜治が苦虫を噛み潰すとうな垂れた。
「まあな。アレは……そういう意味では色々クリアにしてくれるんだろうけど、俺的にはヤなんだよなあ。絶対利用されるし……」
「でも安泰だぞ?」
「うーん、安月給だろ」
爺はふわりと浮かぶと台所の棚の上の茶封筒を喜治の前に置いた。
「人助けならいいだろうが」
「わかったよ」
喜治は茶封筒を開くと中の書類を持ち奥へと消えていった。
いつもどおりの日常、月曜日には学校へ行って帰ってくる。火曜日は学校へ行ってと毎日の繰り返し。一人のマンションに帰ってくるたびにズシンと体が重くなる。
キッチンの電気だけをつけてリビングの部屋の前に座る。雨芽は二日ほどお風呂に入れていなかった。異常に疲れていてその場に寝転ぶといつも背中にあった白い手は雨芽の足元にあった。
「お姉ちゃん、くすぐったいよ」
足首をそっと摩られて雨芽は笑う。けれどそれも少ししたら疲れて目を閉じた。
「ごめん、お姉ちゃん……眠くなってきた」
部屋で寝なくちゃ……ベットに入らなくちゃ、そう思っても体が重い。目を閉じたままとりあえず体を横に向けると肘をついて上半身を起こす。
「重いな……なにこれ、太ったかな?」
ゆっくりとそこに座り胡坐をかく。顔を上に向けて目を開くとそこに白い何かがいた。
「え?」
白いつるりとしたそれは雨芽が見つめているそこに黒い目を作り、その下に一本線が引かれるとゆっくりと切り込みが入ったように開き、象牙色の歯が並んでいた。
雨芽は動けずに自分の口からカチカチと音がするのを聞いた。体が震えだし、声の出せない開いた口が動いてカチカチ歯が鳴っている。
「ああアアア、あ、アメ?あめ?アめ?」
無機質な声が耳に届く。白い何かの口が動いている。
「アメ?雨?あああアアア、あ……アメ?」
ズシンとしている重い体を動かして逃げ出したかった。今すぐにでも走り出してしまいたかったのに体は震えるだけで動かない。
顔を動かせずに視線を下ろす。視界のぼやけた先には白い手が雨芽の手を掴んでいる。冷たい手は足も掴んでいる。幾つもの手が体中を掴んでいる。
「お、お姉ちゃん……?」
白い何かの黒い目が笑うように細くなる。切れ込みをさらに入れたように横に広がった口は奥の歯まで見ることができた。
「ああ、アアアア、ああア。お姉ちゃん、そう、オネエちゃん」
白い何かのつるりとした表面がざらざらしてゆく。人の肌が乾燥したようにペリペリ捲れてその隙間から白い毛が無数に生えてくる。
雨芽の背中をぞわぞわと這い上がってくる悪寒が全身に鳥肌を立てた。
今この目の前にいる何かは、何かになろうとしている。
雨芽は首を横に振り小さく息を漏らす。声にならず涙が溢れてきた。
ああ、怖い。なにこれ?怖い。お姉ちゃん……怖い。なにこれ?
繰り返す思考は声になっていた。それを真似るように嬉しそうな無機質な声が耳に響く。
「アア、ああ、こわい、コわい。ああ。なにこれ?なあに?これ?アアああ」
白い何かの口から涎がだらだら零れ始める。雨芽の頬に生暖かく臭い何かが零れてきて首まで流れてきた。
はっ、はっと呼吸が荒くなる。恐怖から目が離せなくなっていた。目の前のそれを凝視しながら雨芽は小さな呼吸を繰り返す。頭の中は真っ白で埋め尽くされていた。
その時電話のベルが鳴った。白い何かが電話のベルの音を真似る。
ハッとして雨芽は体を動かしてつかまれていた白い手を振り払うと両手で自分の頬を叩く。パンと音を立てて頬に痛みが走ると目に力が戻った。両手で足を叩き思い切り立ち上がる。白い何かが電話に気を取られているうちに雨芽は玄関へ走った。
足が縺れても必死で走り靴も履かずにドアを開ける。外はもうすぐ夜になろうとしていた。
縺れる足を鼓舞してエレベーターに乗る。震える口で数を数えてボタンを押した。ぐんと下がる箱に乗り一階に着くと後ろも振り返らずに走り出した。




