2.
誰にでも竜の逆鱗というのはあるもので当然この男にも存在している。今のセシルはいくつか把握しているが、今日はあえてそのひとつを話題に出した。
「で、原因はあの子かい?確か『世界中の淡い光を集めて人の形に整えた見事な人形のよう』だとか『触れれば壊れてしまいそうにか弱く儚い美の化身』だとかいうあのお姫様」
物凄い例えようだが実際、本人もとんでもない美少女だ。慈善事業に参加することが多いお姫様を紛れて確認したことがあるが恐らく国一番と言っても誰も否定しないのではないだろうか。常に淡い微笑を浮かべ静かにたたずむ姿は確かにどこか作り物めいていて現実味が無いように思えた。
セシルも一度興味があってお姫様のことを調べてみようとしたのだ。だが、調べても調べても誰もが知るような容姿や官報の情報しか出てこない。まるで誰かが幾重にもヴェールで包んで曖昧にしているように思えた。ヴェールの持ち主は間違いなくひとりではない。
しかも調べ始めてすぐにセシルに監視が付いた。浅瀬を漂っている分には特に何も起こらない。けれど、ある一定より深みを覗こうとすればとたんに思いがけないところから警告が来る。
――――あ、これ死ぬわ。
ほんの少しベールの向こう側を覗こうとしただけでセシルはそう感じた。しくじったかもと思っていた時、この上客がセシルに会いに来た。
「止めとけセシル。俺はお前を消すのは嫌だぞ」
そのひと言でお姫様のヴェールの一部はこの男のものだと理解した。セシルの情報網にも引っかからずお姫様の痕跡を消しているこの男の手腕に感心しつつセシルはぞっとした。絶対に、敵に回してはいけない男だと改めて思ったのを覚えている。
そんなわけでセシルもお姫様の情報はあまり持っていない。まともに直接話したこともないので実際どうなのかは分からない。ただ、目の前の男の相手としては少しばかり面白みが足りないのではないかとも思う。容姿だけなら見事な一対だと思うのだが。
「ちげえよ」
表情も変えず男が言い切った。この言葉にも嘘はない。
「ふうん、違うのかい。せっかく金になると思ったのに」
「それも金になるのかよ」
「そりゃね、あんたの隣を狙ってる人間からすりゃ大金詰んでも欲しい情報なんだよ」
「何のために」
「知らないよ。情報屋は売った情報がどう使われるかは関与しない」
嘘は無かったが、男が言い募る言葉に珍しく焦りの色がある。自分の情報は売っても良いのに、その少女に関わる情報の行き先は気になるのだろう。違うという言葉に嘘は無い、が。
「はあ……悪かった。聞くのが野暮だったな」
ため息を吐き銀の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる男にセシルは片眉を上げた。
「らしくないね?」
「そうだな……最近ちょっとな……」
「へええ、その辺詳しく」
この情けない顔もセシルは今日初めて見る。この顔をさせているのが件の美少女では無いというのはセシルにはにわかに信じがたい。どうせ話さないだろうと思いながらも冗談交じりに聞いたセシルに、男は濃紫の目を細めた。
「お前売る気だろ」
「ばれたか。これはギリギリの向こう側ってことさね。聞かなかったことにしとくよ、別料金で。さっきの情報と相殺だね」
「へーへー、好きにしてくれよ」
気安いのは変わらないがずいぶんと表情が豊かだ。セシルと切れると決めたからか、それとも何かの心境の変化があったのか。ただ結婚が近いから、それだけでは説明がつかないのをこの男は気付いていないのだろうか。それとも、自らの変化そのものに気が付いていないのか。セシルは見極めようとひとつ、鎌をかけることにした。
「でだ、セシル。別の対価で何とかならないか?」
「お断りだよ。嘘吐くやつとは何にしろ取引できない」
「あ?嘘?俺がいつ嘘を吐いたんだよ」
いぶかし気に首をかしげる男にセシルは嘆息した。なるほど、これにも嘘はない。それともこのあらわにした感情そのものがセシルを動かすための、セシルにすら見抜けないほどの演技なのだろうか。いや、恐らくそれは無いだろう。
「なんだよ、ただの自覚無しかい。まぁいいや。どっちにしろ駄目だよ。条件は変わらない。男の対価は全員金払った上であたしと寝ること。それができないなら情報は売らない」
「セシル、頼む、少しでいい考えてくれ」
「あーあー、残念だね、上客だったのに。長い間ありがとよ」
セシルは横を向き片手をぷらぷらと振って見せた。さっさと帰れと言外に示す。何だかんだと渋ってもだいたいの男はこの辺で折れるものなのだが、常ならば何も気にせず寝台に上がる男が今日は随分と食い下がる。
「そう言うなってセシル、お前以上のやつなんていねえんだよ」
「あんたにそう言われるのは嬉しいけどね、銀獅子。こればっかりは譲れない」
「頼むよセシル……」
眉を下げ秀麗な顔を悲し気に歪める男に何とも居心地の悪い気持ちになるが、セシルも商売でやっている。体の関係はあれど恋も愛も無い。長年の付き合いで多少の情はあるがそれだけだ。セシルには譲ってやるつもりもさらさら無い。
「ほら、さっさと帰んな。情報欲しけりゃ寝ていきな」
ぴっと親指で寝室の方を指さすと男が嘆息して首を横に振り苦笑した。ポケットを探ると応接テーブルに小さな袋を置いた。ちゃりりと乾いた音が鳴る。
「………分かった。今日のところは引く。また来るよ」
「はいはい、毎度ありー」
ぱたりと静かに扉が閉まりとんとんとん、と階段を上っていく音がする。セシルの住処は地下にある。日陰者のセシルにぴったりの巣だ。
「へぇ……意外と強情じゃないか。興味あるねぇ、ここまで思い切った原因が何なのか」
にんまりと笑いセシルはデスクの小袋を持った。枚数は少ないが中に入っている硬貨一枚一枚の価値が高いことをセシルは見なくても知っている。そういう男なのだ。セシルに時間を取らせたらたとえ収穫が無くともちゃんと金を払っていく。
金払いと顔と声と体の良さは昔っからぴかいちだ。あっちの具合も悪くない。大した上客だが致し方ない。セシルのルールに沿わないのだから。
「ちょっと、調べてみるかねぇ………あー、でも先にひと眠りかね」
実はセシルはここ二日眠っていない。少々面倒な依頼を受けて出ずっぱりだったのだ。面倒なだけで難しい仕事では無かったが。
セシルは大あくびをすると小袋を仕事机の引き出しに放り込み寝室へと引っ込んだ。
それからも何度か上客はセシルと交渉に来た。対価の代わりになるものが無いかと手を変え品を変え様々提案してきたがセシルは全て断った。上客は数少ない信用できる男の客だが、セシルの条件が飲めないのだから仕方が無い。その内諦めて別の情報屋を探すだろう。