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『乳しぼりしか能のない庶民の娘ですが、獣の神に嫁にされて王太子に泣きつかれました』

作者: 月白ふゆ


牛が鳴いたら、世界が揺れる。

乳がしぼれたら、神が目覚める。


「その手で、しぼったのか?」

「はい。朝の五時でした」

「……それは、すでに契約だ」


左角は南を向き、右乳房は真実を語る。

王の寝室には牛乳瓶が並び、神殿の裏には搾乳台がある。

酪農とは、すなわち政治であり、宗教であり、やさしさだ。


パンはパンでも食べられないパンってなあに?

牛は牛でも搾られると神になる牛ってなあに?


答えは、この物語の中にある。

あるけれど、たぶん誰も気づかない。

それでいい。なぜなら――


乳は、問わず語りの真理である。


これは、すべての始まりの、前の前の、

しぼる前の話。


 


 真夏の王都、その中央にそびえる輝石の舞踏会場にて、事件は起きた。


 


「リセ=バルトン! この場にて我は、貴様との婚約を破棄する!」


 


 高らかに響き渡った声に、楽団の演奏はぴたりと止まった。


 貴族たちの視線が一斉に、会場の中央に注がれる。


 白い軍礼装に身を包んだ王太子ユリアンが、真剣な表情で拳を握っていた。その前に立たされているのが――私である。


 


 ……うん、あの、ひとつ言わせて?


 


(私、その婚約、されてませんけど……?)


 


 言いたい。喉まで出かかっている。でも言えばたぶん国際問題に発展するので飲み込んだ。


 


 リセ=バルトン、十八歳。魔道王国ヴェルディ=エル北端の農村出身。特技は牛の乳しぼり、趣味は干し草の仕分け。最近は手搾りと搾乳機の併用について考えていたが、まさか王太子に婚約破棄されるとは思っていなかった。


 


「このような、乳臭く地味で平民の女が王妃に相応しいと思う者はおるか!?」


 


 うわぁ、言った。思ってても言っちゃダメなやつ。誰か止めてあげて。


 だが周囲の貴族たちは、あろうことか「そうだそうだ」「牛の世話が得意なだけの女に」などと同調し始める。こらそこの侯爵令嬢、笑いすぎてグラス倒してるぞ。


 


(なにこれ? 夢? 私、寝落ちしてミルクちゃんの背中で寝てる?)


 


「……あの、殿下。質問しても?」


「許す!」


「そもそも、私たちって婚約してましたっけ?」


「雰囲気でしていた!」


「その“雰囲気”って、もしかして……挨拶のときに少し目が合った程度の?」


「貴様はにこりと笑ったではないか! あれを王太子への愛と取らずして何とする!」


「ミルクちゃんにも同じ笑顔してますけど……」


「その“ミルクちゃん”が問題なのだ!!」


 


 なんか、話が斜め上に飛んでいっている気がする。


 王太子は人差し指をこちらに突き立てると、怒りに震えた声で言った。


 


「常に牛と共にあるような、牧場まみれの庶民娘が、この魔道王国の未来を背負えるとでも思うのか!? 魔法の素養も、礼儀も、貴族らしい気品もない貴様など、王妃の器ではない!」


 


 ……あー。


 つまり、王太子殿下は“ちゃんと”考えてたんだ。真面目な顔で、「庶民出身は王妃に不適切」という結論を、自らの中で導き出して。


 合理的に。冷静に。制度と国益を見据えて――そして、最悪のタイミングと最悪の言葉で断罪した。


 


 なんというか……。


(真面目すぎるって、罪だなあ)


 


 私は軽く息を吸い、姿勢を正して礼を取った。


 


「では、失礼いたします。うちのミルクちゃんがそろそろお乳張らせて待ってるので」


 


 静まり返った会場に、再びざわめきが戻る。


 でも私は、気にしない。


 


 それよりも、牛の搾乳間隔のほうが大事だ。搾り遅れは乳腺炎のもとだし、何よりミルクちゃんが拗ねる。


 


***


 


「……ってなわけで、ただいまー」


 


 夕方。牛小屋の扉を開けると、ミルクちゃんがモウと鳴いた。


 薄桃色の夕焼けが干し草を赤く染めている。


 王都の光景より、私はこの景色のほうがずっと好きだった。


 


「よしよし、待たせたね。今すぐ搾るよ~。お乳パンパンじゃない、可哀想に……」


 


 優しく撫でながら乳房に手を添える。


 ちょっと硬くなってる。舞踏会のせいで数時間遅れたからな……ごめんね、ほんとに。


 


 ぎゅっ、ぎゅっ。


 リズムよく、愛情をこめて搾る。搾乳バケツに白い液体が音を立てて溜まっていく。


 


「……ふぅ。やっぱり、落ち着くなあ……。この温度、重さ、乳の匂い……帰ってきた感じ」


「モー……(満足)」


「ほんとにね。王都の方がなんか現実味なかったよ」


 


 私は誰に聞かせるでもなくつぶやいた。


 


「……でも、ちょっとは悔しかったなぁ。乳臭いとか、地味とか……」


 


 ぽん、とミルクちゃんが鼻で私の肩をつついた。


 その瞬間、ぱちぱち、と。


 空間に火花のようなものが散った。


 


「……えっ?」


 


 ミルクちゃんの身体が、うっすらと光を帯びている。


 しかもその角、少し長くなってない? いや、なんか……金色っぽいし、尾もふさふさしてるし……


 


 っていうか、あの後光みたいなもの、なに? え、聖獣? うちのミルク、まさかの進化?


 


「モォォ……(低音)」


「今、響いたよね!? 地面ごと!!」


 


 そして翌朝。


 


「そなたの手に癒されし我が身は、今ここに覚醒せり……すなわち、そなたは我が選定せし“神の花嫁”なり」


 


 牛小屋に現れたのは、牛耳と角、獣の尾を持った美丈夫だった。


 筋骨隆々、銀白の髪、うっとりするような深紅の瞳。


 だがその腰には……鈴付きの搾乳用バケツが下がっていた。


 


「……だれ?」


「我は、獣神ウシナ。豊穣と大地の加護を司る者なり」


「いや、ミルクちゃんだよね!? 昨日まで牛だったよね!? え、なんで立ってるの!? 二足歩行!? え、何が起きてるの!?」


「まずは搾ってほしい」


「戻ってるぅぅううう!!??」


 


 リセの平凡で乳臭い人生は、ここから急激に“搾られ”始めるのだった。


***


 

 翌朝、私は悩んでいた。


 


 牛舎の隅で膝を抱えながら、床のわら屑をぼんやり見つめる。


 目の前には、うちの愛牛――だったはずの存在が、毛並みの整った美青年の姿で座っていた。頭に角があり、尻尾があり、どこからどう見ても「人化した神獣」っぽい。


 


 名前は「ウシナ」。


 昨晩、搾乳の最中に発光し、そのまま変身した。


 すべてを見ていた弟のリオは「おれ、昨日の搾乳音が何かの呪文だった気がしてきた」とか言いながら納屋に引きこもって出てこない。


 


 ちなみに父と母は、


 


「へぇ〜、神様かぁ。リセ、ちゃんとお礼言っときなさいよ」

「神嫁? ああ、そりゃまぁ縁だし、牛の神様なら悪い話じゃないな」


 


 という“さすが農村”な受け止め方をしてくれた。


 


 だが、私は言いたい。


 


「誰が神嫁だー!!」


 


 牛舎に響き渡る叫び。ウシナが耳をぴくりと動かす。


 


「気に入らなかったか。我が姿は、牛ではなく人のほうが好ましかろうと思ってこうしたが……」


「そこじゃない! 根本のところだよ!」


「では、牛の姿が良いのか」


「違う、そういうことじゃなくて!」


「む、では雌牛に戻るべきだったか?」


「そういう問題じゃなーーーい!!」


 


 いかん。神様相手にツッコミが止まらない。


 


 そもそも、なぜ私は“神嫁”に選ばれたのか。


 問うてみると、ウシナはこう答えた。


 


「そなたの搾乳の手は、我の神核にまで届いた。長き眠りの中で、あれほど“慈しみ”を感じたのは初めてだった」


「……なんかすごい言われようだけど、結局“手つきが良かった”ってこと?」


「正確には、“乳房への圧力加減と感情の振動が、神性反応を誘発した”という理屈だ」


「専門用語で煙に巻くのやめて」


「搾られて、目覚めた。我、至福」


「うん、変態だね?」


「神である」


「神でも変態」


「乳神である」


「そっち方向に特化しないで」


 


 だが、この“変化”は思った以上に大事になった。


 翌日――正午過ぎ。


 


 突然、神殿の使節団がやってきた。


 白い法衣に身を包んだ神官たちが、うちの牛舎の前で神妙に跪き、ウシナに向かって「このたびのご覚醒、まことにおめでとうございます」と低頭した。


 


「ご神体の復活は、三百年ぶり。すぐに神嫁さまのご移送準備を……」


 


 ……は?


 


「ちょっと待った! “移送”ってなに!? どこへ!?」


「もちろん、王都神殿です。神嫁さま、今後は神託の補佐や祭祀など、神殿中心の生活になります」


「え、それって……搾乳は?」


「神牛さまは、牛乳から神力を得る存在。搾乳は神嫁の役目として……」


「じゃあ一生搾るの!? この人(神)を!? ずっと!?」


「尊いですね!」


「待ってあなたたち、想像して変な顔してない!?」


 


 ……ああ、ダメだ。話がどんどん摩訶不思議になっていく。


 私の人生、もう干し草の山には戻れないの?


 


***


 


 結局、村の合意と神殿の粘り勝ちにより、私は“神嫁候補”として王都神殿に向かうことになった。


 途中で、神ウシナは普通の牛の姿に戻って荷車に収まり、無言でモーと鳴いていた。


 こいつ……どの姿でも隙がない。


 


 街道を進みながら、私はふと、王都のことを思い出した。


 あの舞踏会。王太子の顔。


 


「地味で、牛乳くさくて、平民だから王妃にはなれない」


 


 ──あの時は、そう言われた。


 でも今、私は神嫁候補として、神殿に迎えられている。


 同じ王都なのに、立場はまるで逆だ。


 


 その事実に、私はまだどう反応していいのか、わからなかった。


 


***


 


 神殿に到着した翌日、私は“神嫁候補”としての第一歩を踏み出すことになった。


 まず最初に命じられたのは、


 


「神牛さまへの搾乳、および乳質の神気測定」


 


 ……あの。


 神事って、もっとこう……祈りとか舞とか、ないの?


 


「神嫁とはすなわち、神の乳腺管理者にして神力の精製技師。職能的に極めて重要です」


「そんな説明初めて聞いたよ!?」


「ちなみに乳の温度、濃度、魔力含有量などは逐一記録します」


「いや、もう、牛だよね!? ただの高性能牛だよね!?」


「失礼な。神牛さまは全知の存在。宇宙意識すら内包する神性生命体です」


「なのに搾乳されるの前提なんですか!?」


「我が望んだ」


「本人がノリノリ!!」


 


 こうして私は、神殿という場所で。


 貴族でもなく、魔法使いでもなく、ただの庶民の娘として。


 “牛を搾るだけで神の中枢に到達した女”として、静かに、そして確実に、変な伝説の道を歩み始めていた。



***



「本日より、“神嫁選定の公試”を執り行う」


 


 神殿の奥、銀の光に包まれた儀式場にて、厳かな声が響いた。


 老神官が巻き上げる巻物の先に記されていたのは、私の名前──リセ=バルトン。


 畜産農家の庶民娘。特技、乳しぼり。神嫁候補。はい、そうです、私です。


 


(公試って……なに試すの? 搾乳のタイミング?)


 


 私は、神殿の白い衣装に身を包みながら、神妙な顔をしていた。

 それっぽく振る舞ってはいるが、内心は「なにかやらかしたら実家の牛たちに合わせる顔がない」というプレッシャーでいっぱいだ。


 


 目の前には、ウシナが牛の姿で横たわっている。いや、寝てる。うっすら白目むいてる。


 付き添いの神官が私にささやいた。


 


「……神牛さま、リセ様の搾乳の準備に緊張して寝落ちされました」


「やだ、かわいい……」


「眠りの間に魔力が膨張されますので、最も効率よく搾るには“角根の下から左乳房にかけての軽圧迫”が……」


「専門用語多いな!? あ、でもそれうちのミルクちゃんと同じだった!」


 


 試験といっても、やることは至って単純。


 ウシナの搾乳、牛乳の魔力値・濃度・芳香性の測定、それらを元に「神と調和できているか」を見るのだという。


 なんだろう。国の神事なのに、やってることがすごく……牧歌的。


 


「それでは……はじめます」


 


 私はそっとウシナの横腹に手を添え、呼吸を合わせた。


 搾るというより、感じる。


 神の鼓動、温もり、命の通う気配――


 私の手が神の毛並みに触れた瞬間、場にいた全員の魔力が、ふわっと揺らいだ。


 


「……これは……」


「神核と……共振している……?」


「乳房と手が……光っておる……!」


 


 あちこちからどよめきが起きる。


 


「うおっ、すげぇ……!」


 


 聞き覚えのある、妙に素直な驚きの声が響いた。


 


 顔を上げると、そこには――王太子、ユリアン殿下の姿があった。


 


「……あんた、なんでここに?」


「正式な“神嫁公試”の立会いは、王家の務めだ」


 


 いや、それ“王家の男の前で乳しぼりパフォーマンスする”ってことにならない? 羞恥とかそういう概念は?


 


「君が、ここまでとは思わなかった……。神の気を鎮め、力を引き出し、乳まで出させるとは……!」


「語尾がダメ!」


 


 私は慌てて手を止めた。


 神の乳で神聖な空気が台無しになりそうだったからだ。


 


 ユリアンは、以前と変わらぬ真面目な顔で、しかしどこか狼狽しているようだった。


 


「正直、驚いている。私が君を“地味で無能な庶民”だと断じたのは、誤りだった」


「うん、だいぶな」


「だが当時は、君が“国家神格に神乳を与える女”とは思っていなかったのだ」


「そりゃ私も思ってなかったよ!?」


 


 苦々しく笑う私を前に、王太子はふと視線を伏せた。


 


「私は……君を傷つけるつもりはなかった。ただ、王国にとってふさわしい者を選ぼうとしただけだった」


 


 ああ、この人、やっぱり真面目なんだ。


 バカ正直で、空気読めなくて、不器用で。


 でも悪気じゃない。だからこそ、タチが悪い。


 


「……私を“庶民だから”って切り捨てたこと、後悔してます?」


「……している」


 


 ユリアンの声は静かだった。

 見れば、その手はきつく握られていた。


 彼も彼で、立場を守るために、理屈で物事を進めてきたのだろう。


 でも、牛の乳の前では全てが無力だった。

 乳の魔力はすべてを溶かす。搾ればわかる。牛乳は真実を語る。


 


「……殿下」


「なんだ?」


「うちに来て、一週間だけ牛の世話やってみません?」


「え?」


「“王妃にふさわしくない”って言った人には、“乳の現場”を見せたくなるのよ」


「乳の……現場……」


「そう。角根から左乳房にかけての軽圧迫が……」


「それ以上は言わなくていい!」


 


 ユリアンは耳まで真っ赤になっていた。


 ああ、うん。

 この人のこと、別に嫌いじゃなかったんだな、私。


 


 でも――


 


「神嫁の座は、譲らないよ?」


「……当然だ。君こそ、神に選ばれし者だ」


 


 そのやりとりを見守っていたウシナは、満足そうにモーと鳴いた。


 後で聞いた話によると、その瞬間、神殿の地下で三百年沈黙していた聖泉が、再び湧き始めたのだという。


 


 乳の神威、恐るべし。


 

***


 


 それは、王国歴512年「豊穣の月」の十五日。


 魔道王国ヴェルディ=エルの首都グラディオラでは、三百年ぶりに――“神の祝祭”が開かれることとなった。


 


 神嫁の選定が正式に下され、祝祭の開催が決まったのはほんの一週間前のことだ。


 神殿は突貫工事で式典準備に追われ、王都の魔導大学は「乳成分と神性の関係」について緊急論文を発表、街の酪農組合は供給不足に備えて牛乳の価格を一時的に二倍に吊り上げた。


 


 このすべての発端は、そう――


 


「神嫁の座は、譲らないよ?」


 


 あの言葉から始まった。


 


***


 


 私、リセ=バルトンは、いま神殿の中心、聖なる庭で、牛と踊っている。


 ――文字通り。


 


「モォォッ……!(反転横ステップ!)」


「うん、いいよウシナ! そのまま尻尾に意識を流して! しなやかに!」


 


 聖なる祝祭における舞――それは“神と嫁の調和”を象徴するもの。


 神殿の舞踏師は「一般的には雅やかな儀式舞でございますが……今回は、神牛様の意向で“自由表現”に……」と説明してくれた。


 


 結果、私は現在、牛と乳搾りステップを踏みながら神力を拡散するという新儀式を演じている。


 なにこれ。文化って進化する。


 


「リセー! そのステップ、やっぱり実家の“干し草寄せ”がベースなの!?」


「そうだよリオ! 左右にずらすのは馬の通路を作る時の動き!」


「天才か!!」


 


 弟リオはなぜか王都の酪農ギルドと連携して屋台を出しており、牛乳ドーナツを売っている。どこで手配したの。


 


「そなたの舞、見事だった」


 


 祭りの終盤、ウシナが人の姿になり、静かに私に告げた。


 牛姿のときは言葉がテレパシーだったが、人型になると語彙が増えるのがちょっとズルい。


 


「……でも、私でよかったの?」


「他に、あの乳房を慈しむ手があったか?」


「いや、それは私も自信あるけどさ……」


「誇るとよい。そなたの搾乳には、大地の恵みと愛が宿っている」


「うん、今のすごく褒め言葉なのに、内容が誤解しかねない」


 


 その時だった。


 


 遠くから、見知った声が響いた。


 


「リセ=バルトン!」


 


 整った軍礼装姿、規律正しい動き、表情は堅いけれど明らかに“何かを決意した”顔――


 


 王太子ユリアンだった。


 


「……どうしたんですか、殿下。まさか牛の祝祭に自ら?」


「私は今日、この場で“神牛信仰復興議案”を提出するつもりだ」


「……えっ」


「これからの王国に必要なのは、魔法だけではない。命と、土と、乳だ。私はそれを君から学んだ」


「……えっえっ」


 


 周囲の貴族たちがざわつく。神殿関係者が書き記し始める。祭壇にいた大司祭がそっと祝福のポーズをとる。


 


 ユリアンは胸に手を当て、まっすぐに私を見た。


 


「どうか、私に“牛の世話”から学ばせてほしい」


 


 周囲、ざわあああああっ!!


 


「乳の、すべてを……学ばせてほしい……!」


「言い回しが絶妙にアウト!!」


 


 私は思わず神牛ウシナの尻に隠れた。


 


 でも、思った。


 ――この人、ほんとうに変わったんだな、と。


 


 私を“地味で庶民で臭い”と切り捨てた男が、

 今は、“乳の価値”を見出し、

 “牛の世話から始めさせてほしい”と願っている。


 


 なんていうか――


(……人間、搾られなきゃわからないことって、あるよね)


 


***


 


 その後、王太子ユリアンは「乳行政担当補佐官」として任命され、全国の酪農改革に携わることとなる。


 神殿と王宮は協定を結び、酪農を神聖職の一部に認定。


 魔法と牛乳の融合研究は国家戦略技術として整備され、「ミルクマギア」と呼ばれる新体系が爆誕。


 私はというと、神嫁として祈りと搾乳の日々を送りつつ、時折田舎に戻って干し草を積んでいる。


 


 牛たちは今日も、変わらず私に寄り添ってくれる。


 それだけで、十分すぎるほど幸せだった。


 

***



 


 王都郊外、《神殿附属の模範牧場》。


 その一角に、王太子が立っていた。


 


 純白の作業着に、厚手の搾乳手袋、長靴は泥まみれ。

 頭には、干し草と藁が乗っている。


 そして目の前には、尻尾をゆらす神牛ウシナ。


 


「…………」


 


 ユリアン王太子は、黙っていた。


 その表情は真剣そのものだった。

 人間、搾乳に本気を出すとき、言葉はいらない。


 


「……左、少し張ってます。あ、でも前搾りからいきましょうか」


 


 そう言って手を添えたのは、私、リセである。


 神嫁である私は、王太子の“牛の世話研修”に同行指導を仰せつかっていた。

 いわば、搾乳の先生だ。


 


「……前搾り、とは?」


「乳首のつまりを防ぐ、導乳みたいなものですね。こう、軽く……ちょっとだけ」


「っ……っっ……」


 


 王太子、顔が赤い。というか耳まで赤い。

 そしてこっちを見るな。見たら吹く。


 


「目線は! 牛の! 乳首に集中!」


「す、すまない……!」


 


 ウシナが、満足そうにモォと鳴いた。

 この神、どの姿でも満点リアクション。


 


***


 


 牛舎の裏、休憩小屋にて。


 搾乳訓練を終えたユリアンは、無言で牛乳を飲んでいた。


 大きくひと口。


 ごくり、と喉を鳴らしたあと――ふう、と息を吐く。


 


「……甘いな」


「搾りたてですからね」


 


 私は自分の分をちびちびとすする。冷えてない牛乳は、胃にずしんと来るが、それがまたよい。


 


「君は……ずっと、この味を守ってきたのだな」


「守ってたというか、しぼってたというか……」


「そして私は、それを知らずに“地味”と切り捨てた」


「うん、それは事実」


 


 気まずそうな顔をする王太子に、私は笑って言った。


 


「でも、気づいたんですよね?」


「……ああ。“牛の力”は、国家の土台だ」


「もっとこう、感情的な方向の話じゃないの?」


「感情も、もちろんある。ただ、それ以上に……敬意を抱いた。君の姿に」


 


 私は、ちょっとだけ口元を緩めた。


 


「そこまでわかってるなら、もう“庶民だから”とか“乳臭い”とか、言いませんね?」


「誓って言わない」


 


 ふふん、と鼻を鳴らす。

 そのとき、牛舎の方から、バタバタと神官が駆け込んできた。


 


「王太子殿下! 神牛さまが“最終審判”を希望されております!」


「……審判?」


「搾乳姿勢の習得度、乳温への配慮、搾る手の愛情量を測定されるとのことです!」


「基準が情緒的!!」


 


 私は思った。


 ああ、ウシナはきっと、こうして“自分の嫁を切り捨てかけた男”を、最後に搾って仕上げたいんだろうな、と。


 


 そしてそれは、きっと悪いことじゃない。


 


***


 


 審判の内容はシンプルだった。


 神牛ウシナに対して、王太子ユリアンが“一人で搾る”。


 それを私と神官たちが見守り、神の神核が反応すれば“認可”となる。


 


 結果――


 


「……どうでしたか?」


「…………」


 


 搾乳を終えたユリアンに、私はそっと尋ねた。


 彼は汗まみれだった。

 額に干し草が張りつき、膝は泥に染まっていた。


 


 だがその顔は、何かを成し遂げた者のそれだった。


 


「私は……搾ることの意味を、理解した気がする」


「搾ることの意味……」


「“支配”ではない。“強制”でもない。“奪う”のでも、“与えられる”のでもない」


「……はい」


「ただそこに、命がある。力がある。繋がりがある。搾るとは、それを丁寧に受け取るということだ」


 


 ウシナが、満足げにモォと鳴いた。


 その鳴き声が、神殿の鐘と共鳴した。


 神核反応、確認。


 審判――合格。


 


***


 


 こうして、王太子ユリアンは正式に“乳行政参与官”に任命され、神嫁である私リセとは“平等な乳の友”という新たな関係を築くこととなった。


 


 乳を通じて世界を見直した王太子。


 牛を通じて人間関係を再構築した庶民娘。


 神の加護を受け、魔道と酪農が手を取り合った国。


 


 すべては、しぼることから始まったのだった。


 

***



 静かな朝だった。


 神殿附属の牧草地では、露をまとった草がきらきらと光り、牛たちがのんびりと反芻していた。


 空は高く、風は甘く、土は柔らかい。


 そんな空気の中、私は一頭の牛に向き合っていた。


 


「よしよし、今日もお乳は順調そうだね。左の方、少し張ってるかな……?」


 


 軽く揉んで様子を見てから、手のひらを当てる。


 牛は「モー」と低く鳴いて、身をゆだねてくれる。


 この、牛と人の“信頼”こそが、私にとっての神性だ。


 


「搾るって、尊いんだよねぇ……」


「ふむ。よくぞ申した」


 


 背後から聞こえた声に、私は振り返った。


 角のある青年――神牛ウシナが、人の姿で立っていた。


 白銀の髪を風になびかせながら、少しだけ微笑んでいる。


 


「そなたの言葉は、実に真理を突く。搾乳とは、まさしく神事。繋がりを生み、命を運ぶ“祈り”である」


「なんか……最近すごく語彙力ついてきたよね?」


「日々、神殿文書と牛乳パックの裏面を読んで鍛えておる」


「乳の神、努力型すぎる」


 


 そんな私たちの会話を、少し離れた場所で聞いていた男がいた。


 


「……ふむ。左前乳、若干硬め。搾りの間隔、昨日より一時間遅いですね」


 


 白衣を着たその男は、搾乳記録を片手に、淡々と観察を続けている。


 元・王太子、今・乳行政参与官のユリアン殿下である。


 


「殿下、牛を見るときの眼差し、やわらかくなりましたね」


「“牛と向き合う者、心に偽りなし”……君の言葉だ」


「それ、そんな立派なものだったっけ……?」


 


 搾乳が終わり、牛乳の入ったバケツを持って、私は立ち上がる。


 


「今日もいいお乳だったね」


「うむ、まことに尊き乳なり」


「神殿で言わないでね、それ」


 


 私は空を仰いだ。


 牛たちの吐く息が、静かに空に溶けていく。


 


 気づけば、私は神嫁としてそれなりに有名になってしまった。


 けれど、肩書きが変わっても、私がやることはずっと同じ。


 牛に寄り添い、土を踏みしめ、命を搾り、届ける。


 


 ――それだけで、いい。


 


 この国は、魔法の国だ。理論と力が支配する世界だ。


 けれどその中心で、誰かが“搾る”ことを忘れなければ、きっとやさしい国になれると思う。


 


 だから私は、今日も祈る。


 


「世界が、今日もしぼりたてでありますように」


 


 牛が鳴いた。風が吹いた。

 私の一日が、また始まる。


 


―――完―――




ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


当初、「乳しぼりで神に愛される話を……」と書き始めたはずが、

気づけば王太子が牛に蹴られそうになり、

神様が光りながら搾られ、

最終的には王国が“乳行政”に目覚めるという謎展開に至りました。


途中からコメディなのか神話なのか酪農指導なのかわからなくなりましたが、

読者の皆さまが笑って楽しんでいただけたなら、それがいちばんの喜びです。


牛は、偉大です。


また次の物語でも、何かしら“地味で強い”何かと出会えますように。


ありがとうございました!



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― 新着の感想 ―
返信ありがとうございます。 喜んでいただけて幸いです。 思いついたので調子に乗って、おまけです。 大胸筋から搾乳されるのは、塩っぱそうな「ネクタル(神の飲み物)」。プロテインがいっぱい。 ご笑納く…
乳搾り。 乳牛だよね? 牝牛じゃないの? 青年の姿?.........はて? 並以上に発達した大胸筋から搾乳するんでしょうか。絵面にモザイクがかかりそう。
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