第5話 魔力ドーピング発見!? “特別房”と元勇者の噂
あの日の朝も、重たい湿気が監獄全体にのしかかっていた。ガランツァ監獄に来て、五日目の朝だった。
俺──眞嶋隼人は、朝の配膳前に倉庫の整理を命じられていたが、棚の陰で妙な気配を感じて足を止めた。そして次の瞬間、物陰から飛び出そうとしていた痩せこけた囚人を組み伏せていた。
妙に体温が高く、荒い息を吐いている。
「……これは何だ?」
こいつの上着の裏から出てきたのは、小瓶に入った緑色の液体だった。触った瞬間、びりりとした刺激が指先に走った。わずかに粘性があり、瓶の中でとろりと波打つその液体からは、魔素に似た圧がほのかに感じられた。
「知らねぇ! 俺はただ運べって言われただけなんだよ! 本当に、それだけで……っ!」
泣きそうな声で言い訳を繰り返すその囚人を、ナナ・ユリエルが現れて即座に拘束した。彼女の動きには一切の無駄がない。やっぱり、彼女はただの若手看守じゃない。
ナナは小瓶を受け取り、慎重に中身を観察した後、低く呟いた。
「これは……“マナ・ドーピング”ね。魔力を強引に増幅させる、禁止薬物よ」
彼女の言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「ドーピング……そんなもんまでこの中で流通してんのか」
ナナは頷きながら、小瓶を逆さにして一滴だけ落とすと、その滴が床に触れた瞬間、わずかに青白い閃光が走った。
「この薬は、服用すると短時間だけ魔力量が数倍に跳ね上がる。その代わり、身体への負荷も強烈。下手すりゃ魔力回路が焼き切れるし、精神汚染で錯乱状態になる危険もある。だから、正式な魔導機関では全面禁止されてるの」
「そんなもんを、囚人が使ってるのか……」
「ええ、たぶん闇ルートで手に入れてる。そして──この島には、その“供給源”が確実にある」
ナナの目が鋭くなる。
「“特別房”って聞いたことある?」
その言葉に、俺は無意識に頷いていた。D棟のさらに奥に存在するという、立ち入り禁止の区域だ。
「名前だけは……だが中身は全然知らない」
ナナの声が急に低くなった。
「そこには、“元勇者”と呼ばれる男が収監されているって噂があるの。かつて魔王を討伐した英雄。でも、ある時すべてを失って……今ではこの監獄の中でも最も危険な囚人として扱われている」
──勇者? 魔王?
その単語があまりに唐突すぎて、俺の思考が一瞬止まった。異世界に来たとはいえ、どこかで現実味を持てずにいた“ファンタジー”の存在が、唐突に眼前の現実に繋がった瞬間だった。
「待て、魔王って……本当に、いたのか?」
「いたわ。かつて、世界を滅ぼす寸前まで追い込んだ“存在”。それを止めたのが、その“元勇者”だって言われてる」
世界を滅ぼすほどの魔王。そして、それを打ち倒した英雄が──いまは囚人として、鉄格子の中で朽ちている。
「なんの罪で?」
「誰も詳しくは知らない。ただ、その男は尋常じゃない魔力を持っているだけじゃない。言葉で人を狂わせる力があるって。だから、“特別房”に入った看守は、誰も戻ってこない」
まるで都市伝説だ。でも、この島で暮らして数日。俺は思う。──ガランツァでは、そういう話が普通に現実として転がっている。
その時、監視塔から非常ベルが鳴り響いた。
「E棟にて異常事態発生。看守一名、魔力障害により意識不明。房内にて魔素濃度の異常上昇を確認」
報告の声に、ナナと俺は同時に顔を上げた。
「……まさか、もう一本出回ってた?」
ナナの表情が硬直する。
「まずいわ……この監獄の中に、供給元がいる。看守の中に関与者がいるかもしれない」
「つまり──内部犯ってことか」
監獄の腐敗は思っていたより深い。
俺は強く歯を噛みしめた。まだほんの入り口に過ぎない。だが、闇の輪郭が少しずつ姿を見せ始めている。
元勇者、特別房、魔力ドーピング。そして、囚人と看守の裏取引。
だが、ひとつだけ疑問が残る。
(誰が、どんな目的でこんな薬を流してる?)
もしこれが単なる金儲けなら、もっと静かにやるはずだ。だが、今回の件はあまりにも目立ちすぎている。まるで、何かを試すように。
──この薬を通じて、監獄内で“魔力暴走”を意図的に引き起こし、混乱を誘導している。
俺の直感が告げていた。これは試運転だ。次が本番なのかもしれない。
「ナナ。供給源、もしあえて騒ぎを起こそうとしてる奴がいるとしたら──誰が得をする?」
「……それは、混乱の中で“地位を守りたい者”か、“改革を潰したい者”よ」
そう。つまり、今のこの監獄の腐敗を望む誰か。もしくは──俺のような“変化を持ち込む存在”を排除したい者。
俺がここで目指す“更生改革”ってやつは──きっと生半可な覚悟じゃやり遂げられない。
でも、だからこそやる価値がある。
ここで俺は、再び刑務官として立ち上がるんだ。