第五章:終焉なき災厄と、始まりの空へ 第51話『揺れる理性──アルセリス最後の叫び』
瓦礫の散らばる帝都の地下──魔導工房の最奥。
俺たちはついに、その中心に辿り着いた。
そこで横たわっていたのは、かつての英雄にして裏切り者。
――アルセリス・エイデルハイト。
彼の肉体は、まるで数百年の時を経た彫像のように静止していた。
けれど、その目だけが、微かに揺れていた。
「……俺は……まだ、喰われて……いないのか……?」
かすれた声が、かろうじて漏れる。
俺は一歩、彼に近づいた。
「アルセリス……」
その名を呼ぶだけで、喉が締めつけられるような痛みが走った。
彼の身体からは、魔王の意志は去ったはずだった。
でも……そう、完全じゃなかった。
「……根が……残ってる……奴は、俺の核に……巣くってやがる……魂そのものを、喰い破ろうとしてる」
レオンが目を細めた。
「つまり、まだ……完全には自由じゃないってことか」
アルセリスはこくりと頷く。その表情は、どこか悲しげだった。
「頼む……俺を、ここで……終わらせてくれ……。意識が保てるうちに……お前らの手で」
「やめてくださいッ!」
叫んだのは、美優だった。彼女は祈りを捧げるように、アルセリスへと手を伸ばす。
「まだ間に合います。あなたの魂が完全に蝕まれていないなら、癒しの光で──」
「やめろ!」
アルセリスが吠えた。
その瞬間、工房の空気が震える。
「……そんな目で俺を見るな……! 仲間なんかじゃ、もうない……!」
ヴェルが震えながら口を開く。
「でも僕は……君を師として、尊敬してきた。君が築いてくれた理想を、僕は……!」
「その理想に殺されるぞ。今度こそ……俺は、本当に“お前らを殺す”!」
足が、動かなくなった。
目の前にいるのは、かつての英雄。
だが今は、命の炎と闇の瘴気がせめぎ合う、“境界の存在”だった。
レオンが静かに剣を抜く。
「それでも……俺は、お前を見捨てたくない。たとえこの手で終わらせるとしても、それは“敵”としてじゃねぇ。“友”としてだ」
その言葉に、アルセリスの目が大きく見開かれる。
そして──ぽろり、と。
一粒の涙が、彼の頬を流れ落ちた。
「……お前らは、変わらねぇな……。本当に……変わらねぇ」
彼は苦笑する。その笑みには、安堵と恐怖が入り混じっていた。
俺は、前に進んだ。
震える彼の手を、そっと握る。
「大丈夫だ、アルセリス。まだ、お前は人間だ。……俺たちは、お前を仲間として見ている。ずっとな」
そのとき、不意にアルセリスが呟いた。
「……不思議だった。お前たちの記憶が、夢に現れることがあった。……あの、青い空や、高層ビル……。海に沈む夕日……。見たこともないはずの光景が、脳裏に焼き付いて……」
俺の心臓が一瞬止まったような気がした。
「……それ、日本だよ。俺と美優がいた、元の世界の……」
アルセリスの顔に驚きが走る。
「そうか……俺の中の“魔王”が、お前たちの記憶を覗いていたんだな……皮肉だ。おかげで、最後の最後で……少しだけ正気を取り戻せた気がする」
彼の目は、穏やかだった。
そして、俺は心の中で強く誓った。
たとえこの先、どれほどの選択を迫られようとも、
“友”を見捨てるような戦い方だけは──絶対に、しないと。
■
貴族たちは財を抱えて逃亡を始めている。
中央政府の連絡線は寸断され、街の各地では暴徒と化した者たちが略奪を繰り返していた。
……帝国という巨大な機構は、魔王に倒されたのではない。
“信頼”という土台が崩れ、自然に瓦解していったのだ。
「市民の避難ルートはどうする?」
帝都──かつて栄華を誇ったこの都市は、今や瓦礫と灰に包まれていた。
魔王の意志は討たれた。けれど、すべてが終わったわけじゃない。
廃墟の中、俺たちは燃え残る建物の影を縫いながら、慎重に歩を進めていた。
崩れた石畳の上を、避難民たちがよろよろと歩いていく。
飢え、恐怖、絶望。表情に刻まれたそれは、戦いの後遺症──まさに今、帝都は生き延びる者たちにとって“試練の地”だった。
「……これが、勝利のあとってやつか」
レオンが呟くように言う。
目の前にあるのは、敵のいない戦場。だけど、それでも痛ましい。
俺は頷いた。
「魔王は倒した。だけど、俺たちは“国”を救ったわけじゃない」
崩れかけた建物の隙間から、立ち上る煙。遠くで赤子の泣き声がかすかに響き、それに混じって市民たちのすすり泣く声が聞こえる。
「周囲では、軍を失った貴族たちが指揮権を巡って衝突してるようです」
ベルンが地図を広げて眉をひそめながら言う。
「北西の港がまだ機能してるらしい。難民船が数隻、海路を使って避難させてるって情報があった」
ヴェルが、魔導式通信端末の端を指で叩きながら答える。
「なら、そこを拠点にしたほうがよさそうですね」
美優がうなずき、傷ついた市民たちの手当てに奔走していた。
彼女の手から放たれる癒しの光が、疲弊しきった民の顔をやさしく包み込む。
俺たちはすでに、戦うだけの存在じゃない。
生き残る者を導く“責任”がある。
──そのとき、クルスが現れた。
傷一つない黒衣のまま、沈痛な面持ちで近づいてくる。
「……君たちに確認しなければならない。アルセリスを操っていた“真なる黒幕”の存在について、報告を受けた」
「黒幕……?」
「アルセリスの意識に残された断片によれば、“あの魔王”すらも、“誰か”によって導かれていた可能性が高い。これは一連の災厄の“終わり”ではなく、“序章”だったということだ」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
「まだ、いるってのか……? アルセリスより上の存在が」
レオンが目を細める。
「詳細はまだ不明だが、アルセリスが見たという“影の王”──おそらくは異界より来た存在。あるいは……この世界そのものの“内側”に潜む、原初の災いかもしれん」
俺は拳を握った。
「……なら、戦いは終わってない。まだ、俺たちがやるべきことがある」
魔導工房の奥底で、アルセリスが遺した言葉──“止められるのは、仲間である君たちだけだ”。
それは、俺たちへの最期の願いだったのかもしれない。
「民の避難と、帝都再建の計画。そして……残された“敵”を見つけ出す」
誰ともなく、うなずく気配があった。
魔王は去った。
だが、この国の未来は──まだ、俺たちの手の中にある。
「これからが、本当の始まりなんだな……」
俺は、崩れかけた帝都の空を見上げた。
その先には、灰色の雲が広がっていた。
けれど、その先にわずかでも“希望”があるなら。
俺は、どこまでも進み続ける。




