第4話 雑居房で大乱闘!? 深夜の見回りは地獄でした
深夜一時。俺──眞嶋隼人は、見回り任務のためD棟へと向かっていた。
仮眠中のナナ・ユリエルに代わり、急遽ロト・ギャンベルから命じられた巡回。「ちょうど良い。新入りの根性試しにはうってつけだな」などと軽口を叩くロトの顔が脳裏に浮かぶ。
──ろくな目に遭わない予感しかしない。
ロト・ギャンベル。上級看守にして、このガランツァ監獄の腐敗の象徴ともいえる男だ。
恰幅の良い体に鋭い目つき、常に威圧的な態度で部下を支配し、気に入らない囚人には暴力を惜しまない。陰湿な策略で人を追い詰め、都合の悪いことは下に押し付ける。
ちなみにナナ・ユリエルは、数少ない“まともな”看守の一人だ。若くして採用されたハーフエルフで、年齢は二十代前半。中性的な美貌と冷静沈着な物腰を併せ持ち、囚人たちにも誠実な姿勢で接する希少な存在だ。
ガランツァ監獄の夜は、昼とは異なる表情を見せる。
灯りが落とされ、わずかな松明の揺らぎが鉄格子と影を怪しく踊らせる。
その暗闇の中、俺は過去の記憶に引きずられていた──日本での最後の日のことを。
中央省庁の刑務官。俺は、幹部候補と期待され、視察や講演にも呼ばれる立場にいた。だが同時に、それは嫉妬と反感を招いた。
南條正吾。俺の同期であり、かつては互いに切磋琢磨していた存在だった。
だが、俺が評価されるにつれ、彼の態度は徐々に変わっていった。会話は減り、陰で俺の過ちを探すようになった。そしてある日、俺が幹部推薦を正式に受けた直後──南條は、会議室の隅でナイフを取り出し、俺の腹を刺した。
「お前ばかりが評価されるのは、おかしいんだよ……」
血が流れ落ちる中、俺の頭に浮かんだのは怒りでも恐怖でもなかった。──ああ、自分はいつから南條の心の叫びに背を向けてきたのか、という後悔だった。
俺は彼の不満に気づけなかった。俺が正しさを振りかざす影で、どれだけの人間が沈黙を強いられていたのか──それを知る機会は、刺された瞬間にようやく訪れた。
目を覚ますと、俺は異世界にいた。
ガランツァ監獄。
地図にすら載らぬ絶海の孤島で、曲者たちがうごめく監獄。
これは罰なのか。それとも──償いの場か。
(……今度こそ、俺は人を見失わない)
そんな思いを胸に、俺はD棟の三番房へとたどり着いた──
房の中では、空腹に駆られた囚人たちが、床に落ちたパン屑を奪い合っていた。
パン屑といっても、それは本当に乾いた、指の先ほどの小さな欠片だった。だが彼らにとっては、それが明日への命綱だ。
ひとりの囚人が、手のひらに乗るほどのパン屑を抱え込む。その腕を、別の囚人が乱暴に引き剥がし、肩口を噛むようにして奪い取る。
「てめぇ、俺の分まで取りやがって!」
「黙れ、これは昨日の分の補填だ!」
別の一人が壁際で這いずりながら、まるで獣のように舌を使ってパンの欠片を床からなめとっていた。目は虚ろで、何も見えていない。ただその小さな塊に執着していた。
そしてもう一人。最も痩せ細った囚人が、仲間たちが争う中、胸元にパンの屑を隠そうとしていた。その様子に気づいた男が、怒声を上げながら飛びかかる。
「隠してやがったな、このクソがあああッ!」
鉄拳が飛ぶ。顔面に、腹に、容赦のない拳が叩き込まれる。乾いた音と共に呻き声が重なり、部屋の中は暴力と飢えの地獄と化した。
まるで獣の檻だった──いや、それ以下かもしれない。理性も尊厳も、空腹の前ではあまりに脆い。
俺は鍵を差し込み、震える手で鉄扉を開けた。
「やめろッ!! 落ち着け!!」
怒鳴り声とともに室内へ飛び込む。
一瞬、囚人たちの動きが止まる。
が──次の瞬間。
「看守が一人だけだぜ!? まとめて潰しちまえば、誰も止められねぇ!」
「やれっ!」
男たちが一斉に俺へ向かって飛びかかった。
クソッ……!
警棒を引き抜き、目前の囚人の腹に突きを入れる。だが多勢に無勢。背後から腕を掴まれ、足を払われて床に叩きつけられた。
頭がくらくらする中、拳が飛んでくるのが見えた──その時だった。
「やめろ!!」
鋭い声とともに、男たちの一人が吹き飛ばされた。
「……ジリア……!」
現れたのは、房にいたはずの囚人──ジリアだった。
冷たい視線で周囲を一瞥し、立ち上がった囚人たちを片っ端から殴り倒していく。無駄のない動き。まるで兵士のようだった。
「……看守に手を出すな。ルールを守れない奴は、俺が粛清する」
怒気も激情もなく、ただ静けさだけがあった。それが、何よりも重く、冷たい。
ジリアのリーダーシップは、力だけではない。判断力と公平さ、行動の迅速さ──それが囚人たちの秩序を保たせていた。
彼はどの派閥にも属さず、だが誰からも無視できない存在だった。
数十秒後、部屋は沈黙した。
倒れ伏す囚人たち。ジリアは俺に視線を向ける。
「……深夜の見回り。ご苦労だったな、眞嶋隼人」
「……助かった。……なんでお前がここに?」
「ここの秩序を保つのも、俺の“責任”だからな」
俺が何か言い返そうとしたとき、ジリアはふと視線を外し、静かに口を開いた。
「……だがな、看守殿。次はもう少し、賢く動け。あんたが死んでたら、誰も得をしない」
「……忠告、感謝するよ」
「それと──あんたみたいな奴がここに来たのは、奇跡だと思ってる。だから……無理をするな」
ジリアの声には、僅かながら本気の色が滲んでいた。俺の肩に手を置くと、彼は短く言った。
「今夜の件は、俺に借りができたな。ひとまず……お疲れさん」
──そう言い残し、ジリアは静かに房の奥へと戻っていった。
俺はしばらくその背中を見送った後、鉄扉を静かに閉じた。
暴動寸前の房を、一人で止めるのは無謀だったかもしれない。
だが、その中でも信じられる“存在”があること──それが、ほんの少しだけ心を軽くしてくれた。
そして同時に胸の奥に浮かんでいたのは、かつての自分への悔いだった。
もしあの頃、もっと“現場”を見ていたら──人の声を、痛みを、嘆きを、もっと聞いていたら──
俺は刺されずにすんだのかもしれない。
だが、そんな『たられば』を悔やむだけではもう遅い。
だから今、俺はここで生き直す。この監獄という極限の現場で、もう一度、刑務官としての誇りを取り戻すんだ。