第30話『希望か打算か──ガルバ所長、帝都へ報告
翌朝、監獄島ガランツァに濃い霧が立ちこめるなか、一隻の小型船が港に待機していた。
その船には、頑丈な革鞄を抱えたガルバ・ドラン所長の姿があった。
所長室では、最後の打ち合わせが静かに行われていた。
「……本当に、行くんですか。ガルバ所長」
俺は言葉を選びながら尋ねた。
彼は、煙草に火を点けて深く一息つくと、小さく頷いた。
「ああ。誰かが“現場”の声を届けにゃならん。あのクルスの報告だけで、すべてが決まるのは面白くない」
「でも、帝都の会議って、そういう理屈が通じる場所じゃ──」
「それはわかっておるよ。だがな、ワシは若い頃、帝都の矯正局にもおった。上の連中が何を恐れ、何を重視するかくらいは理解しておる」
俺は少し意外だった。あの飄々とした態度の裏に、そんな過去があったとは。
彼はくしゃりと顔をしかめて煙を吐いた。
「……昔な、“正義”を語った若造がいた。理想ばかりで空気も読めない奴だったが、不思議と人に信頼されてのう。ワシはそいつをずっと、馬鹿にしてた」
「それは……」
「ワシの話さ。若い頃のワシじゃよ」
静まり返った空間で、所長の目が一瞬だけ柔らかくなった。
「ガランツァの更生改革──お前さんがやっておるそれは、無謀に見えて、どこか昔のワシに似とる。だからこそ、見過ごせんのじゃ」
ナナが横で小さく息を呑んだ。
「所長……」
「ワシの行動が“希望”と映るか、“打算”に見えるかは、まあ向こうの連中次第じゃ。だが、ガランツァの声を、囚人たちの努力を、ただの数字に還元されてたまるか」
彼は立ち上がり、革鞄を肩にかけた。
「……この島で起きてることは、単なる監獄の話じゃない。人間が、“もう一度やり直す”ことができるのかどうか──その問いへの、実地報告じゃ」
ナナも、ジリアも、メルクも、それぞれの目でガルバを見送った。
やがて、港の霧のなかに船が動き出し、静かにガランツァを離れていった。
俺たちは信じていた。
あの所長が、ただの老いた看守長ではないことを。
彼の正義が、帝都に届くことを──。
──そして、翌日の昼過ぎ。
再び、あの小型船がガランツァの岸に戻ってきた。
乗っていたのは、満身創痍のガルバ所長と、沈痛な面持ちのクルス・ミラージュ帝国査察官だった。
二人とも、衣服は血と泥にまみれ、所長の顔には火傷と裂傷の痕が浮かび、クルスも腕を押さえて苦しそうにしていた。
港に集まった囚人たちや看守たちは、異様な雰囲気にざわついた。
「所長!? 無事ですか!」
駆け寄ったナナと俺が支えると、ガルバは荒い息のまま呟いた。
「帝都が……襲われた……魔物の群れが、城下に……」
その言葉に、場にいた全員が凍りついた。
「ま、魔物……?」
「そうだ……あれはただの獣じゃない……理性もある……“指揮者”がいる……」
ガルバの視線は虚ろだったが、確かに恐怖と絶望が宿っていた。
「……更生どころの話じゃねえ……帝国そのものが、揺れているぞ」
その隣で、クルスが低く付け加えた。
「俺の査察報告書も、もはや意味をなさない。だが……希望という言葉の重さを、今さら理解したよ」
俺は一歩踏み出し、問いかけた。
「クルスさん……あなたは、どうしてここに?」
彼は、かすかに笑った。
「逃げ遅れた。ただそれだけだ。だが──逃げながら、あんたらの言っていた“理想”というやつを、少し考えた。合理主義だけでは、どうにもならない時もあるようだな」
その時、ナナが一歩前に出て、厳しい目で問いかけた。
「……それで? あなたの本音はどうなんです? 私たちの更生改革、正直どう思ってるんですか」
クルスはしばし沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「俺の本音か……。
正直に言えば、更生なんて幻想だと思っていた。だが、あの地獄のような帝都の炎の中で、お前たちが築いてきたものが、どれほど“人間”を救っていたのか──少しだけ理解した。
俺は……たぶん、“希望”を信じたかったのかもしれない」
この突如として訪れた“帝都襲撃”という異常事態。
それは、俺たちの戦いが“監獄の中”にとどまらず、“この世界全体”に広がるものだという兆しだった──。
監獄島にとっての希望のある未来とは、ただ規律で縛る従来の監獄制度ではない。
罪を犯した者が、過ちと向き合い、誰かと信頼を築き、やり直す場所を持てること。
そして、希望とは──それを信じる心そのものなのだ。
そして、新たな章が静かに幕を開けようとしていた。