第2話 元パン屋の囚人、メルクと出会う。……なんで投獄されたの?
便所掃除を終えて水場で手を洗っていたとき、ふと視線を感じて振り返ると、壁の陰からじっとこちらを見ている男がいた。
ぼさぼさの栗毛に、痩せこけた頬。囚人服はくたびれていて、袖口は破れている。何よりも、目が合った瞬間、彼はビクッと肩をすくめた。
「あっ、ご、ごめんなさい! 見てたわけじゃなくて……ただ、その……あの……」
まるで怒鳴られるのを覚悟しているような態度。
俺はゆっくりとタオルで手を拭きながら、なるべく柔らかい声で言った。
「……君、何か用か?」
彼は首を横にぶんぶん振った後、小声で言った。
「ち、違うんです。ただ……あの、タオル。よかったら……」
そう言って差し出されたのは、洗い立てではないが比較的きれいな布切れだった。
ここでは貴重な清潔用品だろう。俺はありがたく受け取って、軽く頭を下げた。
「ありがとう。……名前は?」
「メルクです。元……パン屋です」
元パン屋。
似合っている気がした。彼の手は痩せていたが、指先には焼き仕事の跡があり、どこか誠実さがにじんでいた。
メルクは、俺の隣におそるおそる腰を下ろすと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ぼく……帝都の第八区で家族とパン屋をやってました。店は小さいけれど、常連のお客さんもついてて、毎朝暗いうちから仕込みをして……それなりに幸せだったんです」
淡々と話す口調には、過去を思い出す痛みがにじんでいた。
「ある日、店にとても身なりのいい若者が来たんです。高価なマントに、金飾りの靴。どう見ても貴族のご子息でした。で、その人が、並べていた菓子パンを全部手に取って食べ始めたんです。……黙って」
俺は無言でうなずいた。
「最初は冗談かと思って……でも、全部食べ終わっても、彼は笑って言ったんです。“今日のはまあまあだな。勘定は父に送っとけ”って」
メルクの声がかすれた。
「僕は、勇気を出して言いました。“申し訳ありませんが、代金は現金でいただいています”って。そしたら……彼の顔が、ものすごく変わったんです」
貴族の怒りは凄まじく、翌日には衛兵がメルクの店に押しかけてきた。
「暴言と暴行の罪」で現行犯逮捕。取り調べもまともに受けさせてもらえず、証言は記録されず、裁判も開かれなかった。
「父は足が悪くて、母も高齢で……でも、誰も助けてくれなかった。騎士団の人は、“逆らったお前が悪い”って……」
メルクは唇を噛んだ。
「だから、気がついたらここにいました。ガランツァ。罪状は“貴族に対する無礼および暴行未遂”……暴行なんてしてません。僕、怒鳴り声すら出せなかったのに……」
この世界の貴族社会は、階級構造が絶対だ。
貴族は生まれながらにして“上”の存在であり、庶民が口答えすることは国家への冒涜とされる。
特に王都や帝都では、法よりも貴族の体面が重視される風潮が根強く、裁判の機能は“貴族のための正当化”に過ぎない場合が多い。
貴族の息子が過ちを犯しても、それを咎めた庶民が罰せられる。
それが、この国の現実だった。
俺はその場で何も言えなかった。
だが、それでも、メルクの目を見て感じた。
彼は、嘘をついていない。
「大変だったな、メルク」
俺は少し身を乗り出し、ゆっくりと語りかけた。
「……よく、耐えたな。誰にも助けてもらえない中で、それでも家族のために声を上げた。その勇気、立派だったと思うよ」
メルクは一瞬目を見開いた後、俯いて唇を噛んだ。
「……そんなこと、言われたの初めてです」
「誰もが間違いを起こさないわけじゃない。でも、お前は何も間違ってない。間違ったのは、その貴族だ。声を上げたお前を、俺は尊敬する」
俺の言葉に、メルクの肩がわずかに震えた。
「この監獄で生きるのは大変だ。でも、お前みたいなやつがいるなら……俺は、ここでも刑務官でいられる気がする」
メルクはこっそり袖で目を拭った。
「ぼく、ここで変わりたいんです。諦めたくないんです……」
俺は、その言葉に力強くうなずいた。
「一緒に頑張ろう。俺はまだ新入りで、何も分からないけど……更生ってのは、一人じゃできない。仲間が必要だ。メルク、お前が最初の仲間だ」
「……はいっ」
はにかむような笑顔を浮かべたメルクを見て、俺は思った。
ここには、理不尽に沈められた声がある。
ならば、俺が拾う。拾って、届ける。
それが──俺の役目だ。