第24話『メルク、初めての“パン作り再挑戦』
視察まで残りわずかとなった朝、雑用室の片隅でメルクが神妙な顔で立っていた。
「本当に……僕に任せてくれるんですか?」
俺はうなずいた。「ああ。君のパン職人としての腕を信じてる。更生モデルの目玉として、君のパンを視察団に振る舞いたい」
メルクの顔が引きつり、だがすぐに小さな決意の光が灯った。
「わ、わかりました……やってみます!」
かつて冤罪で投獄されたパン職人──その過去を乗り越える挑戦だった。
雑用室の奥にあった古びた調理場。元は倉庫だった空間を、急ごしらえで簡易キッチンに改装してある。
天井からは煤が染み出し、石壁の隙間には湿気がこもっている。木製の作業台は角が欠けており、幾度も使い古された道具たちが並んでいた。
だが、設備は不十分。オーブンは旧式で、火の加減も不安定だ。
「火力、弱すぎます……」
「薪が湿ってるな。ベルンが乾いたのを持ってきてくれるはずだ」
メルクはおろおろと火口をいじりながら、顔を煤で真っ黒にしていた。
初日から順風満帆とはいかなかった。
次に問題となったのは、計量用のはかり。
「重さが狂ってます……これじゃ焼き加減も安定しません」
俺が代替案を探している間にも、彼は即興で小石や計量皿を工夫して対応していた。
その手は小刻みに震えており、息は浅く、額には玉のような汗が浮かんでいた。
「メルク、少し休んだほうが……」
「い、いえ、大丈夫です……! 今止まったら、二度と向き合えなくなる気がして……」
そこへジリアが、腕を組んで覗き込んできた。
「パン焼くのは勝手だが、においが充満したら他の囚人が騒ぐぞ。特にD棟の連中、腹減ってるからな」
「……それは避けたいですね」とナナが頷きながら、空気の流れを調整するための布を窓辺に設置し始めた。
だが、準備を進めるうちにさらなる異変が起きた。
粉が湿っている。袋の底から水が染み出ていたのだ。
「っ……誰か、袋に水を混入させたか?」
ジリアが眉をひそめ、周囲を見回す。「嫌がらせだな。狙いは、メルクの再挑戦を潰すこと」
俺はすぐにベルンを呼び、替えの粉を手配。だが時間は限られていた。
「……もう大丈夫です。少し足せば、まだ使えます」
メルクは震える手でボウルを握りしめ、汗をにじませながら生地をこね始めた。
こねては崩れ、崩れては形に戻し、十数回目の練り直しでようやく形が見えてきた。
「これが、僕にできる償いなんです。誰かを傷つけるのではなく……温かいものを作ることで、皆に少しでも笑顔を」
その言葉に、室内の空気が静まり返る。
「おい、メルク」
ジリアがぽつりと声をかけた。「余計な気遣いはいらねえ。お前が作りたいから作る。それでいいんだ」
「……ありがとう」
焼きに入る頃には日が傾き始めていた。オーブンの火加減は依然として不安定で、焦げ付いた第一バッチは全滅。
調理場には焦げたパンの匂いが充満し、メルクの顔にも落胆の色が浮かんでいた。
「……くそっ、もう一回やります……!」
メルクは指先に小さな火傷を作りながら、それでも手を止めなかった。
夕暮れの陽が窓から差し込むなか、蒸気と小麦の匂いが部屋を満たしていく。
やがて、香ばしい香りが空間に広がった。
焼きあがった素朴な丸パンを前に、メルクはゆっくりと深呼吸した。
その姿はかつての気弱な囚人ではなく、自分の手で未来を取り戻そうとするひとりの職人だった。
「隼人さん、次はもっと上手く焼いてみせます」
「十分だ。よくやった、メルク」
パンをひとつ手に取り、俺は視察当日の光景を想像した。
(この一歩が、きっと誰かの偏見を変えるはずだ──)
そのとき、ナナがそっと一つパンを手に取って口に運んだ。
「……あつ、でも……美味しい……ほんとに、優しい味」
ジリアも黙ってひとつ掴み、噛みしめるように咀嚼した後、ぽつりと呟いた。
「……意外と、悪くないな。昔食った兵糧パンよりずっとマシだ」
ベルンが笑いながら大きな手でパンを割った。
「お、ほんとだ。素朴だけど腹にしみる味だな。これが“更生の味”ってやつか?」
「うまいな、メルク。これなら視察団にも堂々と出せるぞ」
「味に優しさがあるっていうか……なんか、こう……泣きそうになる……」とナナは小さく呟いた。
メルクは顔を真っ赤にして俯いたが、目元は確かに笑っていた。
「ありがとう……ほんとうに、ありがとう……」
パンを囲む静かな時間が、確かにここにひとつの希望を生んでいた。