第16話 フライの嘘とジリアの真意
冷たい朝の空気が、更生活動室にひんやりと染み込んでいた。薄明かりの中、埃をかぶった古い書棚が並ぶこの部屋で、俺はフライと向かい合っていた。
机の上には、複写された密告文と、使用済みの報告書がいくつも広げられている。紙の縁は少し焦げていたり、折れ曲がっていたりと雑然としていたが、それでも一つ一つに目を通していく。
「フライ、お前……この筆跡、見覚えは?」
俺の問いに、フライは目を伏せたまま、僅かに眉をひそめた。
「知らねえな。でも、ちょっと待てよ……なんか、この“止めの形”とか“払いの角度”、似てる気がしなくもねえな……」
「“似てる”じゃ足りない。お前の目は、俺より確かだろ」
部屋の隅の鉄製ランプが、パチパチと火花を立てていた。その光に照らされたフライの顔が、わずかに揺れて見えた。
「……いや、わかんねえってば。俺が書いたんじゃねぇ」
「そうじゃない。お前は誰かが“書いているところ”を見たんじゃないか?」
俺がそう言うと、フライの肩がピクリと動いた。
「……なんでわかる?」
「隠す時の目の動きで、大体の嘘は見抜けるようになってるんだ。前職の癖でな」
「……チッ。おっかねぇな、元エリートってやつはよ」
フライは観念したようにため息をついた。
「俺が見たのは──夜中、記録室の隅っこで誰かが何かを書いてた。灯りも点けずに、静かに書いてやがった」
「顔は?」
「見えなかった。ただ、細くて、手の動きが妙に落ち着いてて、なあ……囚人の仕草じゃなかった気もする。でも看守にしちゃ動きが静かすぎた」
「どっちとも取れる、か……」
「俺が声かけようとしたら、気配に気づいたのかスッと隠れやがってな。俺はビビって戻った」
フライの声は震えていた。これが全部真実かどうかはわからないが、何かを目撃したのは確かだ。
その晩、俺はジリアと雑用室の片隅で向き合っていた。灯り代わりの小さなランタンが、部屋をぼんやりと照らしている。
「──フライが口を割った。でも、確証はまだない」
俺が言うと、ジリアは紅茶のカップを持ち上げ、ゆっくりと香りを楽しんでから静かに口を開いた。
「焦らないことね、隼人。あなたが疑われている今、軽率な行動は逆効果よ」
「……それでも動きたい。あの密告文は、俺たちを分断するために使われた」
「そうね。でも、敵の意図がそこにあるなら、私たちはそれに乗らないこともまた“行動”なのよ」
彼女の言葉に、俺は言葉を失った。
「信頼ってのは、積み上げるのは時間がかかるけど、壊れるのは一瞬だ。俺はその重さを、あの密告で痛感した」
「だからこそ、急がないことよ。ナナも、ベルンも、皆があなたを見ている。信頼は“試されるとき”にこそ真価を問われるわ」
「……俺は、間違ってないよな?」
「そう思うなら、それを証明するための“静かな戦い”を選びなさい」
ジリアの視線が、窓の外──管理棟の黒い影に向けられる。
「ねえ、隼人。密告文の“文体”には奇妙な整い方があるの。句読点の使い方、文の接続、漢字の選び方──まるで、公式文書みたいに完璧」
「……つまり?」
「看守。それも、事務に通じた人間。私は“ロト”より上の可能性も疑ってる」
俺の背中に冷たい汗が走った。
「……クルス、か」
「断定はできない。でも、あの文体と書式は“誰かに見られることを前提とした”文章よ。つまり──操作されている」
「ジリア……今は、俺は動くべきじゃないか?」
「だめよ。あなたが動けば、次は“更生派の暴走”として利用されるわ」
「くそ……」
俺は天井を仰いだ。錆びた梁が、ギシリと風にきしむ音を立てる。
「なら、俺はどうすれば……」
「信じること。あなたが信じてきた仲間を、そして自分の“眼”を」
ジリアはそっとカップを置いた。
「真実は暴かれる。その時まで、じっと堪えて」
ランタンの灯りが揺れ、俺たちの影を床に映していた。
この闇の中にも、微かな光はある。