第八話 水脈
屋敷から逃げ出したアルが一人でやってきたのは、ワイバーンの隠れている洞窟だった。
ワイバーンが嬉しそうにアルへ歩み寄る。
アルから魔力の補充を受けたワイバーンは、アルの前で子犬のように横になってじゃれつく。
アルは四十九層に設置した転移魔法陣に対をなす魔法陣をその場に作り、ワイバーンを連れて迷宮の中への転移を試みる。
転移は成功し、久しぶりに濃い瘴気を感じたワイバーンは歓喜の咆哮を上げる。四十九層の洞窟から出ると、水害から回復した針葉樹林の上を存分に飛び回った。
広々とした階層を満足気に飛翔する翼竜の姿を見届けると、アルは再び転移魔法陣を利用して元の洞窟へ戻った。
確かに、四十九層の洪水を止めてから迷宮は一時的に落ち着いている。
だが外部から何らかの侵略を受けているのだとすれば、このままでは根本的な解決にはならない。
アルは洞窟内の転移魔法陣を消し外に出ると、洞窟を消して元の岩の割れ目へと戻した。これでワイバーンが地上にいた痕跡は、全て消えた。
岩山の上から地上を見下ろし、地下迷宮の周辺となる盆地をじっくりと眺める。
盆地の中央にはティリア川が西から東へ流れ、その川が運んだ土砂により狭い平地を作っている。
それを取り囲むなだらかな丘陵地帯が広い意味でのティリア盆地で、アゼリックを経て南の帝都へ至る北聖街道の通る南東側以外の三方を、高い山脈に囲まれている。
ティリアの街は、盆地の北側に連なる丘の周囲に広がっている。
アルは少し山を下って北の山脈に連なる丘の上へ移動し、再び南の盆地を見下ろした。ティリアの街を挟んで正面に見える南西部の山塊の向こうが、リサの実家のあるエジェレだ。夜半にヒカリが変化したドラゴンに乗ってあの山を飛び超えたのは、まだ一か月少々前のことだった。
ティリアの街の中央に聳える冒険者ギルドの建物を基準にして、地下に広がる迷宮の範囲を想像する。
四十九層へ流れ込んでいた聖なる水は、北の山側から迷宮へ入っていた。街の南を流れるティリア川とは違う水源が、地下にはあるのだろう。
だがあれほど大量の水を迷宮へ引き込むための大規模な土木工事を、人知れず行えるものだろうか。
北の街では既に夏の終わりを迎えている。
春の雪解け水も減りティリア川の水位が下がっている時期だった。
北の山から流れ来る地下水も、この時期には水量が減るのではないか?
アルは北側の山沿いを目立たぬよう認識疎外の魔法を使いながら飛翔して、調査を始めた。
間違ってもワイバーンのような騒ぎに発展しないように気配を殺して、高空からゆっくりと時間をかけて地上と地下とを走査する。
地下水をどうやってあれほど大量に、特定の場所へ導くのか。どう考えても、それは普通の人間に可能な技術の範囲を超えている。
だとすれば、冒険者のような魔法使いの集団が絡んでいるに違いない。
アルは魔力感知の範囲を広げて、周辺の山野に集中した。
しかし、僅かに感知できるのは地下の迷宮に由来する瘴気と魔力ばかりだった。
では、その迷宮に流れ込んでいた聖なる水を感知できないものだろうか。
聖なる水をたたえた湖の畔で育ったアルも考えたことがなかったのだが、感覚を研ぎ澄ませば、確かに聖なる水には何らかの独特の気配を感じる。
空中に留まったまま地下の水脈の気配に集中した。
北の山から流れ来る地下水が盆地に集まり大きな地下の伏流水となるが、迷宮の北側を迂回して東へ向かい、再び南下してティリア川へ合流して流れ下る。
その地下の流れの途中に、不自然な箇所があった。
その場所で分岐した水の流れが迷宮に向かい、迷宮の周囲を取り巻くように流れて再び元の流れに戻る。
その分岐点の上にある山の斜面に、周辺の樹木と岩の間に埋もれるようにひっそりと小さな小屋が建っている。
よく見ると認識疎外の魔法がかけられていて、アルの目をもってしても見逃すところだった。
魔力感知で精査してみてその建物の存在に確信が持てたが、目で見ていただけでは見逃していたかもしれない。
厳重に結界が張られた木造の小屋は半地下の構造のようで、地下には更に大きな空間が広がっているような魔力の胎動を感じる。
今は接近して気付かれると面倒なので、アルは無視して周辺の探索を続けた。
小屋へ至る森の中の幽かな踏み跡を上空から全て把握することは難しいが、どうやら山村に暮らす木こりや猟師の使う小道から獣道のような細い踏み跡が続いているようだ。
その場所だけ覚えたアルは上空高くへ舞い上がり、今度は迷宮の南側を流れるティリア川の流域の探索にかかる。
同じように広い範囲で聖なる水が地表を流れるティリア川と、更に大きな地下の伏流水の流れを感知できる。
南側にも、川に沿って地下に流れる地下水の大きな水脈が、途中で不自然に蛇行して一部が迷宮へ向かっている部分があった。
やはり、迷宮は何らかの理由で南北から挟まれるように、聖なる水に包囲されていたのだ。慎重に気配を消して宙に浮かびながら、集中して高空から広い範囲を走査しながら少しでも感覚に違和感のある場所をポイントしていく。
次はそのポイントの周囲を、やや高度を下げて集中的に走査する。最終的に、盆地の南側には二か所の怪しいポイントが見つかった。
一つは北の山中にあった小屋に似た、小さな建物だ。
川から離れた北側に残る古い自然堤防の上に立つ廃屋は、蛇行する川の流れが変わる前には川漁師が使っていた建物なのかもしれない。
堤防の上にはかつて使われていた街道の痕跡もあるが、今は巨岩が転がる広い荒れ地となり一部は灌木に覆われている。
その廃屋を起点として、地下水の流れが北へ曲げられて、一筋の小さな流れとして地下深くを迷宮へ向かっていた。
建物の中の気配は北の山中にあった小屋に似ていて、半地下の構造物のようだ。何らかの魔術的な装置により、地下水の流れを捻じ曲げている可能性が高い。
もう一つの気配は、ティリア盆地の南東に位置する村の中にあった。
そこは小さな村の割には古い立派な石造りの建物が多く残っていて、異彩を放っている。その村の中心にある大きな教会から、似た気配を感じた。
教会なので聖なる水と同じ気配を感じるのは、当然と言えば当然ではある。
アルはそれ以上の接近は危険と考え、今日の探索を終えて再び高度を上げてから屋敷へ戻った。
屋敷の中庭では、ヒカリが同時に二人を相手にして稽古を続けていた。
何てことはない、前日までの状況にセシリアが加わっても大きな違いは見えないのだった。
ただズタボロになって倒れる者が一人増えただけで、ヒカリにとっては少々それが面倒になったくらいであろう。治癒や回復にかける時間が少し増えた程度にしか、ヒカリは考えていないようだった。
「そろそろ今日は終わりにすれば?」
痛々しくて見ていられぬほど二人の消耗が激しいので、アルは恐る恐る声をかけた。
「では、そう致しましょう」
ヒカリがそう言うと、リサとセシリアがその場で大の字になって地面に倒れる。
アルは歩み寄り、二人に順番に治癒魔法と回復魔法をかける。
それでも使い果たした魔力は回復しないので、体は重く頭もぼんやりしていることだろう。
ヒカリが投げた魔力回復薬の瓶を、二人が振り向きもせず腕だけ上げて正確にキャッチして寝転んだまま即座に飲み干すのを見ると、それが今日幾度となく繰り返されたルーティーンなのだと想像された。
ちなみにアルの作った魔力回復薬はテネレではよく効くと評判で、迷宮のマットの店でもよく売れていた。
今二人が飲んでいるのは通常の黒い瓶ではなく、きれいなピンク色の瓶に入った特別製で、薬効は強くなった分だけ味が悪く、甘い果実の汁を加えて飲み易くしている。薬瓶も、アルが土魔法で独自に作成したものだった。
そのピンクの瓶入りの薬を、暇なアルが毎日大量に作ってストックしてあるのだった。
ちなみに体力回復薬と怪我の治癒薬なども大量に作ってあるが、そちらはヒカリの治癒魔法の方が即効性があるので、あまり減っていない。
それらの余りはセシリアがギルドに卸して、大いに売れているらしい。
リサとセシリアの魔力はある程度薬で回復できるが、ヒカリの魔力は迷宮へ入るかアルから直接補給しないと回復できない。
ヒカリの魔力切れがその日の稽古終了の合図となるのだが、今日はまだ元気に見える。
「どうだった、今日は?」
アルはとりあえず、まだ余裕のあるヒカリに聞いてみた。
「セシリアはそこの小虫が稽古を始めた時よりはだいぶマシですが、まだまだ先は長そうでございます。今日は初日なので軽めにしたのに、このありさまですから」
「そうね、軽かったおかげで今日は死にかけるまではいかなかったけど……
リサは、多少いつもより元気に見える。
「今日は軽かったのか……私は軽く五回は死を覚悟したが……よく今生きていると自分を褒めてやりたいわ」
セシリアは力なく下を向く。
「馬鹿者、それはアル様の魔法薬と我の治癒魔法に感謝をせい!
十歳以下の子供にしか見えないヒカリが母親のようなセシリアを叱りつける場面には困惑するが、二人の大きな弟子に自ら手を貸して立ち上がらせている姿は微笑ましい。
「ではアル様、我ら三人見苦しい姿をこれ以上お見せするのは忍びなく、揃って風呂場へ行き体を清めてまいります」
聖なる水が怖くて風呂嫌いどころか水浴びをしただけでも命に係わると逃げ回っていたヒカリが、何故か旅の後半から普通に入浴するようになっていた。
迷宮の中に流れる瘴気を含んだ川の水とは全く違うのに、迷宮の外にいる時間が長いせいだろうか、ヒカリも人並の考えを持つように変化している?
普通の魔物が、わざわざ水で体を清めるなんてことはない。ヒカリが普通でないのは知っていたが、これは異常だ。しかもここの浴室では今日アルが空から眺めた流水の一部となる湧き水が使われていて、普通の魔物なら近寄ることも嫌がるだろう。
石の浴槽に溜めてから魔道具で温めるので、実際に浴びているのは普通の水と変わらないのだが、その元を辿れば地下から湧いた聖なる水なのだ。ひょっとすると、ヒカリ本人もその事に気付いていないのかもしれない。
アルの目には、最近はリサもヒカリが魔物だということをすっかり忘れてじゃれ合っているように見える。
そのうち話を聞いてみようとアルは思うのだが、ヒカリと普通の会話をするのは面倒この上なく、怒鳴りたくなるのを我慢して話を続けるのも馬鹿らしいので、ついつい後回しにしたうえに結局すぐに忘れてしまうのだった。




