第十九話 峠越え
そろそろ、ティリアヘ向けて旅立つ頃合いだった。
早起きしたリサがアルの部屋へ入ると、ヒカリがアルに抱き着いたまま眠っているのを見る。
驚き立ちすくむリサに気付いたヒカリが顔を上げると、リサと目が合う。
「ついに我も、大人になってしまった……」
呟いたヒカリの言葉に、リサは愕然として手にしたトレイを取り落とす。高価な陶磁器製のモーニングティーセットが、床に落ちて砕けた。
ヒカリを従えたアルには、ここパール家では密かにロリコン疑惑が語られていたのだが、一笑に付していたリサもこれには驚きと共に怒りが沸騰する。
「アル、何をしているの、あなたは!」
突然の大声に驚いたアルは飛び起きて、隣に寝ているヒカリと怒り心頭のリサを見て瞬時に事情を悟った。
「いや、ち、違うぞ、これは……」
「まさか、アル様からお誘いをいただけるとは。これでヒカリも、一人前の女。嬉しゅうございます」
「こら、馬鹿言うんじゃないぞ。お前は、泣きながら眠っていただけだろうが」
「確かに我は泣いておりました。さすが、アル様は女泣かせ……」
「何のことだかわからないだろ、それじゃ?」
騒ぎを聞きつけた使用人が集まって来たので、リサもこれ以上騒ぎを大きくできなかった。
「アル、ここでこれ以上お話をしても仕方がないので、後でゆっくり聞かせてもらいますからね。ほら、ヒカリも何時までくっついているの。二人とも早く起きなさい!」
エジェレの滞在は予想外に長くなったが、ここから一同は再び馬に乗り、ティリアを目指すことになる。旅立ちの前夜、リサは両親の部屋で母親と話していた。
「あなたには、相変わらず多くの縁談話が届いています。今はもう冒険者になったのだからと、父さんが上手く断っていますが、相手によってはそれも難しく、家へ呼び戻すことになるかもしれません」
「えっ、それは困る……」
それが嫌で、家を出て冒険者を目指したリサである。
「だから、アル君と早く婚約してしまいなさい。そして怪我が治ってテネレへ帰ったら、早く家庭を持った方がいい」
「お、お母さん……」
「で、どうなの、肝心のアル君は?」
「アルは、ずっと私と一緒に居たいと言ってくれたわ。でも婚約なんていうカビの生えた習わしには、まるで興味が無いから」
きっとアルは、そんなのは物語の中だけの話だと思っているのだろうと、リサは諦めている。
「では、お父さんから明日アル君に伝えて貰います。オルセン王家の末裔があなたの相手であれば、何の不足もありませんからね。ほら、これを」
母から渡されたケースに入っているのは、金剛石の光る一対の指輪だった。
「アル君から貰った婚約指輪という事にして、二人で持っておきなさい」
「一応、魔法のリングだからね。二人の絆に加護があるわ。頑張りなさい」
「いいの?」
母は黙って頷き、リサを抱きしめた。
翌朝、アルは居間でリサの父や兄たちと、笑顔で話をしていた。リサは母親が全て上手くやってくれたのだと、感謝の気持ちでいっぱいになる。
アルとリサは指輪を身に着け、その手を振って別れを告げた。
見送る家族と使用人たちは、朝陽が二人の行く手を祝福して輝いているように見えた。
いよいよ、ティリアへ向かう。
「その前に、行きたいところがあるの」
リサは先に立って、山道を往く。やがて道は細くなり、森を抜けて、明るい草原へ出た。
そこは、クリスティンが行きたがっていた、山のお花畑だ。
森の中に開けた小さな高層湿原で、点在する小さな池と短い夏に一斉に開花した様々な高山植物が咲き乱れる、天上の楽園だった。
「あの子は、今の時間だけ燃えるように咲き乱れるこのお花畑を、ヒカリに見せたかったのね」
青空を映す池の周りに、色とりどりの花が揺れる。クリスティンは、この花々に自分の命を重ねていたのかもしれない。
踊る光の中でクリスティンの魂が今もこの草原で遊んでいるような気がして、ヒカリは時を忘れて立ち尽くしていた。
さすがに、もうテネレからの手紙がティリアのギルドへ届いているだろう。
馬に揺られて歩き始めてすぐに、アルは隣の馬上にいるリサへ語り掛けた。
「しかし、何でまたリサは冒険者になろうなんて思ったんだ?」
アルには、さっぱりわからない。
「すぐに死んでしまう弱い人間が、一つしかない命を懸けてまですることではなかろうに」
表情を変えず、切り捨てるようにヒカリも言う。
アルも、ヒカリと同じように感じている。
「こんなに裕福で快適な暮らしを捨てて、わざわざ危険な穴の中へ入り命懸けで魔物と戦うなど、まともな人間の考えることとは思えない」
「うん、私もそう思うよ」
リサが振り仰いだ空を、鷹に追われた小鳥の群れが逃げる。
「普通、冒険者を目指すのは余程腕に自信があるか暮らしに困っているか、そのどちらかだろう?」
「うん。ほら、私は腕に自信があったから」
「嘘をつけ。学園で会ったころのリサはそれなりの腕はあったが自信はなくて、ただ虚勢を張っていただけに見えた」
「バレてたんだ……」
リサは、何かから逃げるように家を出て、生きる目標を失っていたように見えた。
「ああ、他の連中はもっと生きるのに必死で、貪欲だったからな」
「そうだね。あの気が弱いニコルだって、魔法を使うときは目をギラギラさせていたからなぁ……私は何をやっても中途半端だったから」
「エジェレで何があった?」
「あの町はいい所だよ。険しい山に囲まれているけれど、それなりに豊かで住民も穏やかだし。でもそれだけなんだ」
「帝都へ行こうとは思わなかったのか?」
「うん、帝都で勉強していた兄さんの話は刺激的で楽しそうだったけど、私の力では軍に入る他に道がなかったんだ」
「軍に入るのは、嫌だったのか。しかし、母上が語っていたのと違いリサは学問で身を立てることだって出来たのではないか?」
そう言ってからアルは、メリッサのように軍から逃げた者もいたことを思い出す。
「でも、女だからそれは難しい」
「そういうものなのか?」
「今でもね、古い王族や貴族の血っていうのを欲しがる連中は多いんだ。だから私のような娘は、のんびり学問をしている暇なんか与えられずに、嫁に行くか軍隊へ入るか、教会へ行くか、ってところだね」
「そういう縁談ってのは、断れないのか?」
「相手にもよるけど、私の家の仕事上、正式に申し込まれたらなかなか難しいらしいよ。特に帝都の役人とか裕福な商人が、王族に根回しをしていれば」
「だから、目立たぬよう帝都へは行かず、その前に全てを捨てて冒険者になろうとしたのか」
他に選択肢が無かった。冒険者を目指す理由としては、極めてありふれている。
「うん。本当にそんな話もあって慌てたこともあったんだ。でもその時には両親がうまく立ち回ってくれて、ぎりぎりで私の好きなようにしていいと言って送り出してくれたから」
「そうか。血に濡れた道を選ぶ他になかったのは、ある意味では俺と同じだな……」
リサは、アルの指に光るお揃いの指輪を見つめる。
「あのさ、一応アルってギルマスの孫だよね」
「表向きはな」
「ギルマスに黙って、こんな指輪を着けてもいいの?」
「いいさ。じじいの事は気にするな」
そして小さな声で、せっかくテネレを離れたのだから、あのハゲの事は思い出したくない、と呟いている。
「でもね、わたしはテネレの街の、道具屋のおかみさんでいいよ。アルはもう戦うのは嫌なんでしょ?」
「そうだな」
「両親も、喜んでアルを迎えてくれた。まさか、私が冒険者になっても家に縁談が届いていたとはね」
「そうだったのか?」
リサの父親から聞いた話では、そんな切迫した感じは受けなかった。きっと、リサに心配をかけまいと気遣っていたのだろう。
父親は、娘はテネレの英雄に見初められたと自慢できる、などと笑っていた。アルの、オルセン王家の末裔という肩書も大いに利用させてもらおう、とも語っていた。
リサは、頼もしい両親に恵まれた。きっとこの先も兄たちと共に、賢く立ち回ってくれるだろう。
「そうだったみたいね。でも、一日中本を読みながら、道具屋の店番をしている暮らしもいいものじゃない? 暇を見つけては釣りをして……」
「ああ、それが一番いいな」
「まったく、どこのじじいかって感じだけど、アルにはそれが似合ってるよ。でもその時はヒカリも店でこき使ってやろう」
「虫が、何か言ったか?」
ヒカリが振り返る。
「ヒカリは、意外と働き者だからね」
「我は、アル様のためにしか働かぬぞ」
「はいはい」
例によって一日目には途中の宿へ泊り、翌日は馬で山道を歩いて人目につかない場所で夜まで待ってから、再びヒカリの変化した黒竜に乗ってひとっ飛びにティリアヘ向かった。
幾ら深い山中といえども、地上ではドラゴンを襲うような凶暴な獣はいない。
悠々と飛翔したヒカリは、今度もまだ暗いうちに峠を越えて無事ティリアの北西側にある森へ着地した。
さすがに迷宮が近くなり、三人にはその気配が強まるのを感じている。
テネレの迷宮の王であるアルに対して、特に目立った敵意も感じない。まるで、テネレの迷宮へ帰って来たかのような気配であった。
森の中で仮眠をして、明るくなってから動き始める。
あらかじめテネレのアントンたちには、こうして通常よりも早く到着するだろうことを打ち合わせ済みなので、問題はないだろう。リサの家族には魔法を使って一息にティリアへ向かうと言い含めてあるので、道中で出会った人から不思議がられても、それで何とか言い逃れることもできよう。
いざとなれば、アルの魔法で空でも飛んで見せれば納得せざるを得ない。
そんな乱暴なことを話しながら、三人はティリアの街へ入った。
街の入口には門があるが、テネレのような立派な城壁に囲まれているわけではない。
家畜を放っている農場の境に積まれた石垣のように低い石積の壁が、街の周囲を囲んでいる。
ここまで、筏船を使っても普通は一か月前後かかる行程を、三人はおよそ半月で踏破してしまったことになる。




