第一話 開店前
テネレの迷宮三十層のエリア主、ストーンゴーレムを倒して到達した三十二層は、聖なる水をたたえた美しい湖のある安全地帯で、人が永住できるほど穏やかな環境が維持されている。
実際にアルの生まれた旧クレンツ村が七十二年間暮らした実績をアントンが知らなければ、どんな罠が待ち構えているのかと、大いに警戒したところであろう。
しかし行方不明とはいえ迷宮王であるアルが保証していたのだから、余計な心配は無用だった。
アントンの決断でギルドにより大急ぎで開かれた迷宮村は、まだ不揃いな仮設小屋が並ぶだけの粗末な造りである。
しかし日々その姿を変えており、遠からぬうちに大きな町へと発展するだろう。何よりも地上の町と違い、雨風の心配が無いので粗末な建物でも充分快適に暮らせる。
この階層が安全地帯となっているのは、広いフロアの半分を占めている聖なる湖のおかげである。魔物の嫌う聖なる水に満たされたこの大きな湖は冷たく清らかな湖水をたたえ、涼しく過ごしやすい気候と魔物を寄せ付けない加護を与えている。
迷宮外部から流れ込む地下水と共に、この階層には地上由来の様々な生物相が育まれていた。
聖なる水には馴染めない迷宮特産の生き物はほぼ生息せず、地上とよく似た生態系が奇跡的に保たれている。
ギルドはその環境を守るために生態系の保存を第一に掲げ、無知で野蛮な冒険者が妙なことをしでかさぬよう厳しい規則を定め、日々監視の目を光らせている。
村の建設にあたっては生命線である聖なる湖水を絶対に汚染しないよう、細心の注意を払っている。
土魔法により造った用水路で湖水を引き、その水路沿いに様々な施設が築かれた。生活排水は完全に隔離された処理用の池へ導かれてスライムなどの迷宮産生物により浄化され、聖なる水を嫌う迷宮産の生き物の飼育や栽培などに使われている。
宿泊所と水場、共同トイレと共同浴場、洗濯場などが優先的に造られて、その周囲へ町は徐々に広がる。
アルは日々姿を変える新しいクレンツ村を物珍しそうに眺めながら、そこを主な拠点にして、仮面の男マット・レザクとして付近をうろうろしている。
宿屋の数も足りずに野営する者も多いが、環境保護の観点から村の片隅に専用の野営場が作られて、そこ以外での野営は禁止された。雨風も魔物も心配する必要がないので、当初は高い金を払って宿屋へ泊りたくない者も多かった。
しかし野営場も安いとはいえ無料ではない。一部の物好きを除いて、野営する者は次第に減っていく。
ストーンゴーレム討伐のために遠征ルート周辺の魔物を狩りまくったおかげで、暫くは入りやすかった三十二層だが、何時までもそんな状態は続かない。
エリアボスは十層、二十層の経験から三か月程度は復活しないだろうと予想されているが、その他の通常モンスターは毎日せっせと湧き続けて、以前の状況に戻りつつある。
『二十五層、二十九層の魔物被害多数。三十二層の長期滞在は要注意。帰還困難者急増中』
居心地がいいのでうっかり長居をすれば帰り道が大変なことになるので、村のギルド支部も警告文を掲示している。
『帰路の護衛承ります 〈不死鳥の卵〉』
こんな貼紙もある。
テネレ最大規模のパーティが、帰り道に不安がある冒険者のために護衛を付けられるようギルドから依頼を受けていた。
チーム〈不死鳥の卵〉からは、常に数名の高ランク冒険者が交代で村に待機している。
地上でも、三十二層を一目見たいがために、行き帰りの護衛を依頼する冒険者まで現れる始末だ。だがそんな酔狂な者は少ない。
自然と腕に覚えのない者は二十五層より下へは近寄らなくなり、三十二層はいつの間にか静かな迷宮村となっている。
アルは仮面を着けて一人で岩の上に座り、湖に釣り糸を垂れながらいろいろなことを考えていた。
テネレでの一年間の学園生活は、実に楽しかった。
一緒に学んだメンバーは既に卒業し、一人前の冒険者として迷宮に入っている。
アルの友人たちがどこでどんなことをしているのか細かいことは気にしていないが、その気になれば迷宮王の力で追跡調査も可能だった。
しかし、そんなことをしても意味がない。
ただ、毎日のように魔物との戦いで傷つき亡くなる冒険者のリストによく知った名前がないことだけが、今のところの救いだった。
しかし、いつまでもそんな幸運が続くとは思えない。
何しろここは、人の命が世界で最も軽い場所だ。常に冒険者の生き血を吸いながら成長する巨大な怪物の腹の中。魔物の巣窟、迷宮なのだ。
そして迷宮王であるアル・オルセンが、今のところ最も寛げる場所でもある。
アルが街へ戻り辛くなった理由ははっきりしていて、主にギルド長の家に滞在していたあの秋休みの二週間の出来事に起因している。
今でも連日のようにクレンツ村へやって来るお人好しのナタリアとケイティを騙していることによる心の痛みは日々増していて、街で心配しているであろうメリッサや学園の仲間たちのことを考えると、自分がしていることは正しくないのだと深く反省している。
だがどう反省しても、他に取るべき道が見つからない。
どこでどう誤ったのか、これからどうすべきかと毎日静かに考え続けているが、どう考えても自分に大きな落ち度があったように思えぬ部分もある。
他の正しい選択肢が本当にあったのだろうかという袋小路に入り込むと、なかなか抜け出せない。
地上に出たばかりで世間知らずの地底人だった自分が、迷宮より恐ろしい魔窟となったアントンの家で他に何ができたのかと己に問えば、ただ外に出て来るのが早すぎた、自分が甘かった、としか答えようがない。
だが十五年もの間、穴の中で我慢していたのだから、多少は大目に見てほしいものだ。
だとすれば、反省すべき点はさて置いて、今できることは何か、という思いに至る。
こうしてぼんやりと遊んでいるだけでなく、せめて少しは人の役に立てるようなことをしようと考えたのは、自らの過ちを償いたいという心の痛み故なのだ。
そんな理由もあって、アルは三十二層の村で冒険者相手の道具屋を始めた。まあ、単に暇だったから、ということなのだが。
学園にいたころの工房のように目新しいものを作ろうというのではなく、目立たぬように簡単な武器や防具の手入れと自作の魔道具、魔法薬を売る店をひっそりと開いた。
それにあたっては、アルの分身役を担わせるべく生み出した魔物であるヒカリにも店番ができるよう技術を伝授する必要があり、少々時間を要した。
最下層にある迷宮王の間に作られたアルの工房は、学園時代に引きこもっていた部屋よりは数段広く機能的で、新しい技術の開発にはもってこいの研究施設である。
ただ、魔物の王として魔物を倒すための武器や道具を開発するのはさすがにどうかと思うので、主に人の暮らしに役立つものを中心にアルは研究していた。
しかし、よく考えれば迷宮三十二層でそんなものが売れるわけがない。
テネレにいる冒険者の最先鋭が集まる場所で、微弱な魔力をコーティングして毎日の水仕事から手荒れを防ぐ効き目抜群のハンドクリームや、きめ細かい泡立ちでフローラルな香り際立つ最高級洗髪剤などが、どれほど売れるだろうか。
まあ、ナタリアとケイティなら喜ぶだろうけど。
出店をするにあたり、仕方なく以前のように冒険者が求める商売を始めることになる。
武器防具の手入れや簡単な修理、魔道具や魔法薬の作成販売といったところだ。
出店するからには、アルの分身としてマット・レザクを演じるヒカリにも、最低限の技術を教えねばならない。
ヒカリは、ストーンゴーレム攻略のときに誕生したばかりの、変身型の魔物である。
道具屋に必要な最低限の技術とはいえ、子供のころから遊びの延長で様々な素材を扱っていたアルと同じように習得するのには、普通は何年もの修業が不可欠なのだ。
ヒカリの元となった魔物である七十層のエリア主コダマの本体は妖艶な美女なのだが、ヒカリはその妹として生まれた分だけ年若い女性の姿をしている。
普段は二十歳を少し過ぎたような、落ち着いた雰囲気の若い女性だった。
人の心を読み、その姿を変えるヒカリだが、それほど深くまで人の心を覗くことができるわけではない。
アルが変装した仮面の男マットの姿形だけならともかく、その能力までをコピーすることは難しく、時間をかけて一から技術を学習させる必要があった。
元々ヒカリは暗殺者タイプの魔物なので、身を潜めて人を殺める技については超一流である。格闘戦での身のこなしや素早さ、隠密行動に必要な様々な魔法やスキルも多数所持している。
総合的な強さではドラゴンのように派手な力はないが、人型としては最強の部類に入る魔物である。
迷宮主の代理を務めるレッドドラゴンのオレオンに並び、コダマとヒカリは暗殺者として人と渡り合えるだけの高い知性を持っている。
暗殺者というスキルの中では様々な薬物や毒物を扱う能力もあり、元々ある程度の素養も持っていた。
そのヒカリに付きっきりでアルは武器屋と道具屋としての最低限の技術を教え込んだ。
アルを主と仰ぎその言葉を絶対とする魔物としては、アルの教える技術を習得することは光栄の至りだった。その習得は必須であり、完璧にこなして当然の至上命令である。
しかし普通の人間が何年もかかる技術をほんの一、二週間で覚えろというアルのオーダー自体が、そもそも無茶であった。
「アル様、ここの作業は我には少々難しく……」
「アル様、申し訳ございません。また調合を僅かに誤りました……」
周囲に紫色の煙を巻き散らしながら、ヒカリが涙ぐむ。
生まれたばかりで純粋なヒカリは、アルの求めに応えきれない自分が許せない。
その苦悩が強すぎる余りに混乱し、自信を失い絶望を覚えたヒカリの姿はその気持ちと同様に委縮して、いつの間にか小さな子供の姿に転じていた。
「アル様、我が不甲斐ないばかりに、迷惑ばかりおかけして、ヒカリはどう責任を……」
普段と同じような黒ずくめのドレスを纏う十歳にも満たない幼女が、泣きべそをかいて必死に学ぶ姿を見て、さすがにアルは不憫に思い自らのやり過ぎを激しく後悔した。
涙を浮かべながら真剣な表情で小さな手を懸命に使って剣の刃を研ぐヒカリをアルは後ろから抱きしめて、その黒髪のつややかな頭を撫でた。
「済まなかった、ヒカリ。お前に無理をさせてしまった俺が悪い。もう自分を責めるな」
体の縮小と共に失われた魔力を補充してやろうと、アルの持つ強大な魔力をその手から流してやる。
「アル様、このお力は……!」
ヒカリは恍惚の表情を浮かべて、体をぴくぴくと痙攣させる。
そもそも、魔物は迷宮に満ちる瘴気を取り込み生きている。
最下層の濃厚な瘴気の中では、これ以上の魔力の補給など全く不要なのだ。
見た目が小さくなり失われた魔力は肉体の維持に不要な分を放出したに過ぎず、ヒカリにとっての魔力は充分に足りている。
そこへアルの強大な魔力を注ぎ込んだので、ヒカリの中の何かリミッターのようなものが吹き飛んだ。どこかの何かが壊れたのか、入ってはいけないスイッチが入り、繋がってはいけない回路がショートサーキットを起こしたのか……
アルは再び少々やり過ぎたことを知ったが、それも後の祭り。
それからヒカリはアルにしっかりと抱き着いたまま離れず、ひたすら何かを呟いている。
それが「アル様アル様……」と自分の名を呼んでいることに気が付いて、背筋に冷たいものが走る。これ以上困ったことにならなければ良いが、と先行きが不安になった。
それからおよそ一時間、アルに密着していた子供のヒカリは元気を取り戻し、元の大人の姿に戻ってアルの教える魔道具造りを学んでいた。
ヒカリは何かが吹っ切れたように新しい知識と技を次々と吸収し、そこから先は順調に仕事を覚えて行った。
新しい迷宮村で、アルの道具屋が開店する前の出来事である。




