第二十六話 噂(第一章最終話)
アムンゼウスからやって来たメリッサの兄は、今回の攻略戦の勝利を見届けて満足気に帰って行った。
目の前で崩れた迷宮の天井が頭上に迫る中、後方で観戦中の軍人たちも一時は死を覚悟した。
しかし自己犠牲を顧みずシールドを展開し、最後まで維持したアルの姿と、同時に前線基地を守るため最大限の防御態勢をとったアントン以下冒険者ギルドの面々の献身的な行動により救われた。
心打たれた彼は冒険者ギルドの力を認め、今後は要請がなければ軍は一切迷宮には手を出さないと約束をした。
しかも、ギルドからの要請があれば、最大限の協力を惜しまない、とも付け加えた。
メリッサは正式にテネレの冒険者ギルドへの出向が命じられて、文官として今まで通りギルド長の秘書を勤めることが認められた。
今年の冒険者養成学園の生徒たちは迷宮探索部隊との連携による高評価を得て、ほぼ全員が卒業時にCランクの冒険者として認定されることになった。
ファロストの誓いの二人も、彼らが卒業するまでの残り僅かな時間に持てるものを全て教授しようと、学園で懸命に授業を続けた。
アル・オルセンが生きていれば十六歳になっている筈だが、依然その行方は知れない。
ただギルドとしてはこのまま待つこともできないので、名誉の戦死による二階級特進という名目で、アルをCランクからAランクへ昇格させた。
学園はアルのAランク冒険者認定証を祖父のアントン・オズバーンへ授与し、卒業式を終えた。
迷宮十層を目指して行われた学園のクエストでアルとパーティを組んだメンバーは、卒業後もアルを除く五人全員が集結して、冒険者としてパーティを組むことになった。
彼らはいずれ行方不明のアルが戻った時のためにと、チーム〈アル〉と称して活動を始めている。
リディアは前衛としてテネレ有数の強者が集うパーティに勧誘され、レイもその後を追いかけて、どうにか同じチームに潜り込むことに成功した。
アルのAランク認定証は今もオズバーン邸二階の、彼が二週間だけ使っていた部屋の机の上に飾られている。
学園の寮にあったアルの身の回りの品も全てこの部屋へ移したが、あの激しい戦いから三か月以上過ぎた今でも、アルは戻らない。
アントン自身はアルの実力を一番よく知っているので、彼が死んだとは少しも思ってはいない。
心の中では上手く逃げ出しやがったな、と思いながら、まあそのうち気が向けばひょっこり帰って来るだろう、そんなことを言うばかりだ。
メリッサは、アルが死んだのは自分のせいだと酷く取り乱していたが、アントンの説得によりやっと落ち着いた。結局アルがメリッサのために戦ってくれたのは間違いない。
アントンの言う通りに、もしまたアルが帰ってきたら、その時は心からのお礼をしなければならない。だから自分はアルがもたらしてくれたこの幸せを精一杯に受け止めておかねばならないのだ。
冒険者に復帰したナタリアとケイティも、相変わらずオズバーン邸に住み込んだまま時間の許す限り家事の手伝いなどを続けている。
ただ、最近は暇さえあれば新しい迷宮村ができた三十二層へ行って、何日も帰らぬことが多い。
彼女らの提案により新しい迷宮村の名は、アルの出身地と同じクレンツと決まった。
それはアルが生まれて育った、かつてここに栄えた村と同じ名である。
新しい村はできたが、三十二層まで到達できる冒険者は、まだまだ少数の強者だけだ。
新しいクレンツ村は、湖の畔で静かに過ごすにはうってつけの場所だった。
アルは、生きている。岩に埋もれる前に、転移して逃げ延びた。さすがにアントンの屋敷に帰るのは気が引けるので、こうして新しいクレンツ村を中心に、今はマット・レザクとして暮らしている。
湖を泳ぐ魚は魔物ではないので、アルの直接の管理下にはない。
だから今は、こうして湖に釣り糸を垂れている時間が一番自由で楽しい。
学園の迷宮遠征を前に、アルは一つの実験を試みていた。
下層にある七十層のエリア主に、コダマという魔物がいる。
コダマは人の心を読み、冒険者本人やその心に刻まれた大切な人の姿に擬態して相手を攪乱し、隙をついて殺す。迷宮では数少ない暗殺者タイプの厄介なモンスターだ。
旧クレンツ村の住人の何人もが、この非情なモンスターに命を奪われている。
死神と呼ばれたその魔物は、ドラゴンのように絶対的な力を持つわけではない。しかし初見殺しという意味では迷宮最強を誇り、加えて対人戦闘における能力もまた、迷宮最大級の力を秘める魔物である。
アルが新たに生み出したのは、自分の分身に擬態させるための、コダマ型の魔物だった。
三十層への遠征には、その分身をマット・レザクとしてギルドの前線に配置し、参加させていた。
今は、九十三層でレッドドラゴンのオレオンと共に、ファロスト王国の宝物を守っている。何しろ死神と恐れられた七十層のエリア主と同等の実力を持つので、人類最強を誇るアントンよりも遥かに強い。
三十層の戦いでは、うっかりすると一撃でストーンゴーレムを倒しかねない実力を持っていたので、能力を隠したまま最後の保険として前線に立っていた。
ナタリアとケイティがストーンゴーレム戦の後に湖畔で遭遇したマットは、入れ替わったアル本人だった。彼女たちは気付いていなかったが、アル自身もあの秋の休暇の日々から背も伸びて、体も一回り大きく成長を遂げている。
女難の相が大きく出始めたアル・オルセン本人に戻るよりも、無口でストイックなマット・レザクを演じる方が、アルにとっては遥かに気楽なのであった。
彼がアル・オルセンとして再び表に出るのは、いつになるのだろうか。
そういう事情で、残念ながらアルの迷宮脱出の目論見はすっかり失敗に終わった。楽しい街暮らしは、ひとまず先送りである。しかしその分、この三十二層に新しい村ができて、気のいい冒険者たちと楽しく暮らせそうな見込みだ。
「今のところは、これで充分だ」
今日も釣り糸を垂れながら、アルは一人で呟く。
その後も、ナタリアとケイティは足繁く三十二層に通い詰めている。
どうやら新しい男ができたようだなとアントンにからかわれても、相手にしない。
二人もこの一年で、大きな変化を遂げていた。
アルは必ず生きている。そう信じる二人だが、その心は常に揺れている。
ただ、美しい湖の畔を二人あるいは三人で連れ立って、仮面の男と共に仲良く歩く姿が既にギルドで噂に上がっていることを、二人ともまだ知らない。
そしてアルも、リサを筆頭にしたチーム〈アル〉のメンバーが、もうすぐこの三十二層に達しようとしていることに、まだ気付いてはいなかった。
終




