9、散策
パーティーから一夜が明けた。
四郎は梅津が用意してくれた冷房のある寝室で眠りについた。とてもよく眠ることができた。
都会にいるときはいつも朝の調子が悪かったが、今日はかつてないほど調子が上がっていた。
何がそうさせているのだろうか。
例えば、耳を澄ませば聞こえてくる小鳥のさえずりやセミの声や木の葉の揺れる音。
こうした都会では心地よく聞くことのできない音楽が、この場所ではちょうどよいボリュームで流れていた。
そして、畳や木造柱のにおいも都会にはなかった。
四郎は十分に早起きのつもりで一階にやってきたが、梅津はすでに起きていて、ネコたちも廊下をガリガリと削っていた。
四郎は猫の一匹を抱え上げた。
「早起きですね、君たちは」
「にゃー」
みな早起きだから、朝からバタバタしている者は一人もいなかった。
梅津はニコニコ顔で炊飯器の前に立っていた。前日にセットするのではなく、朝起きてから、米を洗って炊き上げるスタイル。
その余裕は忙しい現代人が失ったものの1つだった。
「梅津さん、手伝います」
「ありゃ、四郎君は早起きだね。年寄りに合わせてたら体を壊してしまうよ」
「大丈夫です。朝からとても調子がいいのです」
四郎は外に薪拾いに出た。
ちょうど中庭のほうに、空気で顔を洗っているゴンがいたので誘ってみた。
「ゴンも一緒に行くかい?」
「ふかー!」
ゴンは相変わらず、四郎には懐かなかった。
◇◇◇
朝食とその片付けを終えてしばらく、四郎は出かけることにした。
この地に来たのは、別に旅館でのんびりするためではない。なぜ、自分がこの地にたどりついたのか、それを探るためだ。
その目的を果たすため、四郎は町を巡ろうと思った。
エニグマをリュックに入れて、玄関口に立った。
「四郎君、ちょっと待ち」
玄関口で、梅津が呼び止めた。
「これ持って行き。昨日の残りじゃけど」
「ありがとうございます」
四郎はオレンジジュースのいくつかを受け取った。
家を出てしばらく、四郎は看板を見つけた。「私たちの町」として、猫神市紅猫町の名所が地図案内で載っていた。
特に全国的な知名度を持つ観光名所は存在しない。四郎が知っている場所はなかった。
新鮮な気持ちで1つ1つ巡ろうと思った。
まずは、近くの学校を目指した。
坂の多いあぜ道を下った先に、市立猫神小学校、市立猫神中学校、市立猫神高校がまとめて建っていた。
「あ……」
四郎は学校近くのプレハブにとある建設会社の名前が挙がっているのに注目した。
剣山建設。
思いがけない偶然だった。剣山建設は四郎が高校を卒業した後に勤めることになる会社だった。
「こんなところで意外な縁があったのですね。私の勤めるところとは別の部署みたいですが」
同じ会社だが、ほとんど巡り合うことのない別部署だった。
このあたりの建設を担当しているのかもしれない。
四郎は学校周りを見て回った。
プールから声援とホイッスルの音がこだました。
見ると、水泳部と思われる者たちが活動していた。
その中に、ある人物を見つけた。
ここから見ていてもわかる、四郎にとって特別な人物。
月影鈴音が泳いでいた。
四郎は足を止めて彼女の泳ぎに注目した。
明らかに左右の選手とは違う速度で泳いでいる。
100m程度泳いだ時点で、周囲を25m以上も突き放す速さだった。
あまり見つめていると不審者扱いを受けるかもしれないので、四郎は足を進めた。
校舎の裏側にたどり着いたところで、また見知った顔を見つけた。
校舎の裏で一人ボーっとしていたのは松田優一だった。
四郎は外から彼の様子を見ていた。
すると、優一が四郎を発見して立ち上がった。
四郎は頭を下げて友好な態度を取ったが、優一は険しい表情で近づいてきた。
二人の間にフェンスがあるのでぶつかることはなかったが、優一がフェンスの間から声をかけてきた。
「おい、お前。ちょっと来い」
四郎は言われたとおり、溝の前まで降りて来た。
「おはようございます。優一さんも部活動ですか?」
「優一さんだぁ? なに気持ち悪い呼び方してんだよ」
「申し訳ありません。優一君のほうがよろしかったでしょうか?」
「……ちっ」
優一は舌打ちした。
しかし、四郎に言いたいことがあるようで、自分からどんどん声をかけた。
「お前、都会から来たらしいな」
「はい」
「何しに来たんだよ。都会マウントでも取りに来たのか?」
優一は険しい表情を崩さなかった。
対して、四郎は大人の対応を取り続けた。
「田舎の文化に興味がありまして、色々勉強させていただこうと思いまして訪れたのです」
「勉強だぁ? こんなところに勉強するところがどこにあるってんだ。塾の1つもねえんだぞ」
「学ぶ場所はたくさんありますよ。この地の人たちは本当に美しい生き方をされています。すべてが勉強になります」
「……」
優一には、四郎の言い回しが理解できなかったようだった。
「わけわかんねえやつだな」
優一のその言い分は十分に理解できることだった。
四郎も高校生のころは、勉強と言ったら、学校の勉強、国語、英語、数学といったもののことだった。
誰かの生き方を勉強するという考え方は若い人に馴染むものではなかった。
「優一君は部活動ですか?」
「ああ? ちげーよ」
優一はコンプレックスを感じたように不機嫌な顔になった。
そう言えば昨日、松田が「優一は野球部をやめた」と言っていたのを思い出した。部活動は触れてはいけないワードだったのかもしれない。
「おれはあれだよ……受験生なんだよ」
「なるほど」
「お前は? 受験はしねえのか?」
「予定には入ってません」
「お前、都会人なんだろ。都会のやつは受験をするものじゃねえのかよ?」
「たしかに、僕の同級生は過半数が大学受験をされるようです。ですが、私は学問の熱意が不足していますから、辞退することにしました」
かつて高校生だったころは勉強が嫌だったから受験をしなかった。
いまは受験より大事な課題を見つけたから、同様に受験を辞退するつもりだった。
「ちょっとそこで待ってろ」
優一はそう言うと、フェンスをよじ登って四郎の側にやってきた。運動神経にそれなりに自信を持っているようだった。
降りて来た優一の表情から四郎に対する敵対心が消えていた。
「おれんとこの高校は受験する奴は数えるほどだ。まあ、貧しいしな。おれんとこの親父もおふくろも受験には反対だ。家を継げってうるせえんだ」
優一はそう言うと、草原に座った。四郎も隣に腰かけた。
「飲みますか?」
四郎がオレンジジュースを渡すと、優一は無言で受け取って飲み始めた。
「一応、じじいが学費を出してくれるって話だがな」
「松田さんは受験を理解して下さってるのですね」
「どうだかな。じじいはじじいで、おれに合格するおつむはねえと思ってるだろうけどな。まあ、いずれ全員見返してやろうと思うけどな」
優一は大学受験に野心を燃やしているようだった。
色々と劣等感をくすぶられる過去があったのだろう。
「まあおれんとこは代々、小卒中卒の家系だからハンディはでかい。つくづく思うぜ。世の中、親ガチャだってよ」
「親ガチャですか……」
親ガチャというのは四郎が40歳になったころから流行り出した言葉だったが、優一はこの田舎でそれよりもずっと早くその言葉を紡いだ。彼がその言葉のパイオニアだったのかもしれない。
「お前もそう思わないか? 都会のボンボンは生まれてすぐ特別な教育受けてんだろ」
「そういう家は少なからずあると思います」
「おれんとこは何にもねえ。ガキのころから畑仕事させられて、セミ採り、ザリガニ釣り、そんな田舎臭いことばっかだ。つくづく不公平だよ」
優一がそう言うと、四郎は思わず苦笑した。
「ああ? 何笑ってんだよ」
「すみません」
「田舎もんだからってバカにするなよ」
「違います。自分のことを鑑みてそう思っただけなのです」
四郎はそう弁明したが、それは本当のことだった。四郎も優一と同じころは同じような思想だった。
しかし、いまこの地にやってきて、他人にアドバイスできることが1つだけあった。
「優一君は都会に生まれたらみなハッピーだと思っていますか?」
「なんだよ? 違うのかよ?」
「ある人の話をしましょう。都会に生まれ、都会に暮らした悲しい人間の一生です」
四郎がそう切り出すと、優一は真剣に聞く態度を取った。
「都会に生まれて、都会の会社に就職しました。趣味は携帯機とにらめっこ。あとは仕事とそんなむなしい趣味を繰り返すばかり。恋人もできず、独身のまま年を取り、人生に絶望して、やがて、その人は自ら命を絶ちました」
「……」
「都会に生まれたってしょせんこんなものです。ですが、この地には都会の人が持っていないものを持っています。それを大切にしてください。受験は応援しています。ですが、大切なものだけは忘れないでください」
四郎がそう言うと、優一は哲学にふけるように物思いに老け始めた。
こうして、優一のことを見ていると、確信できることがあった。
彼は大事なものを見失わず、新しい未来を切り開く才能を持っているのだと。
そして、それは四郎自身が必要とする生き方でもあった。
優一は四郎から何かを学んだが、四郎もまた優一から何かを学んだ。




