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22、告白

 ダムが切れたことにより、斜面を勢いよく水が流れている。

 水泳部で実績のある鈴音でも、その鉄砲水を受ければひとたまりもない。自然の脅威が鈴音の足元に迫っていた。


 鈴音は水の轟音を聞いた。頬に雨粒が落ちてくるのを実感した。

 背中のあたりがこれまでにない痺れの状態にあった。体が思うように動かない。半身不随にでもなってしまったかのようだった。


「にゃあ……」


 鈴音のお腹の上には先ほどの猫がいた。

 鈴音はその猫の無事を見て、自分の状態が悪いことを忘れて笑みを浮かべた。


「無事で良かった……」

「にゃあ」


 猫はまったくのん気だった。何の危機感も覚えていなかった。


「早く帰らないとね……」


 しかし、鈴音は体を起こすことができなかった。

 鈴音が位置している場所は、左右を鉄砲水に挟まれた脆い岩場だった。

 いつ崩れてもおかしくない孤島のような場所にかろうじて体が引っかかっていたようであった。


「どうしよう……」


 鈴音はまだ絶望していなかった。助かる道があると思って、あたりの様子をうかがった。

 体はうまく動かないが、手と首は動かすことができた。

 しかし、時間が立つほどに、絶望的な状態であることを知るばかりだった。

 先ほどまであった岩場が、鉄砲水に削り取られていた。

 1分1秒の間に、鈴音のいる場所は瓦解していた。やがて自分のいる場所も消えてなくなることは間違いなかった。


 絶望は冷静の中にあった。

 鈴音は手で猫を迎え入れた。


「大丈夫。君だけは何とか助けるわ」


 鈴音はいま孤独を感じていなかった。無力な小さな猫とはいえ、そばにたしかな生命力を感じることができた。

 その猫を助けるためと思えば、自分の死を恐れることもなかった。身近に迫った死を冷静に見ることができた。


 猫は鈴音の手を抜けて、鈴音の頭に手を置いた。そのときに、鈴音の身に着けていた鈴が揺れた。

 鈴の音は水害の轟音にかき消された。


 しかし、その音に導かれた者がいた。


「鈴音さん!」


 四郎は鉄砲水の先にいる鈴音を発見した。

 すぐに鈴音のもとに向かおうとした。二人の間は約6メートル。


 たった6メートル。

 たんたんたんと走り出せば手が届く距離。


 しかし、自然のいたずらがその距離を無限にした。

 四郎は足を止めるしかなかった。


「鈴音さん、いま行きます!」


 そうは言ったが、行くあてはなかった。

 鈴音のもとにたどり着くためには、自然との戦いに勝たなければならなかった。

 あまりに手ごわい敵だった。


 四郎は右往左往して道を探した。しかしどこにも鈴音のもとに続く道はない。

 たった6メートルの距離を進めないことがもどかしかった。


 最終手段だと、四郎は水の中に足を入れた。

 瞬間、鈴音が叫んだ。


「ダメよ、やめて!」

「……」

「無理、流されたら死ぬって!」


 四郎は鈴音がこれほど大きな声を出すのだということに驚いた。

 四郎は足を引っ込ませた。鈴音の言う通り、この距離を泳ぎ渡ることなど不可能だった。


「どうしよう……木で橋を……」


 四郎はそう言ったが、それは机上の空論だった。そんな都合のいい木はない。四郎がいま掴まっている木を引っこ抜くためには、おとぎ話の巨人が必要だった。


 四郎は無力さを痛感した。

 陸上部の走り幅跳びの選手なら届くかもしれない。水泳の金メダリストなら、何とかできるかもしれない。

 しかし、四郎は何もやって来なかった。何も積み上げて来なかった人間は立ち尽くすしかなかった。

 なぜ、何もやって来なかったのか。四郎はこんな状況になって初めて悔やんだ。


 どうせ意味ないと何事からも逃げて来た。そのツケをこんなところで支払うことになった。


「四郎君、戻って! 危険だから」


 やがて、鈴音がそう叫ぶようになった。


「戻って。そこも水に呑まれちゃうよ!」


 鈴音がそう言ったとき、四郎は敗北だと思った。

 その言葉を言わせてはならなかったのだとわかっていたから、その言葉を聞いた瞬間、四郎は思考を停止し、体を脱力させた。


 鈴音を助けるという任務は失敗した。


 四郎はこれまでの人生で最大の虚無感を覚えた。


「戻って!」


 鈴音がまた叫んだ。

 しかし、四郎はその場で動けなかった。うつむき、黄昏の中に呑み込まれていた。


 しばらく時間が経過した。

 四郎はどこからともなく現れた言葉を口にし始めた。


「もともとこういう運命だったのです。猫神市はなくなる運命だったのです」


 四郎は自分がそう思考したわけではないことをしゃべり続けた。


「君もこの日なくなる運命だったのでしょう。だから30年後、この地はなくなってしまったのです」


 四郎はすべてを悟った哲学者の哀愁そのものの表情を前方に向けた。


「君の輝きが猫神市の象徴だったのです。君の輝き、そして鈴の響きです。それがある限り、この地は消えなかったのだと思います」


 四郎は淡々と、どこかから湧き上がって来たワードを口にし続けた。


「もしかしたら、私は君の輝きを守るために送り込まれた存在だったのかもしれません。私がこの地にやってきたのもすべてはそのためだったのかもしれません」


 四郎は崩れゆく鈴音の大地を、儚い表情で見守り続けていた。


「なんと無駄なことを。何を考えたのでしょう、猫神様。私に何ができるというのです? もっと良い人材はいなかったのですか? 神様自身が神秘の力でお助けになればいいではないですか。何を回りくどいことを」


 そのとき、四郎の脇に挟まっていたエニグマが地面に落ちた。

 落下と同時に、鈴の音が響いた。


 四郎はハッとなったように表情を改めた。先ほどまで別人のようになっていた四郎は本来の自分を取り戻した。


「鈴音さん、鈴音さん!」

「もう無理だから。お願いだから戻って!」


 鈴音は涙ながらにそう訴え続けた。

 四郎は反論するように返した。


「無駄です、鈴音さん。どうせ、私は死ぬのです。しかも一人寂しく自ら命を絶つという形です」

「……?」

「私は愚かな死に方をすることになるのです。逃げたとて、運命はすでに決まっています」

「意味わかんない」


 鈴音は目を閉じて首を横に振った。


「せめてかっこいい死に方をさせてくださいませんか?」


 四郎はそう言うと、一歩前に出た。エニグマが足に小突かれて水に流された。


「僕は君のいる世界じゃなきゃダメなんだ!」


 四郎はこれまでの人生で一番大きな声を出した。

 それによって、鈴音の目が開かれた。


「君じゃなきゃダメだ。君のいる世界でなければ、僕は生きることもできないんだ! だから、君のいる世界以外に何も望まない! 己の生存も無意味だ! 君がいなければ、僕のすべては無意味なんだ!」


 四郎は自分なりの告白をした。

 自分にも青臭い青春というものがあるとすれば、この瞬間だったのだろう。

 なんとくだらない青春かと、正直そう思った。

 しかし、いまはそれに酔うことができた。


「だから、君を助ける! 助けられなかったら死んでいい!」


 四郎は青春の心に任せて飛び込んだ。

 心は奇跡に向いていた。しかし、体は運命の力に流された。


 四郎の想いは美しかったが、平等な物理は容赦がなかった。


 四郎の思いを打ち砕くかのように、水の流れは四郎を水底に引きずり込んだ。

 位置エネルギーがそのまま保存則に従って運動エネルギーに変わり、四郎を決まった方角に運ぶだけだった。


 これが運命だ。容赦という言葉は微塵もない冷たい支配だった。

 奇跡が、想いがエネルギーの働く方角を変えるなどということはなかった。


 四郎は鈴音を見失った。


 四郎が最後に聞いたのは鈴の音。

 最後に見たのは、紅の猫の姿。

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