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19、終末の音

 猫神市全域に大雨洪水警報および土砂災害特別警報が発令された。

 しかし、市の対応は遅かった。午前中のうちから警報が出ていたにも関わらず、避難所が開設されたのは午後2時だった。


 猫神小中高校も避難所として利用されたが、避難してくる住民は限定的だった。

 避難所を開設しても、それを周知する術が乏しかった。

 テレビやラジオもない住宅は少なくないし、役所の放送も雨の音に半分かき消されて十分に拡散しなかった。


 優一はいち早く避難所の高校にやってきていた。

 体育館にシートが引かれ、数人の避難民が腰を下ろしていた。

 優一は顔見知りを探して、体育館の周囲を歩いた。


 雨の様子を見ながら、高齢者たちが雑談していた。


「しょうきっちゃんも来とらんよ。中松さんは? 施設入っとったんだったか?」

「すえちゃんは家に戻っとるよ。やっぱ家のほうが落ち着くんやて」

「だども一人では歩けんのやろ。息子さんは仕事で戻ってこれんのやろ。どないすんのや?」

「ケアマネージャーさんが来てくれるんちゃうの?」

「この雨でか? 電車も止まっとるし、無理ちゃうか」


 猫神市は高齢化が進んでおり、自由に移動できる足を持たない者も多かった。

 避難所の想定では、約600人が学校にやってくることになっていた。しかし、優一が確認する限り、まだ10人ほどしか避難できていなかった。


 優一はしばらく雨の様子を見ていた。雨脚が弱まる気配がない。グラウンドは水浸しになり、低地のほうは足が水に浸かるほどに水かさを増していた。

 いてもたってもいられなくなって、優一は雨の中に傘を差さずに飛び出した。


 ◇◇◇


 四郎は鈴音を家まで送り届けた。

 このころ、すでに雨脚はかなり強くなっていて、道には川の流れのように水が増えていた。


「雨すごいね」

「そうですね。早く戻らないと梅津さんが心配です」


 四郎は空を見上げた。雨脚はとどまるところを知らなかった。

 四郎は遠い過去の記憶を思い出した。


 たしか、高校生ぐらいのころに記録的な大雨が降ったはずだ。

 そのとき、四郎は自分に関係ないことに何の興味も持っていなかったから、ニュースで見知った程度だった。たしか200人を超える死者が出て、歴史的水害になったというニュースだった気がする。


 そこが猫神市のことだったのかまでは覚えていない。しかし、この雨の様子を見ていると、その可能性が否定できなくなった。

 四郎は傘をさして、家路を急ごうとしたが、その前に鈴音が四郎の手を取った。


「四郎君、明日帰るんだよね?」

「一応その予定ですが」


 ただ、この雨では電車が止まる可能性もあった。


「じゃあ今日の夜も会おっか」

「……はい」


 四郎は一応返事をした。

 そのときの鈴音の表情を見たとき、四郎は別の世界を見ているような気分になった。

 鈴音と自分の間にあまりに大きな境界線があって、鈴音の手のぬくもりがまるで自分の中に届かないようだった。


 四郎はそのとき不吉な未来を予期した。


 かつて、自分がいた世界には、鈴音は存在しなかった。

 自殺にふさわしい場所を探して猫神市にやってきたが、すでに鈴音の気配はどこにも存在しなかった。


 なぜ、存在しなかったのか?


 都会に行ったから?

 いや、違うと思った。


 鈴音の手が四郎から離れた。

 四郎はもう一度その手を取ろうと手を伸ばしたが、それは届かなかった。


「じゃあ、また夜ね」


 鈴音はそう言ってほほ笑んだ。遠くない距離にある、身近なものであるという安心感のこもったほほ笑みだった。

 四郎はそれがずっと遠いところのものであると感じていた。


 たしかに鈴音はそこにいるが、四郎の知る未来には鈴音はたしかにいなかった。


 四郎は鈴音のいない世界に立っていた。ちょうど二つの世界の境界線で、四郎は鈴音のほほ笑みを見ていた。


 ◇◇◇


「おーい、四郎!」


 家路を歩いているとき、背後から大声をかけられた。

 雨音を貫く力強い声だった。


 振り返ると、優一が走ってやってきた。

 かなり息を切らしていて、足を止めると体を前に倒した。


「優一君」

「はあはあ……梅ばあちゃんは?」

「今から戻るところです」


 四郎は一応、優一に傘を差しだしたが、優一は無視して走り出した。


「なら急ぐぞ。ちょっと尋常じゃねえ雨なんだよ」

「はい」


 雨の強さは四郎も理解していた。

 梅津の家の後ろは山があるが、土砂災害が起きる可能性もあった。最近土砂災害の対策のために柵が設けられる予定になっていたが、その工事は進んでいなかった。


「鈴音は?」

「先ほど、家までお送りしました」

「そうか、まああいつは若いし運動神経もいいから問題ないだろ」


 優一は四郎と鈴音の関係をそれとなく察している様子だった。しかし、特にそのことについて何も言うことはなかった。


 梅津の家に近づいたとき、四郎は嫌な音を聞いた。

 何かが押し流される音、そしてそれに混じる猫の悲鳴。


 優一が足を止めた。


「なんだこりゃ」


 優一の前方には、大量の泥が道を覆っている光景が広がっていた。

 その中には立派な大木も混じっていて、およそ人の力によって運ばれてきたものではなかった。


「山が崩れたのか?」


 優一は山のほうに視線を向けた。ここからではよくわからなかった。


「急ぎましょう」


 四郎は泥に足を踏み入れた。くるぶしまでめり込むほどの泥の量だった。

 遠くでまた嫌な音がした。

 それはこの地に終末をもたらす音のように聞こえた。

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