16、死の影
翌日の朝の空はどんよりと曇っていた。
早起きの梅津は心配そうに曇った空を見上げていた。
梅津の足元には猫が数匹いて、猫たちも梅津と同じように空を見ていた。
「雨が降りそうじゃのう。ゴンは大丈夫かのう」
梅津は唐突にいなくなってしまったゴンの身を案じた。
そんなすっきりしない午前中、突然に訃報が届いた。
病院からの電話で、梅津は先日から具合が優れなかった鈴夜が亡くなったという知らせを聞いた。
「嘘でしょう、松ちゃん。あの鈴夜先生が亡くなってしまうなんて、何かの間違いに違いないですよ」
「梅ちゃん、しっかりせい。人はいずれ死ぬもんだ。順番だ。そうやろ?」
電話主の松田は毅然としていた。先ほど、鈴夜が息を引き取るのを見守ったばかりだったが、うろたえるところがなかった。
「これから迎えに行く。四郎はいるか? 変わってくれ」
「ちょっと、ちょっと待ってね。四郎君、四郎君、ちょっと来てや」
梅津の声はうろたえていた。梅津もこれまで色々な人の最後を見て来たが、それでも鈴夜の死の知らせは衝撃的だったのだろう。
四郎はいつもと違う様子の梅津の声を聞いたので、慌てて降りて来た。
「梅津さん、どうしましたか?」
「大変じゃ。鈴夜先生が亡くなってしもうたて。どうしましょどうしましょ」
梅津は慌てていた。
四郎は梅津から受話器を受け取った。
「おう、四郎。おれだ。話は聞いたか?」
「鈴夜先生が亡くなられたというのは本当ですか?」
「ああ、今から行くから待っとけ。梅ちゃん、腰抜かさんように見といてやってくれ」
「はい」
「よし、お前はしっかりしているな。頼んだぜ」
松田はそれだけ言って電話を切った。
四郎は梅津のように慌てることはなかった。
鈴夜の訃報を聞いたとき、四郎の心はさっと静まった。
悲しみでもなく、驚きでもなく、自分の心のありようを表現するためには新しい言葉を創る必要があった。
四郎は鈴夜の死がもたらす重大さを漠然と理解していたが、すぐに具体的なところまで考えが及ばなかった。
外に視線を向けてみた。日の色はなく、とてもどんよりとしていた。
◇◇◇
松田がワゴン車を走らせて、梅津のもとにやってきた。
四郎と梅津は後部座席に乗り込んだ。
「乗ったか?」
「はい」
四郎は梅津の隣に位置した。
「松ちゃん、花買うていかなあかんやろうか?」
「何言うとる。そんなもん後や」
梅津はまだ冷静ではなかった。
松田は二人を乗せると、病院に急いだ。
雰囲気に合わない明るい演歌が流れた。
松田は空気を呼んでか、音量を下げた。
車は田舎道を抜けて国道に出た。
国道に出ると車の量も増え、あちこちで信号機に引っかかるようになった。
長い赤信号の時に松田が口を開いた。
「まあ、人間いつかは死ぬもんだ。珍しいことじゃねえよ。おれだってそうだ。もう長くはねえ。梅ちゃんもだぞ。おれらがいつまでも生きとったら若いもんが育たんのやから、老人は死ななあかんのや」
松田は振り向いて、後ろで手をこすっていた梅津に言った。
梅津の隣にいる四郎は冷静に座っていた。
「四郎、お前はそのへんのことようわかっとりそうやな。たいしたもんや」
「……」
四郎は別に達観した心を持っていたわけではない。
ただ、松田や梅津も経験したことのない「死」を経験した身ではあった。
自分は人生に虚しさを感じて自ら死に至った。
鈴夜は死の瞬間にどういう気持ちだったのだろうか。
四郎は目を閉じて、鈴夜の心情を探った。それは決して見つかることがなかった。
◇◇◇
鈴夜の訃報を聞いて、多くの者が猫神市民病院を訪れていた。
メガネをかけた黒服の集団が鈴夜の病室の外で立ち往生していた。
鈴夜は司法書士として事務所で働いていたという。仕事仲間の弁護士などが集まっていたのかもしれない。
黒服集団とは別のところに鈴音の姿があった。
鈴音は四郎の姿を見つけると、笑みを浮かべて手を振った。
特に悲しんでいる様子はなかった。
別の場所には優一の姿もあった。優一の父親と思しき男性と隣り合って座り、何か話をしていた。
四郎は鈴音のところに向かった。
開口一番、鈴音はため息をついた。
祖母の死を悲しむ以上に、疲労感を覚えているような表情だった。
「人集まりすぎよね」
鈴音は周囲を見渡しながらそう言った。
鈴夜の顔はかなり広かったようで、お偉いさんがこぞってやってきた。
おかげで、唯一の身内とも言える鈴音は隅に追いやられていた。
「こっち行こ」
鈴音は人込みを避けるように病院の外に出て来た。
四郎は鈴音についていった。
「なんか怖かった。人が死ぬ瞬間って。昨晩はね、おばあちゃん、いらん心配するな、とっとと帰れっていつもの様子で私たちを追い返してたのに、今朝突然目を覚まさなくなって、心肺停止になって、思い出したら頭おかしくなりそう」
鈴音は松田夫妻と共に鈴夜が亡くなる瞬間に立ち会っていた。機械が心肺停止を示した瞬間のP音を思い出すと、聞こえてもいないのに耳を覆う仕草をした。
いつの間にか、一匹の猫が鈴音の足元にやってきていた。
「猫は亡くなるときは一人になるんだって。君たちは賢いね」
鈴音は腰を下ろして猫の頭を撫でた。
「死は人に見せるものじゃないよ。誰にも気づかれずにそっと死ぬのがいいと思ったわ」
鈴音は誰かに語り掛けるふうではなく独り言のようにそうつぶやいた。
しかし、四郎は自分のことを言われたような気持ちになった。
四郎はこの地で誰かに認知されることもなく死んだ。
その死は鈴音の話す理想の死の姿だったのだろうか。
いつの間にか、空から雨が降ってきていた。霧のような軽い雨粒が頬に触れた。
四郎は空を見上げて思った。
世界が大きく変わってしまったのだと。それは正しい方角への変化だったのだろうか。




