第5話 お前はだれかれ構わず口説き過ぎだ
草壁と登校してクラスに入った途端、春人は激しい洗礼を受ける羽目に陥った。
「おおおおおおおおい、すううううううううどおおおおおおおおおおお!」
「どういうことだ⁉」
「お前、草壁さんを振ったんだろ⁉ それなのに、仲良くきゃっきゃうふふ、とか言いながら登校しやがってええええええ!」
――きゃっきゃうふふ、って実際に本気で言ってたら恐いな。
そんな感想を持ちながら、春人が窓際の己の席に着くと同時に。
「おはよう、諸君! そうとも! 私と須藤君は、学校への道すがら、きゃっきゃうふふ♪ と馬鹿みたいにきゃっきゃうふふ♪ と歌いながらきゃっきゃうふふと楽しいきゃっきゃランデブーを過ごしたよ!」
「うっごおおおおおおおおおお!」
「きゃああああああ! 草壁さああああああああん!」
「きゃっきゃうふふな草壁さんも、す・て・き……」
――頼むから、きゃっきゃうふふを連呼しないでくれ。
相も変わらず草壁の感性が全く理解できない。したくもない。そして、そのきゃっきゃうふふに対して異様に反応するクラスメートもどうなのだろうか。もう少し彼女の言動に疑問を持って欲しい。
「おはよー、ハル。昨日から一日経ったけど、やっぱり草壁さんとよくわからないことになってるんだね」
「冬馬……頼む。教えてくれ。俺は今、どういう状況なんだ」
「ふん。俺からすれば、ただのいちゃいちゃにしか見えん。さっさと落ち着いて欲しいものだな」
「和樹……おい、和樹」
「ハルってば、語彙力低下してるー。カズキは、単純に静かな時間を返して欲しいだけなんだよね。無理そうだけど」
ごろごろ机に転がりながら、冬馬が和樹の代弁をしてくれる。くだらないと思っていることだけは分かった。
しかし、春人だってどうにか出来るならしている。本人の言う通り、告白を断っていればここまで七面倒なことには陥っていなかったのだろうか。今となっては真実は闇の中である。
「おい、須藤! お前ってやつは! お前ってやつは!」
「佐藤。近い。うるさい。耳が痛い。俺はもう帰りたい」
「帰れ! 帰ってしまえ! うおおおおおお! 草壁さんと、こーんなことや、あーんなことや、きゃっきゃうふふとか! 羨まし過ぎる! この遊び人! てんちゅうううううう!」
悔し涙を滂沱と流しながら暑苦しく迫って来る佐藤に、春人はふいっと顔を背けた。本当に近い。
故に、近すぎて相手の袖のボタンが目に入ってしまった。ぷらーんと、一生懸命頼りない一本の糸にぶら下がるボタンが哀れに思えてくる。
「おい、佐藤。上着を脱げ」
「は? うわ、……はあっ⁉ お、お、お前……! まさか、草壁さんだけでは飽き足らず、遂に俺にまで毒牙を……⁉ く、草壁さんというものがありながら! 何たるハレンチ!」
「気色悪いこと言うな。脱げ。早く」
己を抱き締めて後ずさる佐藤に、春人は全力で拒絶オーラを出しながら、鞄を探る。
恐る恐る脱いだ佐藤の上着をぶんどって、春人は取り出したソーイングセットを机に並べた。
針を手にし、糸を速やかに通して玉結びをした後、さっさとボタンを縫い付ける。
春人の家は、両親の教育方針により、家事を一通り身に付けて独り立ち出来る様にというものだ。なので、春人も裁縫や料理に掃除など、ある程度は技術を身に付けていた。
「ほら、できた」
あっという間に終わらせ、ばさっと上着を佐藤に投げ返す。
目を白黒させながら見守っていた佐藤は、返された上着のボタンが綺麗に止められていたのを確認し、ふわあっと変な声を上げた。
「す、須藤……、きゅん」
――きゅん、じゃねえ。
今度はくねくねと腕を胸の前に掲げながら、ときめく反応を示す佐藤に、春人は本気で殴りたくなった。武道をやっている手前、暴力はいけないと懸命に己を戒める。
「って、おい、佐藤! ほだされるでない! お前、これは草壁さんの危機なのだぞ! この来る者拒まずな遊び人、須藤にたぶらかされた草壁さんを救う、……ぐうっ」
佐藤の隣で一緒に喚いていた田中が、今度は腹を抱えて墜落した。
途端。
ぐきゅうるるるるるるるっ。
盛大に腹の虫が鳴った。それはもう、クラスの隅々にまで聞こえるほどの実に清々しい大音量である。
墜落した田中は、再び口で「ぐうっ」と言っている。相当お腹がすいている様だ。
「お前……また食べてこなかったのかよ」
「う、うるさいぞ、須藤……。俺は、部活の朝練のために、朝が早い、……くっ。寝坊しただなんて口が裂けても言えないのだ」
「なら、せめて弁当食べれば?」
「……。忘れた」
「……、はあ」
田中とは一年生の時から同じクラスだが、ちっとも進歩が無い様だ。去年も割と朝食を食べそこねた挙句に弁当まで忘れ、友人から弁当を恵んでもらったり、昼休みになるまで涙を流しながら耐えている姿が散見されていた。
やれやれ、と春人は鞄の中からスティック状になった一本のハチミツと、ラップに包んだおにぎりを差し出した。
「ほれ。食べたら」
「え、……す、須藤……!」
「今日は俺も早く起きられたから、授業の合間に食べるおにぎり作ったんだよ。もうすぐホームルーム始まるから、さっさと食べて腹の虫を鎮めろ」
「す、……すどう、……きゅんっ」
――だから、きゅん、じゃねえ。
ときめく様に頬を染める田中に、春人はげんなりと机に突っ伏す。
この二人は一年生の頃から突っかかってくることも多かったが、こうして馬鹿なやり取りをすることも絶えず続いていた。いい加減にして欲しい。
「は、は、……し、仕方がない。今日のところは勘弁してやろう! てか、相変わらず須藤のおにぎり、うまっ!」
「く、……全女性の視線を釘付けにさえしていなければっ、俺だって、素直にこの性格の良さや面倒見の良さを讃えて、ただの良き友になっていたというのに……!」
「謹んで辞退するわ」
「この! 塩対応! そういうところだからな!」
わああああ、と泣きながら自分の席に去っていく二人を見送り、春人は一日が終わった徒労感に見舞われた。本当に帰って良いだろうかと考え始めてしまう。
「……はあ。相変わらずお前は、誰彼構わず口説き過ぎだな。だから、男のファンが増えるんだぞ」
「口説いてない」
「ねー。ハルは、そういうところだよー。というか、あの二人も一年生から進歩ないねー」
「本当にな。……お前達二人は、少しは俺の防波堤になってくれないかな」
「何故だ」
「僕、眠いからむりー」
「はいはい」
どうせ、と春人は不貞腐れて英語の教科書を開く。予習はもっと先までしてあるが、目を通しておくに越したことはない。
頬杖を突いて眺めていると、ふっと教科書に影が落ちた。
何だ、と見上げた先では。
「やあ、須藤君! 田中君から聞いたよ! 君、おにぎりが美味しいんだって? 君のおにぎりが好きだよ!」
疲労の元凶がやってきた。
勝手に前の人の席に座り、あからさまにねだってくる草壁に、春人は溜息も出ない。誰か、彼女の暴走を止めて欲しい。
「あのな……。草壁さん、別にお腹が減っているわけじゃないんだろ?」
「もちろんだよ! 私は朝昼晩と、きっちりご飯を三膳は食べ、常に栄養を体中に行きわたらせる女! 抜かりはないよ!」
「へえ。……よく食べるね」
「いやあ、それほどでも。照れるねえ」
褒めてない。
褒めてはいないが、よく食べることは良いことだ。春人も食事は体の資本であると考えているし、三食はきちんと取ることにしている。
「しかし、奇遇だね。私も実は、おにぎりを握ってきたのだよ!」
「へ?」
「見たまえ! これが、私が三十分かけて握った、作:草壁美晴さ!」
ばばーん、と取り出した彼女のおにぎりを何とはなしに眺め――春人は固まった。心なしか、寝転がりながら見上げた冬馬も、単語帳から目を離した和樹も、何とも言えぬ空気のまま凝り固まっている。
草壁が掲げたおにぎりは、非常に酷い――いや、個性的なものだった。
まず、全部黒い。
いや、黒いのは構わない。世の中には、海苔で米全体を包み込むおにぎりもある。
だが、その黒さは海苔の様な艶はまるで見当たらない。炭だ。完璧な炭が彼女の手の中にある。
しかも、何かを頑張ったのか、でこぼこしていながらも辛うじて平べったい丸い形をした胴体の左右から、ぼっこりと角みたいなものが生えていた。頭上からではなく、胴体の左右からというあたりが何とも言えない。
おまけに、顔を作ろうとしたのか、目の位置は物凄い勢いでくぼんでちょっとしたホラーを醸し出していた。目玉をくり抜かれた様な穴の開き方に、春人はついっと視線を外す。
「……。うん。草壁さん。それ、えっと、……何を作ろうとしたのかな」
「何と! 聞いて驚くと良いよ! あざらしさ!」
「――あざらしじゃないわ! どう見ても!」
反射的に叫んで春人は立ち上がってしまった。
これがよりによってあざらし。ゴーたんが好きな春人のあざらし。どこをどう切り取ってもあざらしには全くもって露ほども見えないし、特徴も見当たらない。
「ありえん! 認めん! 全あざらしに謝れ!」
「ええ? 酷いよ、須藤君! これは朝六時から起きて、母のサポートと父の応援のもと、頑張って作ったあざらしだよ!」
「どこがだよ! ホラーじゃないか!」
「む! 全く、この芸術的なあざらしがわからないなんて、須藤君もわかっていないね。弟なんかは、『……姉ちゃんにしては、あざらしだね』って言ってくれたのに!」
――それって、かなり遠回しに馬鹿にされていないか。
最初の沈黙に、全てが込められている気がする。弟でさえ匙を投げるほどの出来栄えだったのだろう。分かる。激しく同意する。
しかし、草壁がまさかここまで不器用だとは思わなかった。勉強もスポーツも出来るし、割と色々なことをスマートにこなしている彼女の、意外な一面を垣間見る。
早起きをして、三十分かけて、一生懸命米や海苔と向き合って四苦八苦している彼女を想像する。
一体、どんな顔をして握っていたのだろう。いつもみたいに自信満々に胸を張りながらおにぎりを披露する彼女に、家族はどんな反応をして、どんな会話を繰り広げていたのだろう。
登校時の話といい、弟とのやり取りを聞くに、家族仲は良さそうだ。
だとしたら、きっと食卓も賑やかなのだろう。草壁がこの調子だから、絶えず笑顔が弾け、苦笑も満載かもしれない。
けれど。
――何だか、微笑ましいな。
おにぎり一つとっても楽しそうに話をする彼女に、春人もいつの間にか頬が緩む。
だが。
「言っとくけど。俺は、絶対! 認めないからな、それがあざらしだって」
「ええ⁉ 酷いよ、須藤君! こんなにあざらしなのに!」
あざらし好きの矜持にかけて、絶対にあざらしとは認めない。
釘を刺すことだけは、忘れることはなかったのだった。