第23話 須藤君、どうだい? 私にときめいただろう?
「おや。雪だね」
あの後、ゴーたんショップを更に堪能し、夕暮れ時にデパートを出ると、ちらっと頭上から真っ白な粒が降り注いできた。
この時期の雪は、冬の時と違って粉雪の様なふんわりした優しさはなく、水分を豊富に含んで体の熱を奪っていく凶悪なものだ。春人は、肩に軽くかけていた鞄から折り畳み傘を取り出す。
「草壁さんは、傘はある?」
「無論、無いよ! 大丈夫! 血も滴る良い女とは、この私、草壁美晴のことさ!」
「ちもしたたる」
「ああ、間違ったね! 水ならぬ雪も滴る良い女! だよ!」
この言い間違いは、彼女の特徴なのだろうか。
相変わらずきらきらした良い笑顔で爽やかに宣言する彼女は、空からぼたぼた落ちてくる水の様な雪さえもカッコ良い背景へと軽やかに変えてしまう。確かに、栗色の髪が水滴によっていつもよりも艶めき、甘い瞳や笑みにかかる雫が、彼女の王子様然とした表情にいっそう彩りを添えていた。ぱちん、とウィンクする表情が、絶妙に似合ってしまっている。
だからと言って、このままだと風邪を引く。
「馬鹿言ってないで、入りなよ」
「え? しかし、折り畳みだろう? 少し小さいのではないかい?」
「大丈夫だから。ほら」
ぐいっと、彼女の腕を強引に引っ張って傘の中に入れる。掴んでから、女性に対して失礼だっただろうかと反省した。
「ご、ごめん。痛かったか?」
「……いいや! 私は須藤君に全てを捧げた女さ! 例え胸倉を掴まれても悔いはないね!」
「……何で胸倉なんだよ」
「しかし、これが壁ドンならぬ雨ドンというやつかい! 須藤君は、壁が無くてもいつでもどこでも空気さえも壁ドンにしてしまう力があるのだね! 流石は世界一顔が良い男だよ!」
「いや、ドンしてないから」
「取りあえず、これで相合傘、という恋人としては当然経験している上位に適当に五位くらいにはランクインしてそうなやつを実行したわけだ。須藤君も、遂に私と大人の階段を上り始めたくなったということだね……」
何をどうしたら大人の階段になるのだろうか。
しかも、適当にランクインしてそうとか、彼女は本当に恋人になりたいのか激しく謎だ。言動に落差があり過ぎて、春人はよく迷子になる。
「ああ。……しかし、これが相合傘か。感慨深いねえ」
「感慨深いの?」
「もちろんさ! そう、ついでにこのあたりで肩がとんっと触れ合って、あ、と互いに熱く見つめ合う瞬間! ああ、須藤君、最高だよ……!」
「いや、触れ合ってないよな」
「そして、あ、ごめん、いいや、問題ないさ、といったやり取りをした後に、ふっと降りる沈黙。そこには気まずいながらもむずがゆいロマンチックな恥じらいを醸し出し、傘に弾ける雨の静かな音だけが二人の世界の全てになる。その中で互いを意識する二人……。……須藤君、どうだい? 私にときめいただろう?」
「……。全然静かじゃないし、ときめいてもいない」
紛うこと無き事実を告げれば、そうだね、と草壁はめげずに同意する。彼女は本当にメンタルが鋼だ。
「では、静かになってみようではないか!」
「は?」
「そうと決まれば、善は急げだね! さあ、ときめこう!」
言うが早いが、さっさと前を向いてぱっくんと草壁は口を閉じた。にこにこと春人の隣を歩く彼女は、貝の様に沈黙している。
宣言して静かになっても、全くロマンチックではないと激しく抗議したかったが、草壁の耳に念仏。仕方がないので春人も黙って前を向いてみた。
ぱた、ばた、っと重く静かな音が頭上の傘を打つ。
雨ではないから当然だが、綺麗な音ではない。この時期の雪は本当に重いしべちゃべちゃになるから、あまり歓迎は出来ないのだ。
それでもしばらく、二人の間には軽い沈黙が横たわる。住宅街に入って静かになったこともあり、ただただ頭上から鳴り響く傘を打つ雪の音――だけではなく。足元でばしゃ、ぐしゃっと実に綺麗とは言い難い二つの音が世界を支配していった。
――何か、落ち着かないな。
普段はうるさいくらいに喋る草壁の声が聞こえないのは、変な感じだ。最初の頃は疲れてげんなりしていたのに、今はそれを求めてしまっている。これは完璧に毒された様だ。
あれだけ求めていたはずの穏やかな静寂が、とても淋しい。
そう思う自分に戸惑いながらも、草壁さん、と春人が振り向くと。
ぱちっと、彼女の瞳とかち合った。
いつの間にか向こうは春人の横顔を見つめていたらしい。それに気付いた瞬間、春人の顔がにわかに熱を持つ。
けれど、それだけではなくて。
目が合った瞬間。
ぱっと、彼女の瞳が綺麗に華やいだのだ。
いつもの明るく快活な笑顔は鳴りを潜めている。
ただ、大きな瞳だけが輝く様に訴えてきた。
春人と目が合ったことに、喜んでいる。言葉にはしないのに、何故か強く伝わってきた。
いつだっただろうか。初めの頃も、こんな風に見つめ合ったことがあった気がした。
あれは、母に言われただか恋人になるための戦法だとかで、ただただ強く見つめてきていたはずだ。
でも、今は。
「――っ」
ふいっと、恥ずかしさのあまり春人は目を逸らす。今、鏡を見たらまずい。絶対に顔が赤くなっている。
彼女が喜んでいることが、何故だろうか。とても嬉しかった。目が合うだけでこんなにも幸せそうに華やぐ彼女が、可愛いと感じてしまう。
己に起こった感情の変化に、春人がぐるぐると目を回して困惑していると。
「――あれ。秋じゃあないか!」
「――」
唐突に草壁が、やあっと手を上げた。瞬間、静かに生まれていた熱が一瞬で崩れ去る。まるで、何事も無かったかの様に。
それが何だかひどく腹立たしくて、春人はますます混乱した。
だが、そんな混乱も道の向こう側から現れた人物のおかげで吹っ飛び、その驚愕の間に相手は彼女に向かってこう呼びかけた。
「姉ちゃん」




