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≪        ≫

作者: 雨森 夜宵

 書道教室がなくなって五年ほどになる。庭の紫陽花を見てまた思い出した。教室の――というより、片岡先生の自宅だった家の庭に、大きな紫陽花がいくつも植わっているのだ。駅へ下る道の途中にあるその庭は、今日も鮮やかな花を抱いてじっとそこに佇んでいる。

 何の気なしに足を止め、柵を取り込むかのようにはみ出して咲いている花をじっと眺めた。青と紫のまばらに混じったそれは葉の緑によく映える。教室が開かれていた頃からそうだった。晴れの日には照り映え、雨の日には深みを増す緑を見るのは、その上に揺れる花を見るのと同じくらい楽しかった。実際、教室の手伝いをする時間のうち半分近くは庭を眺めていたようなもので、よくあれで給料を出してくれたなと思う。


 いいんですよなんでも、と悪戯っぽく笑う先生の視線を思い出す。

 片岡先生は、書道の先生としてはかなり独特だったのかもしれない。一言でいえば上品な白髪の老紳士ということになるが、着物を着ているようなところは見たことがない。教室にはいつも白のカットソーにジャケットを、それも「引っ掛ける」とでも言いたくなるような軽さで着てくる。そこに黒のスラックス。そんな機能的な格好で生徒たちの間を歩き回り、時折生徒の筆を借りてその場で一枚書いてみせる。朱墨を使うのは嫌いなのだと、何かの折に聞いた記憶がある。

 ――だって赤なんて、これ以外に正解はないって言っているようじゃありませんか。私は嫌いです。

 そんなふうにきっぱりと言い切って、直後には悪戯っぽく微笑んだりする。厳格ながらも茶目っ気があって、スタイリッシュで。片岡先生はそんな人だった。私が手伝いをするようになった経緯も、「駅へ向かう最中の私が教室の前に張り出されていたチラシに何となく目を向けた時、偶然庭に出ていた片岡先生と柵越しに目が合って、そのまま採用」という、なんとも行き当たりばったりなものだった。そんなに簡単に決めてしまっていいのかと首を傾げたものの、こういうのは結局フィーリングですよと先生が笑ったので、そう思うことにした。そういう感覚を大事にするところは、結構嫌いじゃなかった。

 芸術家らしい、というのだろうか。

 感覚で動く先生は、思い切りの良さも心配になるくらいのものだった。即断即決というところはフットワークの面でもそうで、数日でも体が空けば海外へ出たりすることも稀ではなかった。週に四度の教室を休むことはなかったけれど、そうして旅行に出た次の回では決まって現地での出来事について話してくれた。盛り上がってやまないそれに最初の十五分ほどを費やしてしまうこともしょっちゅうだった。実際先生の話は巧みだったし、それも教室の醍醐味、くらいのものだっただろう。大人たちは純粋に興味深く聞いていたようだし、子供たちも楽しげだったし。なにより、土産話には土産物がつきものだ。

 沢山の物事に触れて魂が熟せば、目に見えないものも感じ取れるようになる、自ずと滲み出るものも生まれる、というのが先生の口癖だった。

 お菓子からでも分かることはあるんですよと、そう言いながら先生が配るものは、どれも今まで食べたことのある甘味とは違っていて面白かった。分かること、というほどはっきりと理解されるものではないにしても、噛みしめたそこからふわりと、異国の空気が香るような気がした。


 あの日も確か、トルコのお菓子を出してもらった。土曜の午後の回が終わって片付けが済んだ後、リビングダイニングのテーブルで。

 その時のお菓子はピンク色の小さな立方体で、コーンスターチがこれでもかとまぶされていた。これがよく合うんですよと煎茶を添えて出されたから、一瞬すあまか何かだろうかと勘違いしたのをよく覚えている。柔らかく甘いそれは少しゆべしにも似て、でもふわりと口の中に広がる薔薇の香りはどんなお菓子にも似ていなかった。そして、確かに煎茶によく合った。

「ね、合いますでしょう」

 得意げに言った先生が子供っぽくて少しおかしかった。私が頷くと、ね、とまた嬉しそうにする。

「まだいっぱいありますから。お土産話もまだまだ……まあ、孤独な老人を慰めると思って聞いてください」

 楽しげに笑った先生は、ポット一杯分の紅茶を飲み終えるまでしゃべり続けた後、冷蔵庫で仕込んでおいたらしいハーブティーを出してくれた。緑というより金色に近いお茶は微かにミントの匂いがして、これも甘ったるいお菓子によく合った。

 バザールの話から、生花を売る露店の話へ。そして、立ち寄った土産物屋の話になった時、先生は徐に言葉を切って窓の外を眺めた。午前中に降った雨の名残で葉は陽光に輝いている。トルコにも紫陽花はあったのだろうかとぼんやり思っていると、先生は徐にこちらへ向き直って、薄く笑んだ。


「あのね。……そのお土産屋さんに、『――』というのがあったんです」


 古い言葉で銃という意味なのだと先生は言っていたが、その名前を私は忘れてしまった。なにか、柔らかな水でも掬うように、その名前は零れ落ちてしまう。聞いた瞬間の感覚は残るのに、その一瞬が過ぎれば後には何も残らない。先生が一切のよどみなく繰り返したその言葉を、私は単に≪銃≫としか表現することができない。

「私も見せてもらいました、その銃を。……ただのお土産屋さんなんですよ。外装だって両隣の店と大差ないし。品揃えもそこまで目立たないし。……その、本当にありふれた店内にですよ。商品棚の上に、大きな、ホールケーキでも入りそうなサイズのガラスケースがありまして。私なんか背が小さいから、もうケースの上半分しか見えていなくて」

 背伸びなんかして見ていたんですよ、と先生は笑った。懸命に棚の上を覗こうとする先生の姿が頭に浮かぶ。

「そうしたら、店員さんが気付いて嬉しそうに笑ったんです。あなたも見つけましたか、って。他に客がいなかったもんですから、わざわざレジのカウンターに下ろしてくれましてね……よく見えるようにしてくれて……」

 ゆっくりと頬杖をついた先生は、物憂げにも見えるような視線をテーブルに落とした。木目を辿るように庭へ流れていった先生の視線の先に、大きな紫陽花がしっとりと開いている。

「――美しい。本当に美しい銃です」

 ぽつりと、言葉が零れて落ちる。暫く、まるで記憶を辿るかのように沈黙していた先生は、私の視線に気づくとふっと苦笑した。

「いやあ。本当に美しいんですよ? 何というのか……リボルバーの、リボルバーは分かりますか。あの、本体の中頃にレンコンのようなパーツのついた。形はあれの、まあ、典型的なやつでね。グリップが少し丸っこくて、ちょっと華奢な感じのするような。で、それが……何というのかな……まあとにかく、隅から隅まで透明なクリスタルで出来ていて、向こう側が透けるんです。それも、ほとんど歪みなく……おまけに、見る角度を変える度に、青紫色の光が中で揺れてね。虹色というには落ち着いていて、神秘的で……なのに、万華鏡よりも深い……」

 普段歯切れよくリズミカルに話す先生が、この話ばかりは、まるで眠気に抗うかのように長い沈黙を挟みながら語った。ともすれば零れ落ちそうになるものを、掌からゆっくりと注ぎ込むように。ハーブティーを飲みながら聞く先生の言葉は、どう想像を巡らせても明確な像を結ぶことはなかった。微かに揺れる紫陽花を見ながら話し続けていた先生は、遂に言葉を探しながら黙り込んでしまった。私は続きを待った。待つうちにお菓子の最後のひとかけらも口へ押し込んでしまって、口中にまとわりついたコーンスターチをミントの香りのお茶で洗い流した。先生の指先は、暇を持て余したようにテーブルを撫ぜている。

 そして前触れもなく、先生の視線は戻ってくる。

「――あなた、撃ちますか」

 そう。先生は確かにそう訊いた。撃ちますか、と。

「その銃をです。……なんでも、いわくつきだそうですよ。撃った人に、その人にふさわしい終わりを与えるのだと。終わりなんて、随分と大げさな言いようですけど」

 禍々しいしねえ、と鼻の頭を掻いて、ハーブティーで唇を湿す。

「まあ、撃つと言っても弾はないらしいんですが。だから、おまじないとか、願掛けに近いのかもしれません。いや、呪いかな……これで自分の人生は自分にふさわしく終わると、そう確信し続けるための……ああ」

 そこで徐に立ち上がった先生はお菓子とお茶を足して、自分でもひとつ頬張って満足げに微笑んだ。溜め息をつきながら席に戻った先生は、指先のコーンスターチを軽く舐め取ってからティッシュで拭う。

「……どうせならすぐ撃っておけばよかったかもしれませんね、今になって思えば」

 その答えは意外だった。撃たなかったんですか、と思わず聞くと、ええ、と先生は苦笑した。

「撃ちませんでした。……迷ったんですよ。買って帰って、家内に引かせてやった方がいいんじゃないかと思って」

 先生の奥様が胃がんを患っていることは、随分前に聞いて知っていた。書道教室の生徒たちや私へのお土産でさえ欠かさないくらいだから、きっと奥様にも色々用意していたのだろう。

 ふさわしい終わり、という言葉の意味を思った。

「少しケースの前で迷ったんです。それで、これ買えますかって訊いたら、あろうことか要るならあげるって言うんですよ。こういうのは縁だからと。そのままガラスケースも外してしまってね……いや、一瞬騙されてるのかなと思いました。一瞬。でも、あまりにも綺麗だったものだから、そういうのは全て忘れてしまって……普通に手を伸ばしたんです。目の前の銃に。で、もうちょっとで触れるってところで、突然――」

 ぽん、と言いながら、先生は両手を開いた。まさかと言いかけたのを、頷いて引き取る。

「ええ、消えました。まばたきもしていないのに。……本当ですよ? 実に呆気なく、元からそこには存在しなかったかのように」

 やられたというべきでしょうか、と先生は苦笑した。

「思わず訊きましたよ、どこへやったんですかって。でも、よくあることだと笑うんですよ。≪銃≫を見る人は少ないけど、引き金を引ける人はもっと少ないんだと。……彼曰く、気に入った人間にはいずれあちらから会いに来るとか。その店を出てから聞きましたが、一連の会話を通訳してくれた方には、『空のガラスケースしか見えていなかった』そうです。不思議でしょう? 私も、自分の目で見たのに不思議でならない……」

 指先は相変わらず物憂げにテーブルを撫ぜている。その指先を見つめたまま、先生は急に笑みを深めた。

「でもね、確信がありますよ。私が≪銃≫を気に入ったように、≪銃≫も私を気に入ったのだと……。今はまだ、機が熟していない。でもいずれ、あのグリップを握り、透き通る引き金に触れるでしょう。そしてその時は、きっとためらわずに、撃つ」

 宣言のように言いきった先生は暫くテーブルに目を落としていたものの、やがてふっと顔を上げると、私を見て悪戯っぽく笑った。

「……さ、私のお土産話はおしまい。――さっきの答えを聞かせてください」

 カラー写真のような、瑞々しいと言っていい景色をよく覚えている。先生の笑みとまなざし、差し込む澄んだ陽光と陰影鮮やかな室内の眺め。戯れに私の手元を指さした先生が、やはりその指先で執拗にテーブルの表面をなぞっていたこと。言葉を紡いだその唇に、薄く張り付いたコーンスターチ……。


「撃ちますか。――そこに、≪銃≫があったとして」


    * * *


 覚えている。何度思い出しても色褪せず、それどころか次第に鮮明さを増していくようなあの景色。この、庭の紫陽花を見る度にいつも思い出す。そして思う。先生ははっきりと言わなかったけど、あの≪銃≫の中に揺れていたという青紫色は、この花の色によく似ているのではないか。

 先生は、その年いっぱいで教室をやめて引っ越してしまった。妻の具合があまりよくないから、なるべく一緒にいてやりたくてね、と静かに笑って。最後にあのテーブルで食べたのはシンプルなチョコレートクッキーと紅茶で、本当に最後なのだとしみじみ思ったことを覚えている。あの時も先生は、指先でテーブルをなぞっていた。きっとあのテーブルは先生が持って行ってしまったのだろう。今はこの家に誰が住んでいるのか知らない。それでも毎年、庭には美しい青紫が溢れ、私の目を引く。

 いずれ、この紫陽花も終わるのだろうか。そのふさわしい終わり方とは、なんなのか。伐られることか。枯れることか。だったら、私の終わりは。あの≪銃≫が私にもたらすものは、果たして何だったのだろう。

 花の下、緑の上を小さな蟻が動き回っているのを見る。その軌跡にふと、思う。

 時折、不規則な動きでテーブルを撫でていた先生の指先。


 あれは。


 あれは、文字、だったのかもしれない。


 先生はあの時、テーブルに文字を書いていたのかもしれない。一か所へ何文字も、重ねるようにして。もしそうなら、と背筋に痺れるものが走る。紫陽花と、テーブルの上とを往復していたあの視線は。きっとどちらも無意味なものではなかった。

 先生は「見ていた」し、「書いていた」のだ。あの≪銃≫を。あの時の私には、そのどちらも見えていなかった。でもその印象が、これほどまでに鮮明に私の中に残ったということは。繰り返す度に鮮烈になっていくこの記憶は、あれが私に「会いに来ている」ことの、証拠なのではないか。

 ――魂が熟せば、目に見えないものも感じ取れるようになる。

 先生の言葉。いっしょに蘇る、お菓子の甘さとハーブティーの舌触り。記憶の中の紫陽花がで揺れる。万華鏡のように、しかしそんなものとは比べ物にならないほどの深さを持って、目の前のそれと重なり合う。あの時、私は何と答えただろう。撃ちますか、というあの問いに。知らず知らず≪銃≫を目の前にしていた、あの日の私は。

 いや。

 あの銃は。そうか、あの銃の名は――。

 重なり合う青紫が視界に溢れる。幻惑されそうな煌めきの中に、陽炎に似た輪郭がゆらりと立ち上がってくる。きっとあの日、テーブルの上にあったもの。先生の言っていた「確信」。投げかけられた問い。先生の綴っていた文字列。今ならすべてが分かる。機は熟したのだ。先生はきっと、あれを撃った。撃った者にふさわしい終わりをもたらすあの銃を。自分で、或いは、奥様の手で。

 頭の中に銃声の残響が谺する。幾重にも増幅する振動が、この手を青紫の中へ差し出させた。

 一画、一画。走る光が輪郭を描いていく。グリップの丸みを最後に完成されたそれが、向こうに紫陽花を透かし見せながら私の掌に触れた。華奢で、神秘的で、吸い込まれそうに美しい、銃。

 ああ、思い出した。取り戻した。撃ちたいと答えたのだ、私は。

 そうだ。

 この銃の名は。


 ――この銃の名は。




fin.

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