その8
セニャック家の紋章を携えた上等の馬車がダール家の門の前に停められた。門番が屋敷に取り次ぐ。知らせを聞いたマリはオネットと共にエントランスへ向かった。
「奥様、くれぐれもお気をつけて」
「ええ。でも、ここまでの流れがジーゼル子爵の計画だとしても、ジベルダン公爵夫妻が私を招待することまで操れないと思うわ。例え面識があるとしても。…私はご夫妻とはほとんど面識はないけれど、ヒューゲル様はご親交が深かったようだから。もしも公爵夫妻のご招待でなくても伺ったわ」
「本当に旦那様に弱いんだから…」
オネットがボソッと零した言葉を聞き流し、マリは階下に続く階段へと進み出た。二階から直接屋敷のエントランスへ延びる階段の上からマリはエントランスを見下ろした。階下の出入り口の扉の前ではジーゼルが涼やかに立ち、こちらを見ていた。ビリビリと緊張感が漂う。この男の目論見によってついに社交界のど真ん中に赴くことになってしまった。ジーゼルの手のひらに収まる気など毛頭ない。冷ややかに、燃えるような目でマリはジーゼルと見つめた。
「本日もお美しく」
「恐れ入ります」
二人は馬車に乗り、街の中心部、古い貴族が暮らす第3地区へと向かった。
ジベルダン公爵の屋敷には、ダール侯爵と特に親交の深かった貴族たちが集められていた。皆ダール侯爵と年の近い面々であり、待っている客人とは親と子ほどの歳の差がある。若かりし頃には皆それぞれ鎬を削って地位を争い、権力を争っていたものだが今やすっかり落ち着き、世間と言う戦場を勝ち残った者たちの心の余裕が目に見えるようだった。
「ジーゼル・ド・セニャック子爵、マリ・ド・ダール侯爵夫人がお着きになりました」
ゆっくりと、すでに到着していた客たちの視線は客室の扉に集まった。
開かれた扉の向こうには劇場の宣伝のポスターに描かれているような美しい若者が立っていた。記憶に久しいダール夫人は陶器のような美しい肌、蒼穹のような瞳、深緑色の落ち着いたドレスがよく映えた。突然の招待に戸惑っているわけでもなく、恐縮しているわけでもなく、堂々とした態度だった。マリの背後には、粛然とジーゼルが控えていた。己の立ち位置を弁えているといった様子で、前に出ようという気配さえ見せなかった。二人はまるで舞台に立つ役者のように恭しくお辞儀をした。彼らは役者以上の演技力を身に着けていなくてはならない。演じていることさえ気取られてはならないのだ。
マリにとっては久々の大舞台だ。評価される立場というのは不慣れなわけではないが、ここには上流階級のなかでもひときわ名高い面々が集結している。誰もが彼らと近づきになりたいと思っている者ばかりだ。そして彼らは並みの評価者ではない。柔らかな表情の下で、息をするように相手の頭のてっぺんからつま先まで、さらにはその精神までを見極める。ここで何か失態をしようものなら、ダール家の名前に取り返しのつかない泥がつくだろう。
老貴族たちは二人を温かく迎え入れた。ジベルダン公爵夫妻の隣に席を用意され、深い感謝と共に座った。ジーゼル子爵は公爵夫妻の孫と面識がある繋がりで、夫妻とは知らぬ間柄ではなかった。それでも圧倒的な権力・身分の差をきちんと測らなくてはならない。ジーゼルは始終謙虚で、おとなしく過ごし、たまにされる質問に答えるばかりだった。そうでない時間は、観察するようにマリのことを見つめていた。
期待以上。賢くて、強かで。世間を嫌いながらも、この大海を泳ぐ方法を知っている。評価されるのは個々の能力だが、そればかりでは上り詰めることはできない。生来持ち合わせている真心や素直さは一等の美徳であり、人心を掴むためには不可欠なものである。マリは亡き夫を共に偲ぶことで、この老獪たちを手なずけるだろう。3年引っ込んでいた実績もある。彼女の夫を愛する心はお墨付きであり、この歳の差だ。そして何より、彼らはマリのことを甘く見ている。全てが計画の最善を行く。普段波風立たない湖面のようなジーゼルの胸の内は久々に高揚していた。
「あの方は本当にお優しい方で。よく色んな方のお話を分け隔てなくお聞きでした」
「良識で物事を判断されるお方でしたわね」
「ええ。ご自身の土地にもよく直接お出向きになって。色んな所を案内してくださいましたわ。そしてたくさんのことを教えていただきました。領地のこと、そこに住む人々のこと。私、街ばかりしか知らなくて。それに、あの方と出会っていなかったら…」
不意に、マリはこみあげてきた思いに鼻がツンとした。いけない、と思ったときにはすでにかすかに目に膜が張っていた。
ガタ、と場に似つかわしくない物音が立った。マリ以外の全員の視線が集まった。
(俺は…)
ジーゼルは無意識に椅子から立ち上がっており、マリの方へ半歩足が向いていた。突然立ち上がったジーゼルに貴族たちは注目する。なぜ咄嗟に立ち上がったのか。自分でも内心驚きつつ、ジーゼルはマリの傍により、膝を折った。そして気づかわし気にマリの片手を取った。
マリは手を取られたことに驚き、ジーゼルの顔を訝しみながら見つめたが、そこには珍しく『困惑』という感情が瞳に現れていた。
「…奥様、その…どうか」
「申し訳ありません。子供のように。驚かせてしまいましたね」
マリは困ったように笑いながらジーゼルの手を優しく握った。
二人のやりとりに、老貴族たちはそれぞれ心が温かくなった。亡き夫を思い出して涙ぐむ憐れな若い未亡人。自らがエスコートを務めている婦人の涙を見て心配して駆け寄る青年。思いやりのある人間らしい行為を、彼らは美徳とみなした。
マリとジーゼルは思わぬところで、老獪たちの票を勝ち取ったのである。
「どうぞ、またいらしてね」
「お困りでしたらいつでもおいでなさい。あなたはダール候の奥方にふさわしい方です」
「ジーゼル子爵。よくお力になって差し上げてね。彼女はまだ若いのに辛いことがたくさんおありでしたから」
「承知いたしました」
マリとジーゼルは恭しく謝辞と礼をしてその場を去った。
「…またいらしてくれるとよろしいですが」
「どうだろうな。彼が亡くなったとき、我々に一切頼らなかった娘だ」
「…ダール候が彼女に結婚を申し込んだときには皆で驚きましたけど、気高くて優しいお嬢さんでしたね」
「驚くのも当然です。あの状態のミニエル家の娘ですぞ。慈善事業もいいところだと呆れもする」
「彼女が、きちんと報いてくれるとよろしいのですが」
残った主催者・参列者たちの想いは分厚い扉のうちに閉ざされた。
屋敷を出て馬車に乗り、しばらくして。無言だった中、おもむろにマリが口を開いた。
「大事な人は、忘れるのも、忘れられるのも悲しいですわね」
窓の外を眺め続けるマリを見据え、ジーゼルは一言「そう思います」と答えた。