その5
「一等席だとは思いませんでした」
席を勧められ、腰を落ち着けたマリはジーゼルに言った。一等桟敷は、普通席やほかの桟敷席と違って、個別のバルコニーのような作りになっている。こちらからは他の席は見えても、他からは見えないのだ。礼儀として謝辞を述べると、ジーゼルは「当然でしょう」、と自身も桟敷席に腰をかけた。
国一番の劇場は荘厳な作りの柱が重々しく、それぞれ天井に延び、大きな天幕を下げていた。豪華なシャンデリアが頭上でひしめき合い、ちらちらと光を反射する。一階席の一般席に座れるのは庶民でも裕福な者、その一帯の後ろは桟敷席として囲われている。ここに座れるのはさらに裕福なもの、大商人や貴族がほとんどだった。そして2階の一等桟敷席、マリが現在座っている席だが、金額はさらに上がり、座れるものが限られる。下の席からは決して見えないこの席は、秘密の逢引に使われることもしばしばあった。ここに座れるものは皆、特権として上から階下に広がる客席を観察するのだった。
席からの眺めにマリはため息をこぼした。つまらないものを見るような様子に、ジーゼルは薄く笑った。
「社交界はお嫌いですか」
「嫌いですわ」
マリははっきりと答えた。ジーゼルはその答えに返すことなく、少し身を乗り出し、バルコニーの手すりに肘を置き、頬杖をついた。切れ長の目が伏せられ、睫毛が色っぽく降りた。初心な娘さんだったらやられてるな、とマリは思った。
「ここからは貴族の社会が俯瞰できるのですよ。劇場は人間関係と情勢を知るのに非常に都合がいい。誰が誰と来ているのか。誰がどういう振る舞いをしているのか」
確かによく見える。マリは首を傾けて見下ろした。
「あそこ。分かりますか。二つ目の柱の前の席。ジョルダ卿が赤いドレスの女性といるでしょう。最近懇意になったメルニー夫人です。それを見てヤキモキしているのが以前恋人だったベルモント夫人。ベルモント夫人の今の恋人はマルセル子爵ですから、ジョルダ卿よりも身分は上です。なのにベルモント夫人は落ち着かない。お分かりですか」
「―――」
浅く考えれば、ベルモント夫人がジョルダ卿のことをまだ愛していて、気を引くためにマルセル子爵と交流を持ったが…。というところだろうが。この男がわざわざ問うてくるのだから、きっと別の回答があるような気がする。マリは夫人たちの周りに目をやった。
(ベルモント夫人はまだ若く、社交界での評判はこれからというところ。それはジョルダ卿も同じ。それに対してメルニー夫人は)
なるほど、と呟いたマリをジーゼルは視線で続きを促した。
「おそらく、若いベルモント夫人はメルニー夫人のサロンか舞踏会、どちらでもいいけれど、それに出たいと思っているのではないかしら。メルニー夫人は古くからの貴族の家。まだまだ社交界デビューして間もないベルモント夫人が憧れるのも頷けます。そこで当時付き合っていたジョルダ卿よりも上の恋人を捕まえた。マルセル子爵はお人柄でもご評判がよろしいし、ジョルダ卿と付き合っているよりもメルニー夫人の社交界に招かれる可能性が高いとお思いになったのでしょう。なのに、あろうことかジョルダ卿はメルニー夫人のお気に入りになってしまった、というところでしょうか」
ジーゼルはマリの推測を黙って聞き終え、喉でククッと満足そうに笑った。
「流石ですね。隠居していたのにも関わらず、よくご存じでいらっしゃる」
どうやら正解だったらしい。当たったところでひとつも嬉しくないが。開演が近づき、会場が暗くなる。ジーゼルの瞳が、暗闇にいる獣のように光っていた。
オペラが始まると、マリは舞台に集中していた。ジーゼルは広い視野の中に会場とマリを収めていた。階下の桟敷席では、舞台をそっちのけでひそひそと噂話をしあう客が揺れる草むらのように見えた。おおよそ今日訪れている客たちについて話しているのだろう。身に着けているもの、着ている衣装、連れている人。すべてが評価対象であり、人々は審査され、審査する。
(常に、上から眺めている立場でなければ。そのためには)
ジーゼルは暗闇の中、マリを見つめた。
「今日の主役は声がよかったと思いません?」
終幕を迎え、舞台を堪能したマリは一等桟敷の柔らかなソファに身を沈めた。
「近頃人気を博している役者ですから。お楽しみいただけたようで結構」
「構成も古い詩人をよく研究してあって面白かったです」
「引用の解釈がいくつか変えてありましたね」
ジーゼルもマリの視線に合わるようにソファにもたれかかった。二人の視線はぶつかり合った。ジーゼルは穏やかで、柔らかい表情をしていた。それから客がいなくなるのを待ちながら舞台の感想を言い合った。マリはなるほど、と思った。ジーゼルは教養が深く、物事をよく観察していた。紳士や奥方に気に入られるわけである。
「是非またお誘いしましょう。近々いい演目が予定されていたはずです」
マリは遠くの柱を眺めながら息を長く吐いた。
「…そうですわね。劇は好きな方ですし。お願いしようかしら」
「かしこまりました」
「叔父様にもお礼を言っておいてくださる?」
「…はい」
「夫が生きている頃はよく連れてきていただきました。私の幸せの絶頂ですわ」
「…」
ジーゼルは薄く笑い、ソファから立ち上がった。
「客も減りましたし、出ましょうか」
「…ええ」
マリは座ったままジーゼルを目だけで追った。無表情のまま。
温まった空気はマリの一言でスッと温度が下がり、二人は無言のまま階段を下りた。エントランスまでやってきたとき、一人の婦人がジーゼルの方に寄ってきた。
「ごきげんよう、ジーゼル様」