その2
次の日。マリが朝食を摂り終え、書斎でいつも通り新聞を読んでいると、客間の方から聞き慣れた声が届いた。ここに迎えられるといったら、考えるまでもなく叔父のユシッド伯爵である。概ね昨日の話をしに来たのだろう。マリはショールを肩に掛け、椅子から立ち上がり、客間に向かった。
「やあマリ!昨日は来てくれてありがとう!君も踊っていってくれてよかった!どうだったかい?久しぶりにああいう場に出たろう?」
案の定叔父のご機嫌伺いだったのだが、マリの予想外の人物が叔父の後ろに立っている。高い身長、白い肌、黒い髪…もしかして。マリは執事にアイコンタクトを送った。
(おそらく、昨日の…)
(私もそう思っておりました)
執事は一瞬でその意味を解し、また一瞬で主人の疑問に目で答えた。マリは頭が痛くなった。
「そちらの方は」
叔父は「そうだった!」とわざとらしく驚いた。
「こちらはジーゼル・ド・セニャック子爵。いずれは伯爵だけど。昨日の舞踏会にもお招きしていてね!今彼は社交界でもとっても人気がおありなんだ。ご丁寧だし、頭もいいし!」
とっても親切だしね!!!と叔父は得意げにマリに紹介した。マリは頭痛が一層増したように感じた。
「ダール夫人。お会いできて光栄です」
「おとぼけにならないでください。昨日お相手してくださったのはあなたでしょう」
ジーゼルは愉快そうに目元を緩めた。マリは良からぬ予感がした。叔父が隣で「えっやっぱりわかるかいマリ!すごいなあ」などと言っているが無視する。ジーゼルの後ろで執事のオネットが瞬きもせずに客を見つめている。当家の執事ながら頼もしい。
「一体どういうおつもりですの。うちのチョロい叔父様を唆して。私を舞踏会に誘うように吹き込んだのはあなたね」
「ち、チョロい!?」
マリは昨日、この男はやっぱり自分を特定して声をかけてきたのだと確信した。こうしてマリと接触をはかるためにこの男は叔父と知り合いになり、マリを舞踏会に出させる算段までつけたのだ。
「何を企んでいるの」
マリの凄みのある声と威圧するような視線はジーゼルには全く効果がなく、ただ叔父が動揺するだけだった。
「マリ、なんだか怒らせてしまったようだから、今日はし、失礼するね…申し訳ない、子爵」
「私も不躾でした」
気圧された叔父は事態を分析するような真似はできなかった。なぜマリがあのように受け取っているのかも理解できなかった。
「マリ、その、君が閉じこもってもう3年だろう…ずっと心配しているんだよ。君はまだ24だし。それに僕たちはダール候に多大な恩がある。その名前が世間から廃れてしまうのも申し訳なくてね…ごめんね、また来るね」
叔父はしょんぼりしたまま客間を後にし、侍女のミションが慌てて後を追いかけた。残されたジーゼルは淡々とした態度で、「非礼はお詫びいたします。しかし、ご挨拶できて恐悦至極。…またお会いしたいものです」と残し、流れるように頭を下げ、叔父追って退出してしまった。
「奥様。大丈夫ですか」
(招いていない)客人を送ったあと、オネットが慌ててやってきた。
「あの男…何を企んでいるのかしら。私の考えすぎ?本当に叔父様が自分だけの意志で私を家からひっぱり出したのだと思う?」
「僭越ながら。ユシッド伯爵様が奥様のことをご心配なさっているのは以前から明らかです。しかし今回のことにジーゼル子爵が無関係であるとは考えにくい。ユシッド伯爵様は、ジーゼル子爵にむしろ後を押してもらったと思っておいででしょう」
「やっぱりそうよねえ…。叔父様人がいいから。あの子爵、油断ならないわね。自分の目的を隠しながら叔父様に恩を売る。オネット、ジーゼル子爵のこと調べて頂戴」
「かしこまりました」
忠実な執事はぺこりと一礼すると、主の命令を遂行すべく確固とした足取りで部屋を出て行った。マリはその背中を見送ると、書斎の椅子に身を沈めた。先の叔父の言葉を頭の中で反芻する。ダールの名を守らなくては。夫の死後、領地も財産も全てを相続してから、マリがずっと考えていたことだった。「わかってるのよ…」ぽつりとこぼれた声は誰に聞かれることもなく消えていった。
ゴトゴトと揺れる馬車の中。ユシッド伯爵は深いため息をついていた。
「申し訳ない。マリは何か勘違いをしているようで。あの子、社交界がもともとそんなに好きではなくて。変に勘ぐってしまったのだと思います」
「あなたがお心を痛めないでください。見知らぬ人間が現れたら驚きます」
「ありがとう、子爵。はあ、こりゃまた閉じこもりかなあ」
「私でよければ、お慰みにお付き合いさせていただきたく存じますが」
「本当かい?それはありがたい。劇とか好きだったはずなんですよ。ああでも、またマリが失礼なこと言ってしまうかも」
「そちらはご心配なさらず。きちんとお話すれば分かっていただけるはずです。ご聡明な方でしょうから」
「子爵~~~」
ジーゼルは温かい笑みを向けた。この方は、本当に。人がいい。生来の優しさなのだろうか。一部ではこの性格を愚か者だとか、お人よしで間抜けだと侮蔑されてはいるが、ジーゼルは違う。彼と話していると自分の利己主義が浮き彫りになることもあれば、彼に手を貸していると自分まで「いい人」になった気にもなれる。そんなやりとりが愉快に思えた。自分に無害だからこそ、ジーゼルはより一層ユシッド伯爵を好ましく思うのだった。ともあれ、やっと車輪がレールに乗った。来る未来にジーゼルは思考を巡らせた。