その16
マリがダール侯爵夫人となり、ダール侯爵によってマリの生家ミニエル家が持ち直したからといって、全てが元通りというわけにはいかなかった。マリの両親は社交界に戻れる程強い心臓ではなかった。ダール侯爵への恩と世間への絶望との間の葛藤の末、領地に引っ込む決断をした彼らを責めるものはいなかった。マリの両親の代わりに、マリの父親の弟でありマリの叔父にあたるユシッド伯爵が都に残ることを申し出た。ユシッド伯爵は兄夫妻の受けた傷を忘れるよう努め、姪の今後を見守ることを約束した。
マリに対しては、新しい陰口が囁かれた。財産目当ての身の程知らず、というのは本人の耳にも入っている。しかし、マリはもう何も辛くはなかった。時折刺さる蔑みの視線にダール侯爵が顔をしかめたとき、マリは晴れ晴れと笑って見せた。あなたと結婚して幸せだということを他の誰よりもダール侯爵に示したかった。
二人は仲睦まじく、あらゆるところに赴いた。ダール侯爵はマリを大変可愛がった。マリも進んで侯爵を愛した。しかし、二人の間に子供が生まれることはなかった。不思議なことに、ダール侯爵はマリに子供を望まなかった。マリが勇気を出してその旨を聞いても、優しく頭を撫でられるだけだった。幸せだが、このままでいいのか、と考えながら暮らしていると、ダール侯爵の体調が急に崩れた。段々と臥せっている時間が長くなり、呼吸が弱くなっていった。医者やマリの看病もむなしく、老紳士はマリの手を握りながら息を引き取った。
マリは目の前が真っ暗になった。最愛の夫を失った悲しみは計り知れず、何も手につかなくなった。残してくれた全財産をどうするか、ということさえ二の次になった。あれ程マリに対して心無い言葉を投げつけた世間は急に手のひらを返した。今度は莫大な財産を相続した若い未亡人という肩書にされたのだ。見舞客が後を絶たなかった。彼らを平然とやんわり追い返す日々が続いた。中にはマリを真剣に心配する者もいたが、困憊していた当人はもはや見分けがつかない。マリは世間には碌な奴がいない、と改めて思った。静かに夫を偲ばせて欲しい。マリが願い、亡き夫のためにすべきと思うことは…。
「夫の喪に服します」
ある日、マリは世間に対して宣言した。暗に、放っておいてくれと願い出たのだ。ダール侯爵のことだけを想いながら生きることが彼に対する弔いであり、感謝の証であると思い込んだ。そうして、都で最も立派な屋敷に数えられるこの家は固く門を閉じたのである。
閉じこもってからは、時間が止まったかのようだった。変わらず仕えてくれる使用人たちと、時間通り、毎日決まった生活をする。週に一度、夫の墓を訪ねる以外は外にも出なかった。心配そうにしていた侍女たちは、諦めた顔で優しく接してくれた。執事のオネットも、何も言わず、今まで通り黙々とマリの世話を焼く。彼がマリの命令ではなく、独自に世間の情報を集めていたのはひとえに女主人が本当に世間と隔絶してしまうのを案じたからである。ただ、彼のノートが日の目を見るのはしばらく経ってからだった。
静かな屋敷の中で、潤沢にある時間はマリにあらゆることを考えさせた。当初は夫のことを嘆き悲しむことのみに費やしていたが、自然と薄情ながら、それだけで一日を終わらせることができなくなっていった。本当に、今のまま人生を終わらせられるのか。彼に報いるためには、違う道があるのではないか。悶々と思い悩む、苦悩の日々が始まったのである。
それからたまにマリはオネットに世情を尋ねるようになった。尋ねた後、まだどうするということもできなかったのだが。使用人たちはこの変化を喜び、新しい店や劇場ができたという話をよく持ってくるようになった。使用人たちの明るさに、マリは目の前が明るくなっていった。しかし、どうしても再び世間に飛び込むには、マリは傷つけられすぎたし、相当な抵抗を抱いてしまっていたのだった。
薄暗い部屋の中、一点を見つめたまま血の気が引いているマリに、ジーゼルはゆらりと近寄った。ドキリ、とマリの心臓は嫌な風に脈打った。
「…この家が、彼に貰った人生が、どんどん小さくなって、終いには…彼のことさえ流れの早い世間に遥か彼方へ流されてしまうのではないかと。ずっと考えておりました…」
ぽつり、マリは言った。オネットは部屋の外で控えていたが、初めて吐露された主の胸の内に、胸が潰れる思いだった。
「お約束いたします。あなたの大事なものは、決して損なわせることはないと」
ジーゼルは膝をついて、俯くマリを見上げた。訴えるような宣誓に、マリは「ああやっぱり」と思った。自分の顔が歪むのが分かる。
「私に何をさせようというのです。あなたが裏切らない保証はどこにもありません」
「疑いたいだけ疑っていただいて構わない。あなたにはその権利がある。私はあなたに対して、ずっと手の内をお見せしていたつもりです。それが誠意だと思ったからです。しかし私のやり方はあなたの目には恐らく一層人間として疑わしく映ったでしょう」
「…ええ。強引で、計算高くて、人のことを簡単に切り捨てる方だと思っていますわ」
「それで構いません。私は手段を選ばずやってきました」
男はぶれなかった。厚顔不遜な普段とは違い、今は瞳に、言葉に信念らしきものが滲んでいた。
「いったい何のために」
「…私が得たいのは、権力と発言力。国が動かせるくらいの。私はこの惰性で動いている社会を改めたい。もっと国を豊かにする財政、政治があるのに、今の舵を取っている連中は己の私腹を肥やすことにしか興味がない。そんな奴らを中心にしておくのは気に入らないと思いませんか」
一世一代の告白だった。ジーゼルはやっとここまでこぎつけた。ここでマリに受け入れられなければ、終わりだという覚悟を内に秘めていた。誠意は安売りしては意味がない。そもそも誠意を見せるに足りる相手は他にはいない。
「私にはそんな力はありません」
マリの瞳の中に動揺と戸惑いが見えた。
「今すぐの結果を求めているのではありません。やっていただくようお願いしているのです。あなた自身が権力を求めているのではないと承知しています。大事な家を守り抜くため。しかも気高いまま。そのためにあなたが世間に対して存在を誇示し続けることこそが、私の願いにも繋がるのです。あなたは、世間を俯瞰し、人を正しく見極めることができる。これは大きな強みです。一方的に助けていただきたい等とは申しません。私も全身全霊を持ってあなたのお味方をいたします」
―今、どんな顔をしているのか。自分では分からない。取り繕う余裕などない、みっともない顔だ。相手の顔を見ながら、それぞれは思った。




