その13
「お送りしますよ」
「私自分の馬車がありますので」
何事もなかったかのように話しかけてくるジーゼルにマリは冷たく返した。背中の腕もペッと剥がす。
「ではあなたのに乗せていただきましょう。どうしてもお見送りがしたいので」
滅茶苦茶である。乗せろ乗せないを人様の家の前でみっともなく揉めているわけにもいかず、結局はマリが折れることになった。ジーゼルがさっさと自分の馬車を帰してしまったというせいでもあるが。
ガタゴトと揺れる馬車の中。マリはため息交じりに目の前の強引な男に尋ねた。
「あのお嬢さんをこれからどうするおつもり?」
「これからも何も、元々どうするつもりもありませんが。彼女次第ですけれど。また用事があれば伺うと思います」
事も無げに答えるジーゼルにマリはドン引いた。本当に悪魔のような男だ。明らかな好意をしめしていた相手を、埃を払うかのように捨てるのだ。
「それよりも」
ジーゼルの声が1トーン下がる。一瞬でビリ、とした空気が漂った。
「売られた喧嘩をいちいち買っていたらきりがありませんよ」
さっきのサロンから今まで始終感情を表さなかった男の目が、鈍くマリを見据えていた。どうして来たんだ、とでも諫めるように。
ジーゼルの不興を買ったのだろうか。彼の計画に無いことをしたから?それにしても、咎められる謂れはないはずだ。勝手をするのはいつもジーゼルの方である。マリもいささか気分が悪い。
「別に。喧嘩を買ったつもりはありません。招待だけではもちろん他と同様、お断りしようかと思いましたけれど」
「…」
目を合わさないマリを、ジーゼルは値踏むように遠慮なく眺めた。
「あなたが懇意にしてらっしゃると聞いて。どんなにためになる集まりなのかと興味を持ったからですわ」
「それは生憎でしたね。私は付き合い上必要があったので参加していただけです」
「そうみたいですね。がっかりですわ。それに…」
言いかけて、マリの口は止まった。一瞬言わない方かいい気がしたからだ。言葉を切ったマリをジーゼルは訝し気に見つめる。冷たい表情で首を傾げ、続きを促した。不遜な態度にマリの負けん気が刺激される。
「あなたと私が知り合いであると分かっていて呼んでおきながら、あのようなあからさまに親しさを宣伝されては。もしかしたら、私とあなたの仲を誤解されてしまっているのかも?と思って心配しましたが、この件はどれだけ私が気にするだけ無駄だということが先ほど分かりました。よかったですわ、彼女の対抗心もかわいらしい程度で済んで。もっと突っかかられたら私もそれなりに応戦してしまいましたから」
「私の件はさておき。あからさまに彼女には悪意があったでしょう。隙あらばあなたを貶めようとしていましたよ」
「分かっています。そんなこと。私の結婚を掘り返してまだどうこう言うのであれば尚のこと、どんなにやり返してしまったか分かりませんわ」
そうでしょうね、とジーゼルはため息をついた。まだマリのことを貶めようとする輩は少なからずいる。スキャンダルと噂は社交界の食糧だ。火の粉を自力で振り払えるとしても、自ら炎の中へ入り、傷つくような真似は避けて欲しい、と言いたかったのだが。どうにも言葉が出なかった。反対にまだ言い足りないマリは話を戻す。
「真心の売買なんてろくなものではありませんわよ」
大真面目に諭した、つもりだったが。
「買いはしますが、売りはしませんよ」
ジーゼルの反応はいつも通り、飄々としていた。
「そんなの尚問題です」
マリは社交界の魔物のような男に目をつけられたことを、心底悔いた。同時に、どうしてこの男は自分にはこうもあからさまなのだろうか、操るつもりならばもう少し取り繕うとか、誠実さをアピールすべきではないのか、マリはジーゼル子爵という男がますます分からなくなった。
妥協し合いそうにない二人の意見は、どこにも帰結しないまま、重たい空気を残した。
馬車は無言の二人を乗せて、マリの屋敷に到着した。ジーゼルに帰れと目で訴える。ジーゼルは身を屈め、マリと無理矢理目を合わせた。
「聞きたいことがおありでしょう」
マリは息を飲んだ。何も言わず顔を背け、馬車を下りる。開けっ放しの戸から、ジーゼルがマリの意思を「是」と受け取って、彼女の後に続いた。
「おかえりなさいませ!!」
「おかえりなさ…!?」
待っていましたと言わんばかりのテンションで使用人が出迎えたが、二人の異様な空気を察して固まった。オネットが臨機応変に二人を応接室に案内した。飲み物をご用意いたします、とだけ言い、他の使用人を引き連れて引っ込んだ。
オネットは心中穏やかではなかった。サロンで何かあったのか。そもそもなぜ一緒に帰ってきているのか。そしてどうして一触即発のような空気をまとっているのか。いい大人の男女の喧嘩は勘弁してほしい。痴話喧嘩であればまだ取り持つ余地があったものの。ありえない。聞こえないところで深いため息をつき、一緒にいたミションに勝手場へ茶の依頼をしてくるよう言づけた。
マリは応接間にかかる、夫の肖像画を眺めた。守ってくれた、幸福を与えてくれた。マリにとっては絶対の存在だ。
「私、社交界は嫌いです」
「知っていますよ」
マリがおもむろに口を開いた。
「一度のしくじりがとんでもない傷になりかねません。誰も彼も、本当に心を許せる相手はいない」
「あの令嬢も、次の手を適切に打たなければ、今後がないかもしれませんね」
「馬鹿馬鹿しい破滅です。どうしてそんなことに躍起になるのか」
「評判と名声が全てだからです。世間という舞台の上で、可能な限り大きな役を演じることが名誉だと思っている」
ジーゼルはあくまでも淡々と、百科事典でも読み上げているかのような物言いだった。マリは非難するような顔で聞いていた。もはや分かり切った、だから嫌いだと言っている定説だ。しかしそれを他人事のように語るジーゼルに違和感を覚えた。自分は違うと言いたいのだろうか。
俯いていた頭をもたげると、ジーゼルはまっすぐにマリを見ていた。
「しかし…あなたがおっしゃたように。それは本当は手段でしかない」
マリは先のベルエール嬢のサロンで自分が言ったことを思い返した。自分に向けられる視線に、なぜだか胸騒ぎがした。
「立場を利用して放蕩している馬鹿も世の中にはいますが。何をするかが大事、ということです」
マリは耳を塞ぎたくなった。どうして。自分で言ったことでしょう。ジーゼルは繰り返しているだけだ。しかし、何か弱点を狙われているような気がしたのだ。情けないことに、今マリは蛇に睨まれたカエルと同じ状態に陥っていた。
「社会をより良い方へ動かすのもひとつ。領地と領民・親族に安心と安寧を保証するのもひとつ。そして、その立場でしか守れない、大事なものを守るのもまたひとつです」
ドキリ、と胸が疼いた。語りかけるような、しかし確固たる意志を秘めたジーゼルの言葉にマリはただ固まるしかなかった。何を言おうとしているのか、何をやらせようとしているのか。薄々感じていたものを、マリははっきりと察してしまった。
同時に、マリの心の底にずっと沈んでいたモノ―「罪悪感と責任感」がぷかりと浮かび上がってきたのだった。




