その12
「皆さまはどうしてこのように勤勉に切磋琢磨していらっしゃっているのですか?」
マリは柔らかな物腰で淑女たちに尋ねた。彼女たちは何と答えたらよいものかと互いに顔を見合わせていた。「ええと、ええと」と迷っている彼女たちをさて置き、ベルエール嬢が凛とした態度で口を開いた。彼女にはサロンの主人としての面目を保つ義務があった。
「皆さまは、私の考えに賛同して集まってくださっております。女が何を、と思われてしまうかもしれませんが、素養ある人間になりたいのです。女子が古くから身に着けるようにと言われている教養や作法以外にも、多くのことを学びたいのです。花形と名高い奥方たちは皆高尚なサロンをお開きになって、啓発に努めていらっしゃいます。真似事と言われてしまうかもしれませんが、早くから学ぶのに越したことはないでしょう?」
―憧れ。彼女を刺激した花形のサロン。そこで佇む教養高い夫人。囲むように座り、夫人を讃える紳士たち。若い彼女が将来の姿を思い描いているのだろう。マリはその空間が決して美しいばかりでないことを知っている。柄にもなく、彼女たちが同じような道を歩まないことを願ってしまった。
堂々と己の理想を表したベルエール嬢に対して、令嬢たちは安心と信頼、尊敬の眼差しを向けた。そして彼女の「先生」は生徒の堂々とした回答に大変満足な様子だった。マリが相槌を打ちながら聞いている様子を見て安堵したのだろう。話を膨らませ、場を取り持とうとした思想家は、講義の続きのように可愛い生徒たちに「貴族であるということ」について問いかけた。侯爵夫人に生徒たちの出来を披露するかのようだった。
ひとりは恥ずかしそうに口ごもりながら「ええと、貴族とは気高くあるべきと思っています」と答えた。またある者は先のベルエール嬢の言葉に勇気をもらい「教養を身に着けるのが大事」と。さらに「貞淑であるべき」や「守り続けなければならない立場」、「常に優雅でなくてはならない」と続いた。
かわいらしいな、とマリは思った。決して馬鹿にしたわけではない。まだ若いのだ、曖昧でぼんやりした認識しか持てないことを責めることはしない。無垢であることに愛おしささえ感じる。
うーん、と悪くない回答なんだがという表情の思想家に、ベルエール嬢は自信たっぷりに目くばせをした。
「私は、貴族は人の手本にならなくてはならないと思っています。それが特権階級でいられる条件とも言えるかと。身分だけあるような人間、またはお金だけある人間は愚かです。私たちは教養や思想を享受できやすい立場ですし、享受することを許された人間なのだから、奢らずに自分たちを高めることで、貴族として生きることができるのだと戒めるようにしています」
思想家は良くできましたと言わんばかりにうんうんと深く頷いた。気が付いていないのか。彼女が織り交ぜたマリへの誹謗に。ジーゼルは静かに全体を観察していた。今までベルエール嬢の父親からの頼みでここに足を運んでいたが。もう義理は果たしただろう。始まった当初は彼女たちの意欲的で先進的な学びの場だったが、段々と差が顕著になり、ベルエール嬢の自己顕示の場になってしまった。彼女がそれに気が付き、正すことができればまた違った様相を呈しただろうが。ジーゼルはマリが一瞬より深く、優しく微笑んだのを見逃さなかった。
調子が良くなってきた講師は、マリにも同様に質問をした。マリの瞳に冷たい炎が宿る。謙虚な夫人らしく、自分が申し上げるまでもないと思うが、と前置いた。いやいやと続きを促す思想家の向こうに、挑戦的にマリを見つめるベルエール嬢がいた。
「特権階級であることは、目的でしょうか?手段でしょうか?」
素直な淑女たちは首を傾げた。
「貴族であるために教養を高める、貴族であるからより良い人間になる。これでは私たち行きつくところは皆同じです。いつかは腐敗するでしょう。大事なのは、何を成すかです。己を磨くのは確かに欠かせません。素養が無ければ何もできませんから。しかし貴族であることを目的とせず、手段とすることで、私たちにはやれること、やるべきことがあるはずです。この立場をいかに適切に使うかが重要だ、ということを考えたいですわね」
皆が聞き入り、一瞬の静寂が生まれる。
パチパチ、と不意に拍手が部屋に響いた。皆ハッと意識を取り戻し、拍手の主を探すと、手を叩いていたのはジーゼル子爵だった。満足そうにマリを見つめながら称賛を送っていた。つられるように、大人しくしていた学者、批評家はマリの意見を支持した。思想家もごもっともですと手を広げながら、感嘆していた。淑女たちが目を輝かせてマリを見つめる中、ベルエール嬢は口を結んで顔を赤くしていた。
マリは想像していなかった賛辞に苦笑いを浮かべた。
他愛のない雑談を少しして、マリは暇を申し出た。その間、ベルエール嬢はマリと言葉を交わすことはなかった。その代わり、見せつけるようにジーゼルに話しかけては、優しい眼差しを向けらえるよう努力していた。
―拍子抜けだわ。マリは思った。
「また是非いらしてくださいね」
部屋を出る際、やっとベルエール嬢はマリに口を開いた。隣にはジーゼルが立つ。とても自然な仕草で、「ね?」とジーゼルにも同意を促しながら腕を絡めた。
何を見せられているのか、とマリが思うのと同時に、ジーゼルはするりと令嬢の腕を抜けた。ベルエール嬢は意図を測り兼ね、人形のように固まった。そして男は進み出てマリの肩を抱き、後ろを向かせた。途端にマリがあからさまに嫌そうな顔をする。
(こ、この男…)
マリの様子を意に介すことなく、いつもと変わらない、ベルエール嬢に対して向けていた甘い声とほほ笑みで
「さようなら、お嬢さん」
と残し、そのままマリの背を押して令嬢の前から立ち去った。流れるような退出だった。ベルエール嬢は何が起きたのか分からなかった。しばらく、一瞬で誰もいなくなった廊下を呆然と見つめ、『失敗した』という事実を認知した。足元が崩れていくような気がしたが、彼女の自尊心が踏みとどまらせ、部屋に残っている客人たちへと足を向けた。共に戻らないジーゼルのことを何と言おうか。動揺を隠しきれるだろうか。突然放り出された知らない舞台を乗り切れるだろうか。望まぬまま、彼女の人生の新しい幕が上がったのだった。
 




