過去を売った男
「私の人生はなんだったんだ」
男はため息まじりにこぼした。狭いワンルームのアパートの部屋で、窓辺に座ってぼんやり外を眺めていた。隣家の屋根の上にかろうじて見える空は、穏やかに晴れ渡っていた。
*
若い頃は何事もうまくいっていた。勉強もそこそこ、遊びもそこそこ。容姿も悪くなく、スポーツも万能だった。だから女の子にもモテた。一流の大学にも難なく合格し、卒業して大企業に就職した。
根は真面目だったし、会社でもコツコツと働き、気がつけばそれなりの役職まで昇り詰めていた。要領も良く仕事もでき、お金もあり、容姿も悪くない。会社の女性たちからも引く手数多だった。その結果、社内一の美人といわれた女性と結婚。その後二人の女の子にも恵まれた。
ここまでは誰もが羨む人生だった。しかしそこから運命は変わり始めた。
もの静かで優しい妻だったが、子供ができてから別人のように変わった。子供には厳しく、正論をかざして子供たちを毎日のように叱りつけた。なんでこんな簡単なことができないのか、なんでテストで間違えるのか、なんで忘れ物をするのか、なんでクラスで一番になれないのか、あらゆることに厳しく迫った。まさにスパルタ教育だった。
子供たちは次第に覇気を失い、表情から笑顔も消えた。そんな状況を、仕事にかこつけて見て見ぬ振りをする父親にも子供たちは不満を持った。成長するにつれ、家庭内で唯一の男性を異物のように毛嫌いするようになった。
気がつけば男は毎晩大量の酒を飲むようになっていた。そしてその影響で仕事もままならなくなった。
男はこれまで子供の教育に口出ししてこなかったが、いつからか酔った勢いで妻と口論するようになった。そしてついに二人は決裂し、離婚だけが唯一の解決策となった。男は子供たちのために決断したつもりだった。子供たちの自由を勝ち取るために戦ったつもりだった。しかし子供たちの最後の言葉は「こんな家に生まれて恥ずかしい」の一言だった。
そして男は独りになった。
*
男はタバコに火をつけた。煙は窓をスルリとすり抜け外へ飛び出していった。男は煙が空中を彷徨い次第に消えていく様子を無心に眺めていた。しばらくして「ママー、なんか臭い」という近所の子供の声がしたかと思うと、窓を力強くバタンと閉める鈍い音が響いた。
男はもう一度タバコを吹かしたが、急に味気なく感じ、吸殻でいっぱいになった灰皿で無理やり火をもみ消した。
「散歩でも行くか。天気もいいし。タバコもなくなったし」
男はそう言ってゆっくり立ち上がり、大きく両腕を上げて伸びをした。しなびた灰色のパーカーに、サイズの合っていないダボついた黒いスウェットパンツ。髪はボサボサで、無精髭がだらしなく顔の下半分を覆っていた。自分がどんな状態か考えることもなかったし、そもそもしばらく鏡の前に立ったことすらなかったので、そんなことには気がつきようもなかった。男はそのままサンダルをひっかけて外に出た。
離婚してから独りで暮らしはじめた街。まだそれほど馴染めていない景色。気の持ちようによっては新鮮な刺激に満ちた平日の午前中ではあったが、穏やかな気候にもかかわらず街に人影はまばらで、たまにすれ違うのは散歩中の老人ばかりだった。
男は何度か行ったことのある昔ながらのタバコ屋に向かった。しかしいつも年配の女性が怪訝そうに顔を覗かせていた窓はシャッターが降ろされていた。隣にあった小さな喫煙スペースも灰皿や自動販売機がすべて撤去され、「禁煙」と書かれた貼り紙が必要以上に何枚も無造作に貼られていた。
「どうやら店をたたんでしまったようだな。きっと近所から苦情でも出たんだろう。今どきタバコを吸うなんてまともな人間じゃないということだ」
男はブツクサと独り言を言うと、仕方なく少し先のコンビニまで歩くことにした。
その道すがら、こじんまりとしたショッピングモールの一角に古びた木造の小さな平屋がたたずんでいるのが目に入った。
「こんなところにこんな店があったかな。しかしとてもではないが新しくオープンした店とも思えない建物だ。それこそ100年近く続く老舗という方がしっくりくる。まあ近頃はレトロを愉しむ若者も少なくはないのだろうが」
男の足は思わず店に引き寄せられた。近づいてみると看板には「高価買取。リサイクルショップ・輪廻」と書かれていた。入り口の横のショーケースには、古い置き時計や懐中時計、万年筆などが陳列されていた。
「リサイクルショップというか、どっちかと言えばこれはもはや骨董品屋だな」
男は店内を覗いて見たい一心に駆られ、気がつけば建てつけの悪い磨りガラスの扉をこじ開け、中に足を踏み入れていた。
小高いビルに挟まれ日差しの届かない店内は薄暗く、一人の客の姿もなくひっそり静まりかえっていた。入り口のショーケース同様、店内には古びた品々が所狭しと並んでいた。唯一動きのある物といえば奥に見える柱時計で、くすんだ黄金色の大きな振り子をぎこちなく揺らしていた。そして、静かな店内を満たしていたのはその柱時計のカチカチと時を刻む音ぐらいだった。
「いらっしゃい」
突然の声に男は度肝を抜かれた。振り向くと部屋の隅に机と椅子があり、老人が一人座っていた。最初からずっとそこに居たのかもしれないが、男はまったく人の気配を感じていなかった。薄暗い部屋に勝るとも劣らない影の薄さ。それは男がひたすら目を凝らして見つめなければ、存在を確認できないほどだった。
老人の髪は艶やかな鼠色で、両耳が隠れるほど伸びていたが、襟足は綺麗に整えられていた。頬はしな垂れ、さながら小型のセントバーナードといった顔つきだった。鼻にかけた丸眼鏡はなぜか取ってつけたような違和感があり、その奥の小さな細い目は瞑っているのか、もともと細いのか分からなかった。
「そんな死神でも見たかのような青ざめた顔で人を見るもんじゃありませんよ。へっへっへ」
老人はそう言いながらやけに愉快そうに笑った。笑った口にのぞかせた歯は所々抜け落ちていた。それでもその声は、まるでサラウンドスピーカーを通しているかのように臨場感のある、よく響く声だった。
「今日は何を売りにいらしたんでしょうか?」
「いや、別に…。ただふらっと…」
「久しぶりのお客さんだ。これもなにかの縁です。きっと何か売った方がいいものがあると思いますよ?あ、でもそのパーカーでしたら、あいにく大した対価はお支払いはできかねますがね。へっへっへ」
「こ、これは売る気などない」
男ははだけていた前のジッパーを慌てて首元まで引き上げた。
「それは賢明でございます。では何か他にございますでしょう」
「だから、私は何かを売りにきたわけではなく、たまたま通りかかっただけだ」
「ほぉ『たまたま通りかかった』のですか。そしてこの店に入られた。いやぁしかし、たまたま通りかかっても、この店に入られる方はなかなかいらっしゃらない。やはりこれは縁というほかございませんな。では何をお売りになりますか?」
男は「しつこいヤツだ」と思いつつも、根っからのお人好しということもあり、そう何度も言われると次第に何かを売らなければならないと心の片隅で思い始めていたのだった。
「なかなか商売上手だな。そこまで言われると、私も何か売りたくなってくるではないか。しかし私はもうこれまでの人生ですべて身ぐるみを剥がされたも同然だ。だから売れるものなどほとんどないが、それでもあるとすれば…そうだなぁ…『過去』かな」
男は気の利いた冗談のつもりで不意にそう口にした。ところがその途端、老人は尋常ではないほど目を大きく見開き、白目に浮き出た血管を赤々と充血させて言った。
「過去ですかっ!」
そしてすくっと立ち上がり、見た目とは到底かけ離れた軽快さで男の方へ近づいてきた。男は思わず二、三歩後退りした。気がつけば腕から首筋にかけて鳥肌が立っていた。
「これはこれは素晴らしい!そうとなれば、まぁまぁ、こちらへどうぞどうぞ!」
老人はどこからともなく椅子を一つ差し出し、そこに座るように手振りで男を促した。
「やはり縁ですな。いやいや素晴らしい。お茶でも入れますから、まぁゆっくり話を聞かせてください。あなたの『過去』を。へっへっへ」
老人は嬉しさのあまり飛び跳ねるようにして奥の部屋に入ろうとしたが、扉を開けてピタッと止まったかと思うと、男に振り向いて言った。
「今お茶を持ってきますからねぇ。決して帰らないでくださいよぉ?へっへっへ」
老人の気味の悪さにすっかり怖気づいてしまった男は、言われるがまま座って待つほかになかった。
男は老人を待つ間「私はいったいここで何をしてるんだ」と悔やみ始めていたが、裏腹に、内心「どこからどう話そうか」と考えてしまう素直な性分は抑えられなかった。
まもなく老人はお茶を持って現れた。机の上に置くなり急いで椅子に座って言った。
「それではどうぞ?慌てずに、最初からゆっくり話してくださいねぇ。へっへっへ」
男は躊躇いながらも、お茶で口を潤し、仕方なく話し始めた。最初は「馬鹿馬鹿しい。なんで見ず知らずの薄気味悪い老人に、私の個人的なことを細々と話さなければならないのか」と懐疑的ではあったが、話を進めるうちに、かえってその柵のなさが言葉を滑らかにしていった。そもそもこれまで自分の人生を振り返って詳らかに人に話すこともなかったし、あったとしても、離婚調停で弁護士にさまざまな事実を並び立てたくらいだった。だとしてもそこには生い立ちなどは含まれていない。あらためて自身の記憶を辿ると、一つの記憶がまた別の記憶を呼び起こし、芋づる式に連鎖しながら、気がつけば滔々と人生を語っていた。男はすっかり悦に入っているようだった。
一方、老人はこの上なく聞き上手で、「ほぉほぉ」「それはそれは」など、要所要所で相槌を打ちながら男の話を見事に引き立てていた。
男は大方話し尽くすと、後半の惨めな自分を再認識して意気消沈した。逆に老人はいかにも満足そうに、満面の笑みを浮かべて言った。
「最後を除けばそんなに悪くない人生でしたなぁ。いやいや本当に素晴らしい。へっへっへ」
「しかし悪くない人生とはあまりいいものでもない。思えば何も自分の意思でチャレンジもしたこともなかった。何も本気で取り組んだこともなかった。心を燃やして何かに追い求めたこともなかった。本気で誰かを好きになったこともなかった。ただ成り行きのまま生きてきた。人が敷いたレールの上を歩いてきただけだ。何かをしているようで何もしていなかった。そして最後にはすべてが崩壊した。オセロのように、並べてきた白が最後の一手ですべて黒に反転したんだ…」
「私は好きですねぇ、そういう結末。それこそ人生というものでございましょう。へっへっへ」
「人ごとだからそう言えるんだ」
「まあまあ、そういきり立たずに」
老人はそう宥めると立ち上がり、眼鏡の上から男を覗き込むようにして言った。
「では、買いましょう。あなたの過去を。対価を支払う価値が十分にございますからねぇ。へっへっへ」
老人は机の下から小箱を一つ取り出した。開くと中には黒いサングラスが入っていた。老人は同梱されていた布で丁寧にレンズを拭き「では、これをかけてください」と言って男に手渡した。
「これをかけてどうするというのだ」
状況のつかめない男は、サングラスを四方八方から眺め回しながら老人に尋ねた。どう見ても何の変哲もない普通のサングラスにしか見えなかった。
「ですから、あなたの過去をいただくのですよ?」
「これをかけるだけで?」
「そうでございます」
「それはどうも納得いかない。どうしたらこんなもので私の過去がどうのこうのできるというのだ?」
男はこの期に及んで老人に食い下がった。
「まあまあ、急にそんな頑なにならずに」
「いやただ知りたいから聞いているだけだ」
「はぁ、そこまでおっしゃるなら仕方ありませんなぁ。では簡単に申し上げますよ?さっきお出ししたお茶には特殊な成分が含まれております。このサングラスをかけるとそれが化学反応をおこして、サングラスに搭載された通信機能を通じてあなたの記憶を遠隔のコンピュータに伝送する仕組みなのでございますよぉ。へっへっへ」
男はキョトンとした顔で聞き返した。
「そんなハイテクな技術を使っているのか?」
「まぁそんなところでございます。ただ、心配しなくても大丈夫ですからねぇ。過去といってもすべての記憶を取ってしまうわけではございません。それでは今後の生活に支障をきたしてしまいますからねぇ。あなたにとって辛かったこと、苦しかったこと、嫌だったこと、そういうものに纏わるところだけをいただくのです。きっと、すっかり生まれ変わった気持ちになりますよぉ?へっへっへ」
「それはこっちとしては願ったり叶ったりだが。本当にそんな都合のいい話があるのか?にわかに信じがたい。しかしそれにしても、いくら貰えるのか知らないが、そんなものを買い取ってどうするというのだ?」
「まぁ世の中には、いつの時代も、物好きというものがいるのでございますよ。大抵はお金持ちですがねぇ。よっぽど他の遊びはやり尽くしたんでしょう。人の過去を買い取って、それを自分で味わってみて楽しむわけですよ。しかも悪い過去ほど刺激が強い。それはそれは高値で売れるわけでございます。苦しむ人間がいれば、それを喜ぶ人間がいる。だからこの商売も成り立つのでございます。へっへっへ」
男は「信じがたいがここまできたら仕方ない。嘘だとしても失うものもない」などと自分に言い聞かせるしかなかったが、それでもなかなか決断しきれず、サングラスをいじり回していた。
もたもたする男に業を煮やした老人は急かすように言った。
「ではよろしいですかぁ?はいサングラスかけて。あ、あと、残ってるお茶も全部飲んじゃってくださいねぇ?へっへっへ」
男はようやく意を決してお茶を飲み干し、サングラスをかけた。
「はい、そうです。いいですよぉ。では私の方を見てください?楽にしててくださいよぉ?へっへっへ」
そう言うと老人は男の顔近くで指をパチンと鳴らした。すると男の眼前、サングラスの裏側には過去の記憶が映像となり、走馬灯のように駆け巡った。男は膝の上でギュッと拳を握った。そのまま一、二分ほど経過した。傍目には少しの間ではあったが、男にとっては、半生のダイジェストは相当長く感じられたのだろう、一通り終わったときにはすっかり脱力した様子だった。そして男の頬には、サングラスの下から薄っすらと涙が溢れていた。老人はタイミングを見計らってまた指をパチンと鳴らした。
「はい、おしまい。へっへっへ」
老人はゆっくり男の顔からサングラスを外した。
「いかがでしたかぁ?」
男は指先で軽く涙を拭うと、椅子から立ち上がって言った。
「うん、なんだかとてもスッキリした。なんかやる気に満ちてきた気がする。うん、これはこれは。信じられん。すごくいい感じだ!」
男はすっかり生まれ変わったようだった。
「それはそれは、うまくいったようでございますなぁ。へっへっへ」
老人はサングラスを片付け、机の下から今後は別の小箱を取り出した。
「では、対価をお支払いいたしましょう」
小箱の中身は小切手だった。老人は一枚取り出すと素早く数字を書き込んだ。そして不躾に男の方へ差し出した。男は受け取った小切手を確認するなり、腰を抜かして椅子に座り込んだ。
「二千万円!これは本当なのか?」
男は驚きと嬉しさのあまり手を震わせていた。老人は澄ました顔で言った。
「はい、本当でございます。僅かではございますが、老後の貯蓄の心配などはしなくてもいいくらいではないでしょうかぁ?へっへっへ」
「僅かどころではない。本当に本当なんだな?」
男は念を押した。
「はい、本当に本当でございますよぉ?」
「いやぁこれは助かる。失業手当だけで細々と凌いでいたが、これなら少しは楽ができる」
男は興奮ぎみに立ち上がると、スウェットパンツのポケットに小切手を押し込んで言った。
「間違いないんだな?これはもう私のものなんだな?」
男はさらに念を押した。
「はい、その通りでございますよぉ。へっへっへ」
「そうかそうか。最初はどうなることかと思ったが、ここに立ち寄って正解だった。たしかにこれは縁だな。縁としか言いようがない」
予想以上に喜びをあらわにする男に、老人もさすがに苦笑いしていた。
「いやぁ本当によかった。感謝するよ。今まで大変な人生だったが、黒になったオセロが再び白にひっくり返ったようなものだ。もう離婚だとか子供だとかは一切忘れて、これからは楽しく生きよう!」
そう言った瞬間、男も老人もびっくりしてお互い顔を見合わせた。男はボソッと言った。
「あれ?過去の記憶が…ある…な…。あるある」
老人は大慌てで小箱からサングラスを取り出し、記憶の伝送ログを確認した。そしてただでさえ血色の悪い顔をさらに青ざめさせて言った。
「記憶が…取れて…ない…。ないない」
男は少し考えていたが、ふと思いあたる節が浮かんだ。
「実は自分の過去を話して聞かせているうちに、自分でも話しながら考えが変わったんだ。たしかにいろいろ辛いことはあった。しかしそれでも、それはそれで私の人生だ。私がこれまで生きてきた証だ。この先また何がどう転ぶか分からない。もしかしたら娘たちが私を許して受け入れてくれるかもしれない。そう思えば満更でもない。私の人生に悔いはない。なんと麗しき人生。そう思ったんだ」
「な、な、なんですと…?それを先に言っていただかなければ…。いい思い出だけでは記憶が取れるはずもございません…」
老人は愕然として机にひれ伏した。
「では…、その小切手は返していただき…」
老人はそう言いながら顔を上げたが、そこにはもう男の姿はなかった。男は一瞬の隙をついて足早に店を出ていったのだ。もちろん老人に男を追いかけて捕まえるほどの脚力はなかったし、あれほど念を押され、その金は男のものだと答えた手前、今さら返せというのも憚られた。
「しまったぁ…。先にデータを確認してから支払うべきであった…」
(了)