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意外な言葉に、わたしはまじまじとセシル様を見つめた。
冗談をおっしゃっている様子はない。本気なのだろう。
わたしとセシル様の肖像画なら、すでに一枚描いてもらったものがあるのだけど。
歴代の公爵家夫妻の肖像画が並ぶ廊下に、わたしたちの絵も飾られている。セシル様のご両親の隣にある肖像画がそれだ。
おそらく、あの肖像画を見た人は、セシル様の隣にいるのがわたしだとは気づかないだろう。
もう一枚増やしたいということだろうか? 広間にでも飾るおつもりなのかもしれない。
わたしは構わないけれど、でも……。
「セシル様のお仕事は大丈夫なんですの?」
肖像画は、モデルになる側の拘束時間が長い。
わたしは学生の身だから、都合がつけられるけど、セシル様は公爵閣下として多忙な身だ。
わたしが、学校帰りにせっせと公爵家に通っているのは、セシル様に一目でいいから会いたいという下心のためだけど、セシル様は視察や会議に飛びまわっていて、馬車の中で書類仕事を片付けているような方なので、実際に会える確率はとても低い。
今日、こうしてお会いできているのは、とても幸運なことなのだ。
あぁ、わたしがこの公爵家で暮らしていた頃が懐かしい。まだたった三ヶ月前のことだけど、あの頃はほとんど毎日セシル様に会えていたのに。
高等魔法学園への入学とともに、わたしは伯爵家に戻った。
そして、セシル様と過ごせる時間はぐんと減った。
お仕事がお忙しいのだから仕方ないと、割り切ってはいるつもりだ。わたしたちは偽装婚約に過ぎないのだし、わたしのために時間を割いてくださいというつもりもない。
むしろわたしは、セシル様に休んでほしいと思っている。以前からそういう傾向はあったけれど、最近は特に働き過ぎで心配になる。少しは休んでいただきたいわ、閣下……。
だけど、セシル様が、ヘレンフォード卿としての責務をないがしろにされる方ではないということもわかっているので、わたしは唇をむずむずさせては、言葉の多くを喉の奥に呑みこむのだ。
そんなセシル様なので、肖像画を描いてもらう時間なんて取れるのだろうかと思ったのだけど、セシル様はにこやかにいった。
「心配ないよ。実は、とても腕のいい画家を見つけてね。モデルになるのは、一時間もあれば十分だそうなんだ。それ以上は実物を見なくとも、自分の記憶から絵を完成させられるというんだよ。素晴らしいだろう?」
「まあ……。すごいですね。そんな画家がいらっしゃるんですか。お名前をお伺いしても?」
セシル様が教えてくれた画家の名前は、聞いたことのないものだった。
まだ駆け出しの新人なのだろうか?
それとも、何らかの理由があって不遇な環境にいる人物だろうか。
セシル様としては、投資も兼ねた依頼なのかもしれない。
ヘレンフォード卿に肖像画を依頼されたとなれば、最高級の箔がつく。高貴な方々の間でたちまち噂になり、仕事の依頼が殺到するだろう。
モデルになるのがたった一時間でいいなんて、少しあやしい気もするけれど、セシル様が問題ないと判断されたのだ。不審な点があれば、セシル様がこの屋敷に入れることも、わたしへ近づけることもない。わたしはセシル様を信頼している。
「それでは、描いていただく日時はどうしましょうか。わたしは自由がききますから、セシル様のお仕事のご都合に合わせますわ」
セシル様は、そこで初めて、わずかに目を泳がせた。
うん? となったわたしに、セシル様は、親類縁者もろもろの他人へ向ける完璧な愛想笑いを浮かべていった。
「実は、すでに屋敷に招待していてね。今日これから描いてもらおうと思うんだが、どうだろう?」
─── 前言撤回する。
セシル様が一番の不審人物だ。
「何を企んでいらっしゃるんですか、セシル様?」
「企むだなんて、人聞きの悪いことをいうね、ライラ。私はただ、せっかくの機会だから、早い方がいいと思っただけだよ。善は急げというだろう?」
「まあ、とっても早すぎますわァ」
「突然の話で、君には申し訳ないとは思っているよ。でも、私の仕事の都合もあってね。今日、偶然時間が空いたものだから」
「なるほど。以前から計画されていらっしゃったのに、わたしには秘密にされていたということですね?」
セシル様はにっこりとほほ笑み、片手を無意味に開き、そのまま沈黙した。
誤魔化しきれないことを悟ったらしい。
最初から、誤魔化すつもりがあったのかも怪しいけれど。
わたしは眉間にしわを寄せて、ため息を吐き出した。
セシル様が、ちらっちらっとわたしの様子を窺っている。だめかな? いいかな? と尋ねてくる眼差しに、わたしはじっとりとした視線を返して差し上げた。
……まあ、セシル様が何を企んでいるにしろ、肖像画なら、それほど高価な買い物ではないだろう。
わたしの一昨年の誕生日に、セシル様が誕生日祝いとして広大な庭園を購入してきたときには、さすがに「事前に相談してくださいっ!!!」と叫んだものだ。
セシル様いわく、わたしを驚かせたかったらしい。
わたしは、あんな嫌な驚きは二度といらないと懇々とお説教した。わたしがセシル様を叱ることだって、たまにはあるのだ。
ちなみに、わたしが頑として受け取らなかったため、庭園は公爵家の財産の一つとなった。
わたしはホッと胸をなでおろしたけど、セシル様は最後まで不服そうな顔をしていたし、いつの間にか庭園の名前を『ライラ・ヘレンフォードの庭』と改名していた。
セシル様、わたしはまだヘレンフォード家の一員じゃありませんわァ……。
というか、そもそも偽装婚約なので、ヘレンフォード家に入る予定もない。
婚約破棄をした後には、あの庭園の名前をどうなさるんですか……と、わたしが頭を押さえながら尋ねれば、セシル様は「君が嫁ぐときに、庭も持参金の一つとして持っていくといい。あぁ、維持費は公爵家が負担するから心配ないよ」と、問題しかない発言をした。
セシル様は、過去のもろもろがあってわたしに大変甘いのだけど、おかしな方向に甘やかそうとするのは心からやめていただきたい。
いえ、わかっております。ええ、ええ、ヘレンフォード卿からすれば、たいした金額ではないのですよね。わかっておりますけど、わたしにとっては下手な幽霊話より怖いんですよ、セシル様……!
庭園に比べれば、肖像画ははるかに真っ当だ。
そう、いいたいところだけど、今日の今日というのはですね。大変大きな問題があるのですよ。学校帰りだから、わたしは何の準備もしていないんです。学園はお化粧禁止、華美な装いも禁止ですからね。セシル様だってわかってらっしゃるくせに……!
この屋敷にすでにある肖像画を見て、セシル様の隣に描かれている少女がわたしだと、一目で気づく人はそういないだろう。
なぜなら、あの肖像画を描いてもらったとき、わたしは盛りに盛っていたからだ。
美人は造れる。
それがわたしのお化粧の先生であり、美の魔法使いと名高い伯母様のモットーである。
※
お勉強は嫌い。習い事も嫌い。お外で遊びたい。
そんな子猿だったわたしが、最初にあやまちに気づいたのは、セシル様の婚約者となってから、初めて迎えたセシル様の誕生日パーティーでのことだった。
公爵家の親類縁者もろもろの客人たちは、みな一様に、公爵家当主の婚約者に興味津々だった。
まだ少年といっていい当主が、格下の伯爵家と婚約を結んだのだ。
さらに、当主たっての希望で、その令嬢はすでに公爵家で暮らしているという。
これはさぞかし美しい娘にちがいない。絶世の美姫なのだろう。
なんといっても、あの美貌のセシル・ヘレンフォードが見初めた令嬢なのだから!
……という噂が嵐のごとく吹き荒れていることに、当時お子様だったわたしは、なんにも気づいていなかった。
そして、パーティーで、完膚なきまでに叩きのめされた。
わたしを見る失望の目、目、目。
わたしが怯えれば、嘲りと蔑みが待っていた。こんな娘が、といわれた。こんな美しくも可愛らしくもない娘が、よく恥ずかしげもなくヘレンフォード卿の隣に立っていられますこと、と笑われた。
屈辱である。四方八方から馬鹿にされ続けるうちに、わたしは怯えよりも怒りが煮えたぎってきた。
どうしてこんな酷いことをいわれなきゃいけないの。わたしが何をしたっていうの! と、怒鳴りちらしたかった。地団駄を踏んで、自分がどれほど理不尽な目に遭っているかを訴えたかった。
でも、いくら子猿のようなお子様でも、それをしていい場ではないことはわかっていた。
傷ついていることを顔に出せば、余計に笑われるだけだということも。
わたしはお腹の中に怒りをたぎらせたまま、何も聞こえていないふりを貫くしかなかった。
けれど、そうしているうちに、気づいたのだ。
セシル様が、精一杯、私を守ろうとしてくださっていることに。
……あの頃のセシル様は、本当に、危うい立場だった。
まだ少年の当主を侮る大人たちは大勢いた。セシル様を利用し、いいように操ろうとする親類たちも大勢いた。この広い公爵家の中で、セシル様が信頼できる大人は、たった二人しかいなかった。
先代から仕えている執事のウェリントンと、セシル様の護衛だった……、今は亡き最高の騎士グレンジャーだ。彼ら二人だけが、セシル様が心許せる相手だった。
セシル様はやがて、わたしにも気を許してくれるようになったけれど、婚約者になったばかりのわたしなんて、本当にただの子猿だったのだ。セシル様が頼れる相手ではなかった。むしろセシル様の足を引っ張る存在だっただろう。
それでも、セシル様はわたしを守ろうとしてくださった。
わたしはそれが嬉しかった。セシル様のお気持ちが嬉しかった。
子猿のわたしが、セシル様のおかれている状況を正確に理解できていたわけではない。
それでも、セシル様が、ご自身も大変な中で、わたしの盾になろうとしてくださっていることはわかっていた。
そして、パーティーが終わった後で、セシル様はわたしに深く頭を下げたのだ。
─── 私のせいで、君に嫌な思いをさせてしまった。本当にすまない。
セシル様は、辛そうだった。表情にも、声にも、痛みがにじみ出ていた。
心からわたしに申し訳ないと思っているのがわかった。
わたしが傷ついたことで、セシル様もまた傷ついていた。
わたしは、奮起した。
パーティーは戦場だったのだ。社交界とはドレスと化粧と話術で斬りあう所だったのだ。わたしにはそれがわかっていなかった。何も知らないお子様なまま、剣も盾も持たずにのうのうと足を踏み入れたから、めった切りにされた。それはもう仕方ない。苦い失敗だ。受け入れよう。
でも、同じ間違いはしない。
セシル様にあんな辛そうなお顔は、二度とさせないのだ。
わたしは真っ先にお母様に頼った。
お母様は、パーティーの前から、あれこれと心配して、忠告してくれていたのだ。
子猿の耳には入っていなかったけれど、今日からわたしは人間になります。だからどうか、セシル様と並んでも見劣りしない美少女にしてください!
そう泣きついたわたしに、お母様は深く頷いていった。
「ヘレンフォード卿と並んでも見劣りしないというのは不可能よ」
「不可能」
「だってあちらは絶世の美形だもの。でもね、わたくしの可愛いライラ。あなただって、一般的な美少女になら十分になれるわ」
「信じてましたわ、お母様!!」
「お前の伯母様の口癖よ。美人は造れる。わたくしもそう思うのよ」
「えっ……? つくる……?」
そして、伯爵家に、美の伝道師、もとい伯母様が登場したのだった。