第19話
「ねえ...」
妹が軽く言葉を出した。日の傾きが変わってきている。もうそろそろ夕方だなあと思いつつ、私は残り少なくなったコーヒーを一口頂き答えた。
「なに?」
「晩御飯何が良い?」
今日のごはん当番は妹である。少し考え、私は言った。
「たしか、今日は鯖が安かったんじゃないかな?」
「ん、じゃあそれで考えてみるわ」
「ありがと。話ももう少しで終わるんだけどね。
「うん、せっかくだし最後まで聞くわ」
「えっと、お隣さんの退院まであと2~3日って時に、うん、悪い意味で迷惑かけちゃった事があったのだよ...」
「いつも...」
目を細めた妹に少し先んじて言葉をかぶせる。
「いやあ、そういう面白いんじゃなくてね。んー、その、私もちょっと真面目に落ち込んでしまった時があったんだよ。そんでね、肩とかすりむいちゃってさ...」
「え?どういう事?」
「その日はひっどい状態でさ、精神的に不安定で屋上へ行きたかったんだよ」
「ふむふむ...」
**―――――
点滅している携帯が気持ち悪く見えたあの日、めずらしく落ち込んでいる私。精神的な不調が大きかったのだと思う。頬に現れた熱は微熱程度だと思うが、呼吸をすると血の匂いが混じり、頭の奥で何かぶつかる音がしていた。その音に伴い痛みが走る。
「むぅ...」
それでも目を閉じることが出来ず、朝から横になってあまり動けず、食事も拒否していた。ふっちょさんが心配そうに声をかけてくれたのだが、生返事しか返えせていないはずだ。
「...嫌だな」
自分の呼吸音を聞きながら時間が過ぎて、夕焼けが部屋を染める頃となっていた。赤々と映る世界が、その日は特に毒々しい感じがして、私は軽く首をひねった後に、ふらりと起き上がった。今なら、見えるかもしれない。
「行かなきゃ...」
私は行かなくてはならないという焦燥感が支配していた。屋上を目指さなくてはと思っている。真っ青な顔でふらふら歩くと誰かが邪魔をすると、廊下はすたこら歩いたはずだ。
「ちょっと、どこ行くん?」
通りがかりですれ違った、心配そうなあいつの声には振り向かない。
「ちょっとねー」
平常を装った言葉で手をひらひら。私は単身エレベーターに向かい...追いかけてきたあいつに気付かないでしばし待つ。いつもどおり扉が開き、浮遊感を感じながら登っていく。
「どうしたん?」
乗り込んでいたあいつを億劫に思いながら、不愛想に返した。
「夕日をね、見に行くの」
「なんで?」
「なんでも」
小さなやり取りの後に、屋上へ着いた。一直線に高台へ上る。雲のない夕焼け空がどこまでも広がっていた。
「......んー、まいったなぁ」
しばらく眺めてぽつんとつぶやいた。
「なあ、だいじょぶなん?」
あいつが声をかけてくる。少しびっくりしてそちらを見た。エレベーターで言葉を交わしたはずなのに、なんでついて来たんだろうかななどと思うあたり、私もおかしかったんじゃないかな?首を傾げて見せた後、沈む夕日へ視線を向けた。言葉は出さない。
「今日風強いで。なあってば」
うすぼんやりとしていた私は遠くを見つめ、太陽の沈む姿が綺麗で、でも、求めている物と違って、もう少し高い所から見たいと思った。そして高台から、あまり目立たない登りはしごへ歩いて行き、ためらわずに掴んだ。
「んー、見えると、思ったんだけどな」
「えっ!?」
一段登るだけで苦労して、風が吹いて首を冷やすたびに頭が痛み、喉がずきずきする。それでもなぜかてっぺん当りまで行って、はしごを掴んだまま後ろを向いた。それほど高くまで来たわけではないのだが、気分的にはかなり高くへ登った気になっている。あ、少し目をすぼめて先を見る、ああ、これなら行けるかな?
「ふらふらしとるやん。あぶないって! 気いつけんと!」
足のすぐ下から声が聞こえた。あいつの声は聴かないふり。そして、見えた!
「お、おおお!? あっれ、みてみて!!」
私は見た。ふわふわする頭と体の奥から湧き上がるような熱を感じながら、それを見たのだ。
「え、なんや...ああ!?」
落ちていく夕日が、大きなビルのてっぺんへと触れて、ろうそくに火をつけた様な姿となっている。ビルの形のてっぺんに塔の様なものを持っていて、そこに重なる少しくすんだ茜の塊が、一本のろうそくに火をつけるように輝いている。
「ろうそくいわか?」
「あはっ、ははっ...ろうそくビルだね」
「そうやなぁ」
「綺麗だね...うん、きれいだ」
「ああ、なんか変やと思ったけどこれを見たかったんやな」
「うん、ちょっと小耳にはさんでね。前のお話が気になってたんだよ」
「そか...そっか」
ろうそくビルの時間は、思ったより短かった。夕日の落ちる速度も...。だから私達は言葉少なで、夕日の沈む瞬間まで見届けた。
「あ~あ、しずんじゃった...さよならだね」
「なあ、もう降りいや」
「...うん、ありがとね」
少し気が持ち直し、微笑を浮かべて頷き、降りようとした私は、掴んでいたはしごから手が離れてしまった。
「あっ!」
自分が落ちていくのがゆっくりと感じた。このまま、どうなるかなぁと思った瞬間、手を掴まえられた。
「くそっ!ああっ!?」
しかし、一瞬だけ...。
掴まれた手がするりと抜けて、あいつがもう一度つかもうとパジャマの端を捕まえたのだが、私は下まで落ちて行った。膝から落ちて、横滑り勢い止まらず肩を打ちつけ、痛みが走って、熱が体の奥から噴き出るような感覚。痛みが大きく走って、目の裏に火花が飛んで、私はそのまま気を失うのかと思ったのだが、痛みがそうさせてくれなかった。
「ごめんなぁ! もっと、強くつかめれば」
「違うよ。私が勝手に落ちたんだよ」
「でも、でも!」
意識が暗くなった一瞬の後に気付いたのは、涙目で私をのぞき込んでいるあいつの顔だった。頭を打たなかったのはあいつのおかげだったと思う。騒ぎを聞きつけた大人達が近寄って来る。それらには気にせず、あいつがどうしていいのか解らない様子であった。
「私、泣くひと好きじゃない」
その泣き顔が申し訳なくて、その言葉を発してしまったのは今でも後悔している。まあ私自身、何故だか知らないが、人前で泣くひとが苦手なのだ。
「はあ!?」
本当にわからないといった表情になったあいつ。私はなんで傷つけてしまうんだろう?どうもおかしいな。
「違う。ごめん...」
続けて私はお礼を言った。
「助けてくれてありがと。なんか、私、変みたい」
ぐしぐしと目をこすった後に、あいつは無理して表情を作る。もう涙は見せないつもりらしい。
「...ほんまや、あせったんやで!」
「ごめんなさい」
「ええって」
それ程長い時間を過ごしたわけではないのだが、私たちの間ではこれで済んだ。助け起こしてくれたのだが、膝と肩に結構な擦り傷が出来ていた。その後、病室でふっちょさん達に見つかって、とってもしみる消毒とガーゼをされた。説教かと思ったが、どうも顔を覗き込んで暫く見つめられた後、ため息一つで処置してくれた。何というかばつが悪い。
「もう、調子が悪い時は大人しくしてよ。お願いだから...」
「ごめんなさい...」
「今回のはね、怪我したくてしたんじゃないんだろうけど、あなたが自分を大事にしないと、周りの人も困るのよ。本当、本当に」
これが、ふっちょさんに怒られた中で一番効いたと思っている。
「ごめんなさい......」
**―――――
「ねえ、何がそうさせたの?」
珍しく神妙な妹に、私も首をひねる。
「夕日が見たかったってのが動機だよ...でも、なんであんな不調なのにしたんだろうね?」
答えになっていない私の言葉に、妹は少し眉を顰めた。
「んー? 何かあった時期?」
「さあ?」
「...むう?」
「んー、ちょっと飲みすぎたかも。トイレに行ってくるね」
「え? うん、いってらっしゃい」
私は立ち上がって、お手洗いへと立つ。
本当、何であんなことしたのかな?色々な事が重なって、話すにはちょっと時間がないし、ぼんやりした記憶であったりで、言葉にしにくいのである。あの時、あの時...そうだなぁ。そうだ。
「ただいま」
「おかえり、大丈夫?」
「うん」
「あの後ふっちょさんに怒られの?」
「うーん...自分を大切にしないと、まわりが困るぞって心の底から言われたなあ」
「そか...」
その雰囲気が何となく、伝わったのか妹も茶化さない。
「でね、夕日を見たかった理由についてだけど」
「うんうん」
「そんな感じに見えるよーって言われたはずなんだけど、ちょと思い出せないな」
「えー、っといつごろだっけ?」
「ひ・み・つ」
「あーもう!」
「というかあの時はね、病気だけじゃなくてね。色々重なってたんだよ。苦しい時って意味の解らない行動するみたいだね。私、今思い返しても変だったもん」
「そういうもんかな?」
「そういうもんだったよ。私は」
目の前のカップを眺めてから、私は話を続ける。
「それからの話が重要なんだよ」
「うーん、そうなの?」
腑に落ちない妹に構わず、私は記憶をさらに引き出した。
つづく




