第17話
先ほどのお叱りを受けて、ベッドで体育座りしている私。時間は夕方。夕日が病室に差し込んでいる。
「......」
本気で叱られると私でも堪えるし、体調の方も心配された事が的中していた。どうも微熱がある時の様な、独特のもやもやしたものが胸の辺りから登ってきている。
その気持ち悪さは、自己嫌悪をさらに増加させているのだ。
「なあ...」
ふと、ベッドに乗り込んできたあいつが、珍しく声のトーンを落として話しかけてきた。
「なあに...?」
私は顔を上げない。やはりあの怒られっぷりにはいろんな感情がない交ぜになっている。
「さっきの、ちょっと言いすぎやと思うんや」
「う...ん?」
言っている事が良く解らないので、私は体育座りのままで疑問符を頭に浮かべる。もちろんあいつは気付かない。
「本気で切れたわ。だからな...」
その時に言ったあいつがやろうとした仕返しは、何故か記憶から抜けてるんだよなぁ。たぶん、頭に血が上ってしまって、強く思ったことが原因じゃないかな?
ただ、強く思ったのは、その行動をやってしまえば取り返しのつかないという一点だった。
それを私は知っていたが、あいつは知らない。血の気が引くというのを実感する。これは、やらせてはいけない。止めなきゃいけない。その焦燥が私を支配していたという、記憶のみが残っているのだ。
「それ、まずい。洒落になっていない。大変な事になるよ」
顔を上げて、あいつを見つめる。これは憤りに近いものを込めていた。
「駄目だよ」
珍しく真剣な瞳で、私は言う。
「あ?」
あいつも真剣な目で私を睨む。
「あんな、なんで、怒っとると思てるんや?」
静かな怒りだが、私の方がそれは強い。
「でも駄目。迷惑じゃすまない。というかそれ、困るのふっちょさんだけじゃないよ?別の人も...」
説得の途中であいつが大声を出す。
「...知らん!」
あいつがベッドから降りて、行こうとしたのを勢い込んで肩をひく。
「駄目だって!」
「やるんや!」
振りほどこうとしたのだが、私は力を入れている。
「駄目!!」
私の力ではかなわないのは解っている。先ほどの激突を思い出して、負けられないと私が肩を両手で強く掴んだ。あいつもその力にびっくりしたのか、強く抵抗する。思っていたよりも、いや、話にならないくらいあいつは力がある。ベッドから勢い込んで降りようとして、私は体全体がひっぱられる形になって、しかし、意地になってその手は離さない。
「うあっ!?」
それは、あまりにも強く引っ張られたからか、それが起きた。
「わわっ!?」
私の上体が泳ぎ、あいつともつれる形で倒れた。
一瞬だけ私は浮遊感を感じて、掴んだ肩の感触だけを頼りに引き寄せようとするのだが、力の差は歴然である。ただし、あいつも私の全体重を支えきれずに、二人ともが二回・三回転がった後、私は目の奥で火花が散った。左の頭を何かにぶつけたかと思いながらも目を見開き、倒れたあいつの上に乗りかかる。
「お、ま...ここまでするんか?」
あいつが下から声を出した。
「駄目だって、言ってるよ」
私は下で仰向けになったあいつの腹に馬乗りとなり、両手で肩を押し付け見つめ合った。
「なんでや?」
この問いに、私は、自分が更に幼い時の、仕返しが引き起こした記憶が脳裏を掠める。
今の年齢になっても中々向き合う事の出来ない記憶。当時の苦さと痛みと悲しさと、いろんな人が困った顔が、一瞬蘇って消えた。あいつの目をそらさずに、腹の底から言葉を出す。
「取り返しのつかない事、あるの。私、前に、似たようなことで、ずっと忘れないことが、ある」
「...」
こめかみより上から、何か暖かいものが頬を伝って落ちる。
「あっ!? 大丈夫なん!?」
「やらないって、約束して」
静かに強く言う。あいつは目を吊り上げて口を引き締めた。
「...」
夕日が部屋に差し込む中で、あいつに馬乗りになって肩を押さえ、二人黙りこくって見つめあっている。頬には部屋に差し込む夕日よりも赤いものひとすじ。馬乗りになってるパジャマさん。下から見上げるジャージさん。誰かに見られたらあまり良い絵ではないよなぁと今は思える。
「約束」
二人の呼吸を聞いていて、ようやく、こめかみの少し上を切った痛みを感じてきた。あいつの顔にいくつか落ちるが、お互い目をそらさない。
「......」
「......」
暫く見つめ合って、さらにあいつの顔と床をも少し汚して、ちょっとだけふらっとした感じが出た時に、あいつが視線を外して息を吐く。
「...」
たぶん、あいつは諦めたんだと思う。私の顔は見ないで言った。
「誰のために...こんな...」
私もつられて息を吐く。おそらく私が怒られたから、あいつが怒ってくれているのは解るよ。だから私は、のぞき込むようにして言った。
「私が、やらないでって言っているんだよ」
その言葉は少し低く出ている。
「...悔しくないんか?」
「あんなの良いんだよ。もう慣れた」
本当は、少し悔しい。たしかに仕返ししたい気持ちもある。でも、それであいつが取り返しのつかない事になるのは嫌だし。なにより私はふっちょさんも大切なのだ。大切な二人が、酷い事にはなってほしくない。
「ええんか?」
唇を尖らせたあいつ。私の方は傷が熱を持ち始め、あれ、結構痛くない?これ、ちょっとまずくない?などと内心焦りだした。しかし表面を取り繕うのは慣れているので、平然とした顔で言う。
「だって、あれもふっちょさんの仕事だもん」
口をとがらせる私。怒られていい気分はしていない態度は隠せてないが。
「...大人やなぁ」
「ま、ね」
「さっきまで回転してげらげらわらっとったのにな」
「楽しかったね。また隙見てやろう」
あいつは少し、眉をひそめた。
「いや、もうええわ。ってかパジャマはだけてるやん。あ、シャツもきてないんか?」
「え、何を見てるの?そっちもジャージじゃん」
「ええジャージなんよ、これでも」
「ふーん...」
ちょっとだけ面白くなった時に、あいつの顔へもう一つ、赤いものが落ちる。
「ちょ、痛くないんか!?」
その言葉で、もう大丈夫かなと思って、肩の手を外す。
「うん。私、ちょっと怪我したって言ってくる」
「いや、また怒られるから休んどき!ふっちょさん呼んでくるわ。どいて」
「約束。あんなことしないって」
少し自嘲げに、あいつは笑った。
「ははっ、やらへんって」
「良かった...」
ようやく私も安心して笑った。
「笑顔、ええなぁ」
「はあ? ってか、んー!? あれ、これ、頭痛い? というか、止まってくれない!?」
言葉にすると、痛みが増した。流れるものも止まらない。少し慌てたように私は言う。
「ちょ、やっぱ痛い。めでぃっく、メディーック! 急いでー!!」
「ああもう急ぐから、どけって」
「うーもうダメ...」
あいつが私を押すのに合わせて後ろ向きに倒れる。勢いあまって自分から後ろ頭を打ちつけてしまい、また目の奥で星が散ったが、まあ、何とかごまかそうとした。
「いま、頭打たんかったか?」
「もう打ってる...」
ごまかせなかった。ちょっと戸惑いながらあいつは起き上がり、自分の顔をぬぐってから走って行く。ナースコールあるのになと思ったのだが、何となく言うのが憚られた。
「また怒られるのかなぁ...」
あれ?でも、これ止まらないなぁ、大丈夫かな?ティッシュを取って押し当てても、すぐに赤く染まってしまう。あ、まずい、まずいな...。
「ここで病院送りって、シャレになってないなぁ」
仕方なくベッドに腰掛けて、怒られるのをいまから身構えてみた。
「ごめんな、またせた!」
あいつはふっちょさんと先生を連れてやってくる。ふっちょさんは少し悲壮な顔をしていた。
「あー...さっき何で怒られたのよ...大人しくっていったのに...ああ、もう、みせなさい!」
怒りをこらえて言ったふっちょさんが一目見ただけで切り口が深いと解ったらしく、私は手早く処置されてしまった。記憶ではそれで済まなくて、後で先生からの処置があったと思う。
「ちゃうねん。落ち込んでるの慰めようとして、怪我させてもうたんや...」
ふっちょさんの怒気をみて、あいつが私をかばった。小声で、『黙ってなきゃ約束はなしや』そんな感じで脅されていたので、私は仕方なしに従った。ふっちょさんはため息とともに言う。
「...ほんとう、何しようとしたのよ?まあ、あとで詳しく聞くわ」
当然、あいつは後でめっちゃくちゃ怒られてしまった。びやだるさんとはりがねさんも連れてだって、私に平謝りであった事を付け加えておく。でもあいつが離れた時に、仕返しの話はぼやかして事実を伝えた。ふたりで顔を合わせて目を丸くしていたのが印象的だった。
**―――――
「ねね、どうしたの?」
「ん!?」
しばらく無言だったらしい。
「黙り込んだ後の百面相。何か思い出したんでしょ?」
「うーん、そうだね」
少しコーヒーをのぞき込んで、何と伝えるか考えている。
「まあ、なんというか、なんというかだね」
この夕焼け病室での話は、あまり言いたくないのである。
「んー!? きっと、その後何かあったんでしょ!」
妹の問いかけを受けて、私は話さないと決めた。
「そんでね、まあ、びやだるさんとはりがねさんが謝りに来たのさ」
「んー?すっっっごく、間飛ばされた気がするわ」
「まあ、飛ばす飛ばさないは私の心ひとつなのだよ」
「むぅ、納得いかない」
への字口の妹に、私は少しだけ申し訳なくなって一言だけ伝える。
「まあ、うん。病室には夕日が差し込んでいたよ」
「はあ?」
「んでーまあ、そのー、うん、そんな感じ」
「...今度詳しく聞かせてよね」
「...うん」
今はこれ以上は話したくないって事を、妹も心得ているのだろう。
つづく




