第10話
ぬるくなったコーヒーを一口すすった後、妹が言った。
「ねえ、ちょっと気になったけど、お隣さんはどうだったのさ?」
「どうってなにが?」
ふんわりした質問に私は眉を顰めつつ、ケーキの方を小さく崩して一欠けを口へ運ぶ。舌を喜ばせていると、妹は質問を続ける。
「入院しててさあ、大丈夫だったの?」
「そりゃまあ、普通?だったと思うよ。検査入院だからね」
「...でも入院ってさ、人から聞くと嫌な感じみたいなんだけど?」
私が結構辛かった話を伝えたせいもあるのだろうな。妹は入院には良い印象が無い様である。おぬしは像が踏んでも投げ飛ばす人だから、心配ないよっ...と、言葉にすると酷い目に合うので心の中で呟いてから、少し記憶を探る。そして、思い出した。
「弱気にならなかったの? って事かな...」
「まあ、体は大丈夫だった感じ?」
どうなんだろう?お子様だった私はまるで気にしてなかったけど、うーん、妹は気になるんだなぁ。あ、そうだそういえば思い出した。
「うん...そうだ、あやつは...。はりがねさん達が帰る時の事...印象に残ってるな」
「え、なになに?何かあったの?」
「特殊な状況ってのはね、やっぱり寂しくなるんだろうなって事だね」
「良く解んない」
妹が少し唇を尖らせる。
「えっとね、お別れの様子を撃してしまったのだよ」
「ほう?」
私はちょっとだけ笑う。
「私としてはあやつには感心したんだよ」
「感心?何で?」
**―――――
人の恥ってのはあまり他人に伝えるべきでないと思っているのだ。それに、この体験に関しては何というか大切な記憶でもあるのだ。もしいつか再び出会った時には、平謝りで勘弁してもらおうかと思う...。私が知ってるあやつは、結構寂しがりな所があった。
「んーんんー~♪」
その日私は調子が良く、こりもせずに探検遊びをしていたのだ。
「今日はひなたぼっこさんは居るかなぁ?」
ひなたぼっこさん。この病院の中庭にあるガラス張りの温室に、幾本も木が植えられている憩いの広場があり、そこの日当たりのいい場所にはベンチが置かれている。少し前、決まった時間に決まったベンチに座って、本を読んだりうつらうつらしている方を発見し、私は声を掛けた。
「こんにちわー。今日もおねむなんですか?」
私が話しかけると、はっと気づいた様な顔をした後、にこーっと笑ってマシンガンの様にお話しだす。その、結構長くて楽しいお話を聞いていると、途中で気が付き手を打って。
「あらあら、長い事しゃべっちゃったわね。これでも食べる?」
再び柔らかく笑ってから、お菓子をくれたりする人で、初めて会った時に聞いたことがある。
「ここで何してるんですか?」
「ひなたぼっこさんよ」
「ふーん、ひなたぼっこさんなんだ」
「そぉそ、ひなたぼっこさん」
そういって、にこーっと笑ってくれた。そんなやりとりがあってから、私はずっとそう呼んでいる。
「...んーいないなぁ」
ここ2・3日見ていない気がする。仕方なく売店を冷やかしたり、喫茶店の前でうらやましそうな表情を押さえたりして、うろうろ、うろろと探検し、もうすぐ夕方近くになっていた。
「今日の夕日はなに色かいなぁ?」
良く解らない独り言とともに、今日の探索もおしまいがきてしまったと気が付く。
「カラスさんは居ないかーらかーえろ」
あの日以来カラスさんの同窓会は開かれていないなぁと思いつつ、自分の病室へ戻ろうとした時の事である。見知った顔が廊下を歩いている。何となく脇の休憩室へと隠れた。いくつかの荷物を抱えて上機嫌なびやだるさんと、バックを小脇に抱えて手をつないでいるはりがねさん。手を引かれているのはあやつであった。
「おや?」
あやつは口をとがらせてふくれっ面。寂しそうな表情をして、その手を離した。
「あら、ここでええの?」
「ええねん...」
「どしたん?」
エレベーターまで少しの距離がある。夕日が差し込む時間となってしまい、お隣さん家族の影が長々と伸びている。なんで、あやつは手を離してしまったのだろう?
「そんじゃ、またね」
「...また」
小さなやりとりの後に、軽く手を振ってから下を向いている。びやだるさんもはりがねさんも手を振った後は振り返らない。
「あれは...知ってる」
そう。私は知っている。あやつが心の中で振り返ってと言っているのだ。似たような景色が更に幼いころの記憶を刺激する。入院という特殊な状況で、時に起こる感覚。何かの拍子にとても大きな不安が襲って来るのだ。
「......」
私にもある。今よりも小さかった時の記憶。闇色の廊下でナース服の膝下を握り込んでいた時の、古い記憶。見送っている小さな自分に生まれた、何とも言えない感情。あの姿を、私は知っている。あやつは、自分がしていたであろう表情を見せているのだ。
「...」
びやだるさんとはりがねさんが、エレベータに乗った。その扉が閉まって行く。あやつの表情が崩れた。隠れていた筈の私は、たまらなくなって駆け寄り、後ろからその手を握りしめた。
「だいじょうぶ」
「っ!?」
びくんと体を震えさせてこちらを見た後、握られた手をみた。驚いている様だ。
「だいじょうぶ。うん、だいじょうぶ」
その顔は見ずに長くなった影を見つめて、私はつぶやいた。
「......あ、あんた...ん...あり、がとう」
その声がとても上ずっていて、しかし涙を流さない様にこらえている姿が、子供の時ながら私はとても好ましく思った。
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶ」
この手のぬくもりは、昔の私が欲しかったものなのだが、今はあやつの手の温もりである。
「......うん、だいじょうぶ、やね」
私たちは暫く誰もいない廊下で自分たちの影を見ながら、暫くその場で手を繋いでいた。
**―――――
「そっか...」
妹が少し息を吐いた。
「あたしは解らないけど...辛いかったんだね」
私が伝えた何とも言えない感情を、少しは思い当たる事もあるのだろう。
「いじらしく泣かない様に頑張ってたんだよ。すごいなって思ったのが印象に残ってる」
「でもさ、何で手を握ったの?」
「何も考えてないなあ。とっさに手を握ってた。まあ、私が背中さすってもらった時のお返しって事でね」
「ふーん? びっくりされなかった?」
少し眉を上げて、疑問を言葉にする妹に、私は首を振って否定を示す。
「あの頃、結構仲が良かったからね。考える前に行動に出て、許されてた。お互いにだよ」
ただ、行動の動機はちょっと違う。私はさらに昔の自分を重ねて、自分がしてほしかった事をしようと、思わず動いてしまったのだ。暫く...いや、ずっと言えないと思うが。
「でもさ、少しだけお返しできたんじゃない?」
妹が笑う。私は少し首をかしげてから、何事か考えた後、言った。
「んー、そうかもね」
「なによ、含みのある言い方だね」
記憶にはもうちょっと続きがあるのだ。
**―――――
「あんな...かもしれん」
ぽつりと言った言葉は、私には聞こえず聞き返す。
「え、何?」
「なんで、やってほしい事をしてくれるんって、エスパーかもしれんって言ったんよ。ありがと。その、ありがとう!」
「いいよ...私も、同じような事、あったんだから」
「そう? 見えへんなあ」
手はつないだままで言う。
「よく言われるね。何考えてるか解んないって」
「どうせ、何も考えてないんやろ?」
「先に行うんじゃあ何も言えない」
「ふふっ、まあええやん」
夕日の時間は思ったより短い。暗くなっているのを感じて、私は言った。
「戻ろうか」
「せやな」
「カラスさんの大群、来ないね」
「...あんな」
「うん、なになに?」
「......カラス、なんでさんづけなん?」
「なんでだろうね?」
「自分の事やん」
「私は、行動した後に意味を考える人だよ?」
「つまり?」
「なんとなくって事だよ」
「.........そか、わかったわ」
**―――――
「どうしたの?」
「んーちょっと記憶が曖昧だからね。思い出してるの」
これは甘いものが必要だなぁ。私はチョコレートケーキをもう一つ崩し、小さく大事に口へと運ぶ。
「ちゃんと思い出してよね」
「大丈夫。思い出せなくてもねつ造するから」
「ねつ造しないでってば」
「じゃあ創造する」
「それをねつ造って言うんでしょうが」
「あーいえばこーいう」
「金属バットで打ち返すわよ。その口ごとね」
おやおや、それはちょっといただけないなぁ。
「やだねぇ暴力的」
「あたしの攻撃対象はこの世に一人だけだよ」
「あっはっは、口封じされたら続きは言えないよ」
「む、じゃあ仕方ない。黙らせるのは最後にしたげる」
何処かで聞いたことのある様な悪役セリフを放って、妹もケーキを小さく切り取り口へ運んだ。
つづく




