第2話 上
剛史は目を開けた。開けることができた。
それだけで、どうしようもなく嬉しかった。再び目を開くことなどできないと思っていたからだ。
目覚めると、なぜだか知らないが剛史は橙色に塗られた金属の座席のようなものの上に突っ伏していた。
そこからゆっくりと顔を持ち上げる。
狂ったウサギの着ぐるみに追われ走っていたあの場所とは、明らかに違っていた。
小さな個室のようだ、と剛史は思った。すぐ右手には大きな窓がある。そこから下を覗くと大勢の人間の姿が小さく見えた。自分は今、上空にいるのだ。
一瞬混乱する剛史だったが、すぐに理解した。
ここは観覧車のゴンドラの中だ。
「ようやく起きたか、剛史」
剛史の真っ正面には、苦い顔をした葛本が腕を組んで座っていた。
「先輩、無事だったんすね……」
剛史は安堵のため息を吐き出す。
きっと、あの時自分は完全に意識を失ったわけではなく、最後の力を振り絞って、おそらくは近くにあった観覧車のゴンドラに逃げ込んだのだ。あるいは葛本が倒れた自分を担いでここまで連れてきてくれたのか。
あの時は周りを見る余裕などなかったから、観覧車が側にあるのに気が付かなかったに違いない。
とにかく助かったのだ。ここは、人の気配のない遊園地ではない。その証拠に、賑やかな遊園地の喧騒が大きなガラス窓越しにかすかに聞こえて来る。
あの狂ったウサギの着ぐるみはいない……はずだ。
「なんだったんすかね、あの着ぐるみ……」
「……そうだな」
葛本は心ここに在らず、といった風に惚けた表情で答えた。目線が合わない。葛本の視線は窓の外に注がれているようだった。
「俺ら……助かったんすよね?」
そんな葛本の様子に胸騒ぎを覚え、剛史は確認するように尋ねた。
しかし、葛本から返答が来ることはなかった。相変わらず外の景色に目を奪われている。
仕方がなく、剛史はゴンドラの揺れに身を任せながら、先ほどのことを思い出していた。
言葉のおぼつかないウサギの着ぐるみに追われ、あの時は本気で死を覚悟した。だが、今俺は観覧車に乗って優雅に空を眺めている。
──もしかしたらあれは夢だったのかもしれない。いいや、きっとそうなのだろう。覚えてはいないが、普通に観覧車に乗り込んだものの、酒を飲んだせいで眠り込んでしまったのだ。そう考えた方がずっと現実的だ。
剛史は強張ったままだった身体の緊張をようやくといた。無理矢理に思考を楽観的な方へと進め、どうにか人心地つくことができた。
「裏野ドリームランドにはいくつか、妙な噂があるらしいんだ。剛史、お前知ってるか?」
そこへ、葛本が唐突に口を開いた。
「知らないっすけど……」
剛史は眉をひそめながら答える。まさか、その噂の中に『斧を持って追いかけて来るウサギの着ぐるみ』がある、とでも言いだすんじゃないだろうな。
葛本は構わず続けた。
「噂その一。裏野ドリームランドに入園したはずの子供が、帰ってこないことがある。
噂その二。昔ジェットコースターで事故があったらしい。しかしその事を色んな人に聞いてみても、返って来る答えがばらばらである。
噂その三。アクアツアーに謎の生物が紛れ込んでいる。
噂その四。ミラーハウスに入った者の中には、出てきた後まるで別人のように変わってしまう人がいる。
……そんな感じのが計七つあるそうだ」
「はあ」
なぜ葛本が突然そんな事を語り始めたのか、剛史には理解出来ない。噂の内容よりも、葛本の感情のない瞳の方がよほど怖かった。
「……ただの噂だと思うだろ? それが違うんだ。
全て実在することなんだと」
あまりにもあっけらかんと言うので、剛史は始め「へーそうなんすか」と気の無い相づちを打ってしまう。
「……って、何言い出すんすか先輩!
どうせどっかのガキが面白がって広めた噂っすよ⁉︎」
慌ててそれを打ち消した。どれもどこかで聞いたことのあるような、他愛のない話だ。作り話に決まっている。
「よく聞け剛史。そもそもお前、この遊園地ができた経緯を知らないだろ?」
「知るわけないじゃないすか、そんなの」
何しろその存在を昨日知ったくらいである。
葛本は剛史の発言を制するように、手を掲げた。俺の話を聞け、と言うことらしい。しぶしぶ剛史はそれに従う。
「裏野ドリームランドの名前の由来になったのは、ある一人の少年らしい。その子の苗字が『裏野』だったんだ。
裏野少年は、変わった事を考えるのが大好きな子供だった」
葛本の話がどのような方向に進むのか分からないまま、剛史はその話に耳を傾けていた。どうせ、観覧車が地上へ到着するまで時間が掛かりそうだ。ならば暇つぶしにはちょうど良いだろう。
「裏野少年はある日学校で、友達に自分が考えた面白い遊園地の話を聞かせた。ほら、よくあるだろ。『ぼくがかんがえたさいきょうの〇〇』みたいなの。
──入園した子供がたびたびいなくなる遊園地。ジェットコースターで起きた、人によって証言がまちまちの謎の事故の存在。アクアツアーに生息する、不気味な生物。
ミラーハウスに入ると人格が変わってしまい、大きな城の地下には拷問部屋がある。閉園後にメリーゴーランドは回り、誰もいないはずの観覧車から『出して』と、人の悲鳴のようなものがする。
裏野少年が考えたのは、そんな遊園地だった。ホラーに偏ってんのは、その時期学校で流行っていたかららしい」
葛本は淡々と言い切り、そこで再び窓の外へ視線をやった。つられて、剛史も窓の外を見る。抜けるような青い空が見える。視界の下部には都会の雑多な街並みが小さく確認できる。
早くあそこへ帰りたい、と剛史は心から思った。そんな願いとは裏腹に、ゴンドラはぐんぐんと上昇を続け、地上との距離を広げていく。
「しかしその翌日に、裏野少年は亡くなってしまった。実の父親に殺されたんだ。
──裏野少年の母親は早くに死んでいて、父親しかいなかったらしい。だがその父親ってのが酷いやつでな。酒を飲めば暴れて、裏野少年は日常的に虐待を受けていたようだ。タバコの火を押し付けられたこともあったみたいだ。
裏野少年の死を知ったクラスメイトは、当然悲しんだ。そりゃあそうだな。何しろ急なことだったんだから。
裏野少年から遊園地の話を聞いていた一人が、彼の死を悼んで大人になってからとある遊園地を作った。
それが『裏野ドリームランド』だ」
若くして亡くなった友人の為に作られた遊園地。
その話が真実ならば美談ではあるが、どうも出来すぎた話のように思える。
剛史は訝しながら言った。
「その話、本当なんすか?」
「雑誌の記事に書いてあった。結構有名なやつだから、信用はできると思うぞ。
それに、まだこの話には続きはあるんだ。
クラスメイトである裏野ドリームランドのオーナーは、裏野少年が語った話の内容を実現させようとした。いつの日か亡くなった友人が遊びに来たときに驚かせてやろう、と思ったらしい。
ちなみに裏野ドリームランドはが子供向けのアトラクションが多いのも、全て裏野少年の為だとオーナーがインタビューで言っていたな。
まず、『入園したはずの子供が帰ってこない』という話。これを実現させる為に、月に一回のペースで来場者の中から子供のいる一組を選び、その家族を無料で併設されたホテルに招待した。こうすればもともと帰宅するはずだった子供がその日家に帰らない、という状況を作り出せるからな。
ジェットコースターのアトラクションには仕掛けを作り、席に取り付けられたスピーカーから怪談話を流すことにした。その話ってのは"昔、このジェットコースターで起きた悲惨な事故"のことなんだが、その内容が座席によって異なるようになっているらしい。
これで『人によって内容の変わる謎の事故』の噂の完成、ってわけだ。
怪談も楽しめるジェットコースターってことで、なかなか評判はいいみたいだ」
「なんか詳しいっすね、先輩……」
剛史は感心して呟いたが、葛本は特に反応を見せなかった。
「アクアツアーにはスタッフが河童に扮して、時々泳いでるそうだ。河童当番もあるなんて書いてあったな。
……まあそんな感じで大体の話は人為的に再現されてるらしいんだ。たった一つを除いて」
なるほど。葛本の言葉、『噂が全て実在すること』というのはそういう意味だったのか。剛史は納得した。
元々あったのは噂の方で、それを無理矢理実現させたのだ。
「で、なんなんすか、その一つって……あ、ミラーハウスか。
さすがに人格が変わるなんて無理っすよね」
「いや、ミラーハウスはちゃんとあっただろ。あれは鏡がたくさんある中ひとつだけスクリーンがあって、そこに体を映すとCGで血の気の引いた真っ青な顔になってるんだそうだ。
『親の言うことを聞かないとこうなっちまうぞ』って脅すようなナレーション付きでな。で、出てきた素直な子供たちは"あんな風になりたくない!"ってんで、人が変わったように良い子になるんだと。まあ、改心するのはほんの少しの間だけだろうがな。
こんなのは子供騙しで、親が同伴してると効果が半減するから、ってことで年齢制限を設けてるらしい」
ミラーハウスの年齢制限にはそんな理由があったのか。しかしそんな仕掛けに怯えるのはせいぜい小学校低学年までだろう。そうとは知らずに入ってしまった、中学生や高校生の苦笑いが目に浮かぶようだった。
ならば、実現されなかったアトラクションとは一体なんだろうか。剛史は首を傾げた。
他のものはさほど苦労せずに再現できそうだが。
これ以上焦らすつもりはなかったのか、葛本はあっさりと答えを言った。
「正解はな、観覧車だ」
そう告げた時、葛本は目を閉じていた。まるで何か見たくないものが目の前にあるかのようだった。
「……ああ。観覧車に人を閉じ込めたりしたら、さすがに苦情が来ますもんね」
「違う。そもそも──」
葛本はほとんど口を動かさずに、言葉を発する。
生気を感じられない声音だった。
「そもそも、この『裏野ドリームランド』に、観覧車は存在しないんだよ。
理由は、裏野少年が高所恐怖症で観覧車が大嫌いだったから」
だからこそ裏野少年は、観覧車に人が閉じ込められるなんて話を考えたのかもしれないがな──という葛本の言葉は、もはや剛史の耳には入らなかった。
「そんな、冗談っすよね⁉︎ 観覧車なら、俺が今……」
「実はな、剛史。俺はお前が目覚める十分くらい前から起きてたんだ。そして今、お前が目覚めてから十分は経っている。
つまり二十分、俺は意識を持って観覧車に乗っているが、その間ずっとゴンドラは上り続けている。
普通だったら、そろそろ地上に着いている頃だよな」
剛史は思わず窓の外を見た。相変わらず雲ひとつない空が広がっている。青い空は先ほどと全く変化がないようだった。しかし、高層ビルの類はもう確認することができない。
時折ゴンドラが激しく揺れるので、動いていることは間違いない。ただし、弧を描くように回り始める気配は一向になかった。
ただただ天へ向かって上昇している。ちょうどエレベーターのように。
ハッとして、剛史は頭上を見た。観覧車にはゴンドラが円になるように設置されているのだから、一つ上のゴンドラが確認できる筈だった。
しかし、そこには青白い空が続いているだけである。
「……なあ。俺たちは一体、どこへ向かってるんだろうな」
葛本の問い掛けに、剛史は答えることができなかった。




