第1話 下
主人公たちがあまり褒められた行動をしませんが、それでも良ろしければ。
幼い嬌声ばかりが耳朶を打つ。
ガキしかいないじゃないか。
剛史は露骨に顔をしかめた。期待外れもいいところだ。
「先輩、冗談キツイっすよー……女なんてどこにもいませんって」
「何言ってんだ。若い女ならそこら中にいるだろ。ほとんど親同伴だけど」
恨めしげな剛史の視線にも動じず、かたわらの先輩、葛本はそう嘯いた。
確かに、女ならいる。しかし、その多くはどう見積もっても十歳以下か、その母親と思しき年齢の女性くらいしかいない。なぜ中間がいないのだ。
剛史は再度未練がましい声を出した。
「先輩言ったじゃないっすか。ギャルに人気で、尻軽女がわんさかいる遊園地だって。じゃなけりゃ、『裏野ドリームランド』なんて名前も知らないとこ、わざわざ来ませんよ」
「俺は若い女って言っただけだぜ? ギャルなんて言った覚えはない。ガキだから菓子や安物のおもちゃで釣れるだろうし、見方によっては尻軽だ。実際にやったら捕まるだろうけどな」
葛本の鮮やかな反論に、剛史はもう何かを言う気も失せていた。この先輩にはどうしたって敵わないことは、これまでの付き合いの中で分かっていたことだ。
剛史の元へ葛本から「裏野ドリームランドに行かないか」と連絡が来たのは、つい昨日のことだった。しばらく音信不通となっていた、高校時代の先輩からのメッセージに剛史が食い付いたのは、「最近若い女に人気の遊園地らしい」という一文があったからだった。そうでなければ男二人でわざわざ遊園地などへ行こうとは思わなかっただろう。
「まあまあ。俺もこんな感じとは知らずに、安売りしてたチケット買っちまってさ。由香里がガキしか来ないような場所でデートしたくない、ってゴネたもんだから困ってたんだ。そこでお前のことを思い出したわけだ。大学中退して暇を持て余しているであろう、剛史。お前をな」
葛本は尚も飄々とした口調で、全く悪ぶる様子がない。
由香里とは、葛本が絶賛交際中の女性の名である。
ほぼ金に脱色したロングヘアがよく似合う美人だ。
二人は長いこと恋人関係が続いているので、剛史も何度か会ったことがある。
対して剛史は、つい先日恋人と別れたばかりの寂しい独り身。だからこそ気持ちを入れ替えて、今日新たなガールフレンド候補を物色すべく、ついでの久々の遊園地を楽しもうと、この『裏野ドリームランド』の門をくぐったという訳なのだが……。
「それにしてもここはひどいっすよ! まともなアトラクション無いじゃないすか」
剛史が今まで行った中で、間違いなくワースト1の冠を授けるにふさわしい遊園地──それがここ、『裏野ドリームランド』であった。
ゲートからすぐ右手にある、軽やかなメロディを垂れ流しながら、非常にゆったりと回転するメリーゴーランド。ディフォルメされた馬のキャラクターが、小さな子供を背に乗せてウインクしている。
しかし、その馬が曲者だった。
どう見積もっても剛史の身長の半分ほどしかないのだ。もしメリーゴーランドに乗ろうと思ったら、必然的にカボチャの馬車を模したような四人掛けの乗り物しか選択肢はないだろう。
奥手に見えるミラーハウスはさらに酷い。年齢制限があるのだ。十八歳以上は入室できないのだという。
これには驚いた。今年で二十二になる剛史では足を踏み入れることすらできない。
他のアトラクションも似たり寄ったりで、楽しめそうなものはなかった。
頼みの綱であったジェットコースターも、絶叫系というにはあまりにも緩やかなカーブを曲がり、たった今剛史の頭上を通っていったところである。楽しげな子供たちの悲鳴と共に。
「ちっくしょう……。こんなことなら来なけりゃ良かった。チケット代返して下さいよ‼︎」
「おいおい、勘弁してくれよ。お前には半額で売ってやったんだぞ? 俺は既に赤字なんだよ。
──まあ落ち着けって。タバコでも吸うか?」
そう言って葛本は、ジーンズの尻ポケットからタバコ箱を取り出すと、その中から一本抜き取った。
黙ってそれを受け取り、剛史は口に咥え火を付ける。
葛本が愛煙するのは海外製のナントカとかいう銘柄らしく、普段剛史が吸うものよりも数段辛かった。思わずむせそうになる。
あまり美味いとは思えなかったが、もらった手前すぐに吐き出すこともできず、剛史は出来るだけ不快感を顔に出すまい、と努力しながら煙を肺に吸い込んだ。
そういえば、燻っていた自分にタバコの味を教えてくれたのも、葛本先輩だった。彼はふとそんなことを思い出した。
「そうだ、飲めよ。こんな事もあろうかと持ってきたんだ」
葛本はにやっと口角を上げながら、背負っていたバッグから缶ビールを取り出した。短くなったタバコの火を靴でもみ消し、剛史はそれを笑顔で受け取る。
こちらは大好物だ。少しぬるかったが、文句は言うまい。
プルタブを引き上げ、缶の中の液体を喉元に流し込む。底辺にまで下がっていたテンションが、それだけでぐんと上がっていく。
綻んだ剛史の顔を見届けた後で、葛本は同じものを取り出し今度は自分で飲み始めた。
この手の公共施設の多くが全面禁煙、禁酒であることは承知している。しかし貧乏くじを引かされたという被害者意識が勝り、剛史はほとんど罪悪感を覚えることはなかった。
せっかく足を運んだのに何もせずに帰るのは癪なので、缶を片手に二人して冷やかし気分で園内を歩き回ることにする。
ほどなくして、西洋風の城を模した建物が剛史たちの左手に現れた。といってもあまり本格的なものではなく、大きさも本物とは程遠い。塗装は甘く、ところどころペンキが剥がれかけていた。木でできたドアも、右上が欠けてしまっており、残念な有様だ。
細かい補修を行う余裕もないほどに、この遊園地は経営難に脅かされているであろうことは容易に想像できた。客の入りは悪くないのだが、その大半は子供なのである。
『裏野ドリームランド』は小学生未満の子供を破格の値段で入園させている。子供のお小遣いに響かない額だ。これでは業績が振るうはずもないだろうに。
剛史はビールをすすりながら歩く。城というにはあまりに小ぶりな建築物の前には、丈の低い人だかりと、そこから頭一つ飛び出して着ぐるみが見えた。きゃあきゃあと楽しげな歓声が辺りに飛び交っている。彼にはそれが煩わしく感じられた。
咎めるような保護者たちの目つきを気にも留めず、剛史はキャラクターグリーティングに並ぶ子供たちの列を強引に突っ切った。直後、爆発するような泣き声が背後から聞こえてくる。
剛史は舌打ちをした──だからガキは嫌いなんだ。
周囲の鋭い視線から逃れようと、振り返る事もなく足を早くした。隣で葛本がやれやれ、とでもいう風に肩を竦める。
「まって、ください」
何か大きな物体が剛史の肩を掴んだ。
完全に不意打ちだったため、「うわっ」と柄にもなく悲鳴をあげ、後ろを振り向く。
そこにいたのは、ついさっきまで子供と戯れていた、ウサギのキャラクターだった。裏野ドリームランドのパークキャラクターなのだろう、見たことのない着ぐるみだ。
主張の強いピンク色の肌──この場合、毛というべきなのだろう──をしている。目は大きく不気味な配色がなされている為、じっと見ていると吸い込まれるような錯覚に襲われた。
こんなのと触れ合うために炎天下の中行列に並ぶとは、昨今の子供の好みは異常だな、と剛史は鼻白んだ。妙な威圧を感じさせる着ぐるみだった。
人間のようにズボンを履いた気味の悪いウサギは、たどたどしい発声で言葉を続ける。
「ゆうえんちでは、おさけはだめです。あのこにも、きちんとあやまってください」
中に入っているのは女だろうか、と剛史は思う。
大の男なら到底出せないようなハイトーンボイスだったからだ。その声質は女性か、あるいは声変わり前の少年のもののように聞こえた。
「なんだよ。文句あんのか」
ウサギの着ぐるみを剛史は睨む。
「ゆめのくにでは、みんななかよくしなくちゃ、だめだから」
一体こいつはなんなんだ、と剛史は口元を歪めた。
言葉が稚拙で、正式な従業員とは思えない。
「お、おい……」
小刻みに震える手で剛史の背中を叩いたのは葛本だった。
なんすか先輩、びびってんすか──剛史が言いながら葛本の方を見ると、彼はまさに顔面蒼白の形相で、もう片方の手でとある一点を指差している。
その指の先を目で辿ると、
「──斧?」
着ぐるみの右手に握られた物の名称を、剛史は口に出した。
今の今まで気がつかなかったのが不思議なくらいだ。インパクトのある顔ばかりに集中したからだろうか──と訝しがる剛史だったが、その時点ではまだ楽観的だった。プラスチックか何かで作られた小道具なのだろうと思ったのだ。
しかしよくよく見れば、それは明らかに金属めいた鋭い光を反射し、その刃の先が地面に擦れる度にズズズッと重厚な音を発する。
こいつはヤバイ。逃げろ。
本能が身の内でそう叫んだ。何を考える間も無く、剛史は身を翻し走り始める。横を見れば、葛本もほぼ同じタイミングで走り出している。
自分で地面に転がした缶に蹴つまずきそうになり、ひやりとした。踏みつけた瞬間、半分ほどまだ残っていた酒が剛史の靴を濡らしたが、それに構う余裕などなかった。
彼の往来を邪魔するように横たわったゴミ箱を蹴飛ばしながらも、剛史は走り続けた。その少し前を葛本が怒号を発しながら走っている。
何かがおかしい。視界がやけにすっきりしていた。
目に見える範囲に葛本以外の人間がいないからだ、と剛史が思い当たるまで、時間はかからなかった。
鋭い目つきで剛史を睨んでいた母親も、列に並び笑顔を咲かせていた子供たちも、剛史のせいで泣き出した子供の姿も、忽然と消えている。異常な状況だった。
しかし、深く考えることはしない。余計な思考に費やすエネルギーなど、今の剛史の体内にはどこにもないのだった。
むしろ、避けるべき障害物がほとんどないことに感謝したくらいである。
ふいに頭の中に一つのイメージが浮かぶ。
それは返り血を浴びて、全身を真っ赤にしたウサギの着ぐるみの姿だ。その足元に転がっているのは自分だった。
剛史は身震いした。単なる悪い想像とは思えなかったからだ。
ウサギが重い刃物を振り上げる気配が、未だに彼の背中には残っているのだ。呆気なく命を潰すことのできる凶器が空を切る音が、今も鼓膜を通じて聞こえてくるようだった。
「ハァ……ハァ……」
猛烈な息苦しさ。
走り始めてから五分と経っていないのに、もう息が切れてきた。先ほど吸ったタバコのせいだろうか。剛史は、自ら肺に取り入れた苦い煙の存在を恨んだ。
ならば、体に力が入らないのは摂取したばかりのアルコールのせいだろう。
まるで軟体生物になったように身体の芯がふらついていた。急な運動は血中アルコール濃度の上昇を早めたのか、熱に浮かされたように意識が霞みがかってくる。缶ビール自体はとっくのとうに放り出していたが、体内に入ったアルコールはそう簡単に排除することはできない。
くそっ、こんな時に。足が言うことを聞かなくなり、地面を蹴ることすら難しくなる。
後ろを見ることはできなかった。あのウサギは追ってきているのか。それすら分からない。剛史は血が滲むほど唇を噛みしめた。
──そもそも、なぜ俺たち以外の奴らはどこへいったんだ!
ようやく湧いてきたそんな疑問は全く的を射ていないのだと、すぐに気が付いた。
この空間は今までの家族客でごった返していたあの場所とは違う。そうとしか考えられない。一瞬にして多くの人が消えてしまったのではなく、自分たちが異なる空間に移動させられたのだ。
そんな非現実な、ともすれば妄想としか思えないような可能性だったが、剛史はそれが真実なのだと確信していた。
目の前がだんだんと白に染まっていく。このまま気を失えば死ぬであろうことは分かりきっていたが、この忍び寄る空虚には抗えそうになかった。錆がぽろぽろと剥がれ落ちていくように、思考が少しずつ失われていく。
身体が自由を失い、剛史は地面に倒れた。口の中にざらざらとした不快な感触を覚える。砂だ。
何かがすぐ後ろに立つ気配がしたが、彼は既に意思を持って首を動かすことすら出来ない状態に陥っている。
それから数秒後、剛史は完全な意識を失った。