その27
最後に厄介な騒動に巻き込まれたけど、数日振りにお家に帰ってきました。
「ちゃぢいまあ」
「……たぁぃま」
なぎともえが靴を脱ぎ、洗面所に歩き出す。
ん?
もえちゃんが元気ないなあ。
どうしたんだろ。
帰りの車に乗り始めた頃は、元気よくはしゃいでいたけど。
そういえば駐車場では、口数がすくなかった。
エレベータでは、完全に無口だった。
気になってきたので、後を追った。
もえちゃんはなぎ君と仲良く台に昇り、手を洗い、コップに注いだ水でうがいをしている。
眉がハの字で、渋々となぎ君の真似をしている感じだ。
「もぅたん。どーしちゃの?」
なぎ君の問いかけにも首を横に振るだけ。
うがいを終わると、リビングのクッションに突撃して、丸くなる。
車に酔ったかな。
今まで、素振りは見せていないから、違うかもだけど。
心配になる。
荷物を和威さんに任せてしまっているから、取りにいかないと。
ちょっとだけ待っててね。
「ママぁ。もぅたん。えーん、しちぇりゅ」
踵を返す私の服をなぎ君が慌てて引っ張る。
もえちゃんが泣いてるの?
なんでだろう。
「もえちゃん。どうしたの? 何が悲しいの?」
「ふえ~ん」
帽子とお気にいりのリュックを脱がず、もえちゃんは声を殺して泣いていた。
丸くなっていたのを、抱き上げた。
直ぐに、しがみついて来た。
「どうしたの?」
「ママぁ~」
「なあに」
「なぁくん。パパ、よんぢぇ、きゅりゅ」
理由が見当たらないもえちゃんの涙に、なぎ君がテンパっている。
玄関に向かって、一目散に走っていく。
なぎ君。
まだ、ドアに手が届かないでしょうに。
それに、一人で外に出ない約束ごとしているよね。
「パパぁ~」
玄関で地団駄を踏む音が聴こえてきた。
慌てていても、約束ごとは守ってるね。
お利口さんだ。
いや。
今はもえちゃんだ。
ひっくと、しゃくりあげて泣いてる。
頭や背中を撫でて落ち着かせるが、気のすむまで泣かした方が良いかな。
「ママぁ~」
「はい。ママはここにいるよ。もえちゃん、どうしちゃったのかな」
「ひっく。おうち、いちゅ、きゃえりゅにょ」
お家?
まさに、帰ってたばかりなのだけど。
ここは、もえちゃんのお家だよ。
都内のマンションだよ。
じいじのお家と間違えているのかな。
「お家に帰ってたのよ。ここはもえちゃんとなぎ君とパパとママのお家よ」
「……ちあうもん。おうち、くぅまに、いっぱいにょっちゃ、おやまに、ありゅもん」
「お山? もえちゃん。お山のお家だと、思ったの?」
「あい」
あちゃあ。
それは、ママが悪かったね。
説明不足だったか。
そうか。
もえちゃんは、お山のお家に帰ると思ったのか。
だから、じいじのお家で飛び上がって帰ると言っていたのね。
ママ、納得した。
「もぅたん。おやまに、きゃえりちゃい。じいじ、ばぁば、ひいばぁばに、あいちゃい。ろうくんちょ、わんわちょ、あしょびちゃい、よう」
ずっと我慢していたのか、一気に話始めるもえ。
やっぱり、環境の変化に戸惑っていた。
「パパちょ、おしゃんぽ、しちゃい。ママちょ、なぁくんちょ、ガタンガタン、みにいきちゃい」
泣きながら訴えるもえに、何も言えない。
随分と我慢させていたのね。
ママ、大反省だ。
東京に越してきてから、和威さんは会社に出勤で、散歩は休みの日だけだし、電車に乗らせたり見に行くのもしていなかった。
ごめんね。
もえちゃんに、我慢させてた悪いママで。
「パパ。はあく、はあく」
「どうした? なぎ。もえに、何があった」
なぎ君に手を引かれて和威さんが、リビングにやって来た。
いつにない、なぎ君の剣幕に和威さんも困惑している。
「もぅたーん。パパでしゅよ。きゅわいにょ、いにゃいいにゃいよ」
「怖いの? もえは何が怖いんだ?」
私にしがみついて泣いているもえちゃんの姿に、和威さんはなぎ君を抱き上げて隣に座った。
なぎ君は一生懸命、もえちゃんの頭を撫でている。
怖くて泣いている訳ではなく、お山に帰りたくて泣いているのだよ。
説明すると和威さんが、へこたれてしまいそうで、私も歯切れが悪い。
東京に出てくるのを、単身赴任は出来ないと泣いていたし、確実に大ダメージ食らいそうだ。
「もえちゃん。パパに自分から言える? ママが言おうかな」
「パパぁ~。もぅたん。いちゅ、おやまに、きゃえりゅにょ」
「おやま? もぅたん。おやまに、きゃえりちゃいにょ」
「あい。ろうくんちょ、わんわに、あいちゃい。あしょびちゃい。パパちょ、おしゃんぽ、しちゃい」
「……」
案の定、和威さんは沈黙してしまった。
なぎ君は、お家に帰る事は、都内のマンションだと思っていたらしく、怪訝な面持ちだ。
リュックからガーゼハンカチを出して、もえちゃんの涙を拭いている。
「もえ。おいで」
「あい」
和威さんは、もえちゃんを抱き上げて額を合わせた。
なぎ君と、なあにをする体勢である。
「そうか、もえはお山に帰りたいか。ごめんな。パパ知らなくて、困らせたな」
「……ぁぃ。もぅたん。わーまま?」
「全然我が儘ではないぞ。じゃあ、ママとなぎともえの三人でお山に帰るか」
「パパは?」
和威さんの言葉に、もえちゃんは合わせた額を外す。和威さんの、目を真っ向から見返す。
なぎ君は空いた私の膝に座り、成り行きを見守っている。
「パパは、今お仕事で社運を賭けた大事なプロジェクトのリーダーになっているから、一緒には帰れないんだ」
「ぷりょじぇきゅちょ、なあに?」
「お仕事の内容だ。パパが、パソコンでカチャカチャしているのは知っているだろう」
「あい。カチャカチャ。おしぎょちょ、ぎょきゅりょしゃま、でしゅ」
「どういたしまして」
「パパが、おしぎょちょ、しちぇ、きゅりぇりゅきゃりゃ、おいしいぎょはん、ちゃべりゃりぇりゅ、にょよ」
あいあとう。
もえちゃんは律儀にお辞儀をする。
和威さんは、私を見てから苦笑している。
本当の事だよね。
大事な事だから、ありがとうはしようね、と言い聞かせてきた。
「そのお仕事は、かなり長期間かかるお仕事なんだ。クリスマスやお正月、ママとなぎともえの誕生日が来ても、お山には帰れないんだ」
下手したら、数年はかかる。
和威さんは、包み隠さずにかいつまんで分かりやすく説明している。
もえちゃんは泣くのを堪えてパパを見ている。
「もぅたんたち、おやまに、きゃえっちゃりゃ、パパひちょりで、きょきょに、いりゅにょ」
「ああ。パパ一人だな。一人は寂しいな。だから、お山から皆で引っ越して来たんだよ。パパはママとなぎともえがいないと元気になれないんだよ」
「……。もぅたん。パパ、ひちょり、しゃびしいの、いや。おやま、ぎゃまん、しゅりゅ」
ああ。
我慢の方向になってしまった。
私のなかでは、一日か二日の短い期間で、一時帰宅するのも良いかなと思い始めたのだけど。
和威さんは、それでも駄目そうな気配。
「もえはお利口さんだな。我慢してくれてありがとう。お利口さんのもえに、パパからのご褒美を受け取ってくれ」
はて?
ご褒美とはなんぞや。
和威さんが、スマホをとり出し電話をかける。
「峰。連れて来てくれ」
「和威さん。どういう事?」
「まあ、暫く待っててくれ」
「「パパ、なあに」」
「もえが喜ぶ事だよ」
暫くして、玄関が開閉する音がした。
「あっ。こら、待て」
聞きなれた声がする。
玄関とリビングの間には扉があり、そこへ、何かが体当たりした。
双子ちゃんの肩が跳ねる。
「落ち着け。絶対に怪我させては駄目だぞ」
わんわん。
あれ、司郎君といち?
「わんわ?」
「いち?」
わん。
双子ちゃんの声が聴こえたのか、ワンコが返事をする。
扉を慎重に開けたのは、司郎君だ。
峰君の義弟で高校生である。
全力でリードを握り、シェパード犬を押さえている。
「わんわ? わんわだぁ」
「いちぃ!」
涙が引っ込んだもえちゃんがいちに飛び付く。
遅れてなぎ君も続く。
感動のご対面にいちは、もえちゃんとなぎ君の顔を代わる代わる舐めている。
「わんわ、わんわ」
「いち、どきょきゃりゃ、きちゃにょ」
何故か、もえちゃんはいちをわんわと呼ぶ。
いち、と言う名前は呼ばない。
いちの方も、もえちゃんだけわんわで反応する。
一頻り舐めるのを止めたいちは、お座りをして尻尾をはち切れんばかりに振っている。
「なぎ様、もえ様。いちもお二人に会えて喜んでいますよ」
「ろうくんも、あえちぇ、うれしい」
「あい。もぅたん。うれしいよ」
いちの首に抱きついたもえちゃんは、今度は嬉し涙で離れたがらない。
いちも司郎君の次に甘えて遊ぶ双子ちゃんを、大好きで過剰な位スキンシップはかかせない。
お山の番犬を連れて来て大丈夫なのかしら。
「和威さん。いちを連れて来て大丈夫なの?」
「おう。それがなぁ。俺達が引っ越した夜から、遠吠えと悪戯が始まり、飯も食べないんだと。毎日、俺達の離れの回りを歩き回り、なぎともえを呼んでいるらしい」
見やると、確かにいちは痩せて見える。
肋骨が見えている。
「ほんでもって、悩んだ司郎が兄貴に直談判した」
司郎君といちは兄弟と言っていいほど、絆は固い。
生家から、冬山に放置された虐待児である。
山の持ち主が見回りにきて、身を寄せあい暖を取る一人と一匹を保護した。
その人が峰君のお父さんで、虐待を知るや養子縁組をした。
ただ、峰君のお母さんが動物アレルギーで、家では飼えない為に、いちは篠宮家の番犬になった経緯がある。
「兄貴も、毎夜声が掠れる程遠吠えするいちを鑑みて、司郎といちを東京に寄越してくれた」
「司郎君の学校はどうするの?」
「勿論、転校手続きはするさ」
司郎君は静馬君と同じ高校生だ。
一度は高校にいかず働いて恩を返すと、司郎君は頑なだった。
義両親と峰君、篠宮のお義父さんの説得で近場の高校には通ってくれた。
「幸いにして、司郎の学力は優れているし、金は幾らでもある。私立でも、都立でも選び放題だ」
「なら、いちは昼間は我が家で子守りをしてもらうのね」
「ああ」
さっきまで泣いていたもえちゃんは、満面な笑顔でいちに抱き付いている。
なぎ君も安心した様子で笑っている。
司郎君と他愛ない話をしている。
「琴子には、負担がかかるだろうがな。もえが安堵するなら、いちも面倒を見てくれ」
「負担なんて、お山と同じでしょ。もえちゃんとなぎ君が喜ぶなら、私には異論はないわ」
双子ちゃんが、赤ン坊の頃からの付き合いだ。
ワンコのお世話はなれている。
「パパ。わんわ、おうちに、いりゅにょ、ずっちょ?」
「夜は司郎の部屋でねんねだがな。朝と昼間ははずっといるぞ」
「ほんちょ。わんわ、いりゅにょ、ほんちょ」
「ああ。本当にだ。そうだ、パパといちと散歩に行くか?」
「‼ いきゅ」
散歩の一言にいちが尻尾を大きく振る。
きっと、目には見えないもえちゃんの尻尾も、はち切れない位に振っていることだろうね。
嬉しい、と全開な笑顔を見せてくれた。
お山には帰れないけど、パパがお願いをできるだけ叶えてくれた。
はあくはあく、と和威さんの腕を引っ張る。
良かったね。
もえちゃんは、笑顔が一番似合うよ。
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