その29
「ママぁ~」
私が水面を歩いて近付くと、司郎君は小脇に抱えていたもえちゃんと司君をおろす。
もえちゃんは水面を気にせず、おろされるなり私に向かって駆け出した。
司君はおっかなびっくりな様子で、司郎君にしがみついている。
うん、そうだね。
東京にいたはずが、どうやって移動してきたかは把握してないけど、気が付いたら水面に沈むことなく立っていられるのには驚きだよね。
無我夢中で私を求めるもえちゃんは、いちに付き添われて両手を前に出して走ってくる。
後数歩というところでしゃがみ、飛び込んでくるもえちゃんを抱き締めた。
「ママぁ~。ママぁ~」
「うん、もえちゃん。ママだよ。ママを助けに来てくれたのかな? ママ、もえちゃんに教えて貰ったのに、ピンチになっちゃった。心配かけて、ごめんね」
「ちあう~。おじじにょ、おうち、へんにゃ、ひちょ、さぁにぃに、きょいっちぇ。だあら、もぅたん、さぁにぃに、あんじぇんにゃ、ばしょにっちぇ、りゅうしゃん、おねぎゃあ、しちゃにょ」
あら、要約すると避難していた緒方家に、不審者でも入り込んできて、司君を何処かへ連れていこうとしていたのを、もえちゃんが安全な場所にと龍神様に願った結果が今に繋がるのかな。
でも、沖田さん達朝霧グループ所属の護衛スタッフが常駐していたはずだし、我が兄もいたはずだよね?
何が起きてしまったのだろう。
「琴子様。もえ様のご説明に追記致します」
話は終わりとばかりに私から離れたくないもえちゃんは、口を真一文字にした後私の首もとに顔を埋めて泣くのを堪えている。
泣いてもいいのだと教えてあげようとしていたら、近くに寄ってきた司郎君が申し訳なさそうに声をかけてきた。
相変わらず司君は司郎君に引っ付いたまま、足元を盛んに気にしている。
ああ、不可思議な体験をしているのと、いつ水面から沈んでしまうか困惑しているのが分かった。
まずは、司君を安心させようかな。
「司郎君、場所を変えましょう。司君の精神的不安を解消しましょうか」
「はい、ですね。司様、安心してください。僕達はシャボン玉の様な膜に覆われていて、その外周をもえ様が呼び出された龍神様が守ってくださっています。ですから、水に沈むことはありません」
「……うん。でも、足元がふにゃふにゃしていて、歩きにくいよ」
「では、失礼致します。僕が抱えますね」
「司郎お兄ちゃんが、普通にしているのが、ぼく、訳わかんないや」
司君は、司郎君が篠宮家が奉る祭神様から遣わされた神使だとは知らないから、余計に泰然としている司郎君の様子に納得いかない微妙な表情をして抱き上げられている。
それから、うちのワンコも普通に水面歩いているしね。
それは、訳がわからない状態になるよね。
ましてや、龍神様とか教えられても見えてはいないみたいだし。
シャボン玉の膜と表現されても、見えないから不安でしかないだろう。
「この前、朝霧さんの家でお母さんを襲った悪霊みたいなのを初めて見たけど。あれから、お父さんに懐いていた厳は見えなくなったけど、琴ちゃんに言われて神棚じゃなくて犬小屋を家の中に作って、その前にご飯やお水のお皿置いたら、いつの間にかご飯とかは無くなってた不思議はあったけど。お祖父ちゃんもお母さんもお父さんもお兄ちゃんもぼくも、霊感がないから厳は見えなくてもいるっていう気配は分かるようになったけど……」
一種の逃避かなぁ。
司君の独り言は陸地にあがるまで続いた。
恵美お義姉さんを助けに姿を見せた篠宮家のお犬様であり、神使に昇格した厳は悠斗お義兄さん達一家が自宅に戻られて数日後に姿が見えなくなったと私に連絡してきた。
相談された神棚を作るのではなく、悠斗お義兄さんに厳が篠宮家で暮らしていた時の犬小屋を置いてあげてくださいと伝えたのを、実際にその通りにされたようだった。
お山の祭神様たる媛神様の御使いであるお犬様の厳は、存在の原点たるお山から遠く離れた東京では、存在力の源であるお山の恩恵が薄い為
力の消費を最低限に抑えるのもあり、姿を顕現するのを止めている。
まあ、時折自分はいるよとちょっとしたいたずらはして、遊ばれているとのことだった。
「はい、司様、陸地に到着です。もう、安心してくださいませ。では、僕は琴子様に報告がありますので、暫くお相手をできませんがいちに話をされてよいですからね。いち、もえ様より司様の相手をしてあげてくれ」
わふっ。
漸く、水面から陸地にあがり、司郎君は司君を再びおろす。
一言も話さなくなったもえちゃんを案じて、ワンコが私の周囲をぐるぐると回っていたのだけど、司郎君に指示されてもえちゃんを見上げて惜しみつつ、いちは司君の傍らに移動してくれた。
司君も、不思議な現象を体験したのを話すことで気持ちを落ち着けようとしていた。
いち相手に、話をし始めた。
「麻都佳さん。石動さんや岩代さんには、東京で何事か起きた報告を聞きますので、禁呪で汚染された土地の浄化は、あちらに任せるのをお願いしてきてください」
「畏まりました。既に、大地の巫女は到着しており、あちらの祭神様に祈願しております」
「では、あちらは任せます」
「はい。それでは、わたしは石動家当主殿と後処理を致します」
禁呪で汚染された土地の浄化は私もしたけれど、この地は大地を司どる祭神様が守護されている土地。
己れの領域の浄化を、再度守護神様に念入りに施して貰うのは、あちらのメンツを立てないとね。
でないと、守護家の役割の意義を見失いかねないから、当然の帰結。
どん、と軽く地面が揺れたかと思ったら、汚染された土地を覆う大きさの亀さんが顕現されていた。
勿論、見える資格のない方は見えてはないだろうけど。
あちらは、石動家に任せましょう。
「お待たせ、司郎君。報告をお願いします」
「はい。先程、もえ様が説明された変な人は、緒方家の勘当された慎之介氏が連れの方に司様を売ろうとなさり、侵入なされました。もえ様は、司様が危ないと感じられたのだと思い、司様を連れて逃げようとなされ龍神様に願われました。そうして、いちを通じて僕にも指示を出された龍神様に従い、庭に出ましたら滝の如く降る雨に包まれ、先に移動するのを促されました。結果、あの場に行きつきましたら、再びもえ様が叫ばれ、琴子様のおられた地に転移したのだと認識しました」
「慎之介さんを、沖田さんとかうちの兄とか止めなかったのは、何でだろう」
「沖田様達に関しましては、何分情報不足で申しあげる事はできませんが。奏太様は、昨日から不在でありました」
は?
兄が不在?
そんな、報告来てないのですが。
兄よ。
何処へ、消えたか。
落ち着いたら、問い詰めてやるぞ。
まてよ。
あの抜け目ない兄の事だから、私がピンチに陥るのも先見して分かっていたから、敢えて沖田さん達に慎之介さんをわざと緒方家に招き入れたのかも。
その辺りも、徹底的に吐いて貰おう。
「分かりました。では、司郎君は司君の精神的不安を取り除いてあげて」
「はい、琴子様はもえ様をお願い致します」
司郎君も聞こえていたよね。
声を殺して泣きたいのを堪えているもえちゃんの唸り声を。
もえちゃん。
待たせて、ごめんね。
もう、我慢しなくていいからね。
司郎君が離れていくのを眺めながら、もえちゃんの背中をぽんぽん安心して貰える様に軽く叩いて話しかけた。
「もえちゃん。我慢しなくていいの。もう、泣いてもいいの。ここには、もえちゃんを叱ったり、怒ったりする人はいないからね。安心して、泣いていいの」
「……ママぁ~。う、う、うわあぁぁぁん」
「うん。寂しかったね。不安だったね。ママもパパもなぎ君もいなくて、一人残されて沢山我慢させちゃったね。もう、ママもお務め終わったから、一緒に東京に帰ろうね」
「うわあぁぁぁん。ひっく、いっちょ、ひっく、きゃえう、ひっく、ママちょ、きゃえう~」
幾ら、奏太伯父さんが一緒にいても、大好きなにぃにやねぇねがいても、もえちゃんにとっては、我が儘言って困らせてしまうのではないか。
甘えてばかりいて嫌われたりしないか、前世の辛い記憶もあって、おとなしく聞き分けのよい子供を演じてしまい、不満を押し殺して我慢を強いてしまうのを、私と和威さんは不安視していた。
案の定、静馬君や梨香ちゃんから報告してくれる内容は、我慢していると思わしき、いつも元気で遊んでいるようだった。
普通の幼児なら、僅か数時間でも両親から離されたら泣きわめくのが当然だっただろう。
彩月さんからの、なぎ君の報告は毎日隠れて泣いてはいると来ていた。
夜も寝つきは悪く、食事もあまりすすまないとあった。
だから、毎日なぎ君ともえちゃんには電話していたのだけど。
和威さんが新型インフルエンザで入院して、電話で話が出来なくなったら、大泣きしたとも報告があった。
従兄弟達に囲まれていたもえちゃんと違い、なぎ君の側には彩月さんと珠洲ちゃんしかいなかった。
我が母が頼りに出来れば、頼りにしたけど。
それも叶わず。
なぎ君ともえちゃんには、大変に寂しい思いをさせてしまったのが心苦しい限り。
ええ、もう目的は達成したのだから、速やかに帰京させて貰おう。
わんわん泣くもえちゃんを腕に、私は決心した。




