その10
何年振りかの邂逅に、悠斗さんは声もなく、ただひたすら自分にすり寄ってくる厳を眺めていた。
うん。
厳の穢れは、媛神様の恩恵が復活して祓われた。
こちらは、大丈夫だね。
後は、憑かれてしまった真奈美義伯母さんの浄化だ。
私の周囲に漂う珠洲ちゃんが操る神水に触れて、制御権を掌握する。
真奈美義伯母さんは、正気を失い意識が朦朧として、喜代さんに半身を抱き起こされていた。
其方に神水と共に移動して、神水に触れていない反対側の手で、真奈美義伯母さんの額に触れる。
良かった。
憑かれただけで、自我に干渉されず、悪影響を残されていない。
神水を振り掛けて、祝詞を唱える。
「浄めたまえ、祓えたまえ……」
巫女の神気を含んだ神水は、真奈美義伯母さんに触れるやいなや、僅かに残留していた穢れを浄めていく。
焦点があってなかった真奈美義伯母さんの視線は、祝詞を唱え終る頃には穏やかな眼差しに戻っていく。
「……琴子ちゃん? わたし、何か、大変な事、してしまったのでは?」
「大丈夫ですよ。真奈美義伯母さんは、ただ悪意の塊を運ぶ役割りをしただけです。その悪意は、既に祓いましたから、実害はありません」
「そう、良かった。琴子ちゃん達に、お食事を届けた後辺りから、電話の鳴る音が頭に響いたの。でも、喜代さんは鳴っていないと言うし。おかしいとは思ったのだけど、何故か出ないとならないと思って、受話器を手にしてしまったわ」
真奈美義伯母さんだけ聞こえた電話の鳴る音。
喜代さんは先代巫女の付き人であり、能力者であるから電話には反応しないでいたのだろう。
真奈美義伯母さんが反応したのは、直前に私達、取り分け恵美お義姉さんと接触していたからかな。
そうか、電波を通して、朝霧邸に侵入出来てしまったのか。
まだまだ、私も未熟な証だ。
お祖母様が存命でいらしたら、万全な守護により侵入は防げただろう。
やはり、巫女の知識はあるだけでは、いけないな。
修練しないとならないか。
だけど、なぎともえや和威さんと離れて、水無瀬家本家に引きこもる訳にはいかないしなぁ。
悩み所だ。
「珠洲ちゃん、喜代さん。何か、小瓶とか持っているかな」
「はい、ここに」
流石は、先代巫女の付き人である。
喜代さんが、エプロンのポケットから、手の平サイズの小瓶を取り出す。
受け取り、神気を込めた神水を小瓶に納める。
「真奈美義伯母さん。護符代わりに肌身離さず所持していてください。後日、こうした悪意に晒されないように、念入りに仕上げた護符を渡しますから。あっ、楓伯父さんや伯母さん達や、従兄弟達の分も早急に作ります」
「ありがとう。それに、ごめんなさいね。お義母さんから頂いた護符を身につけていた筈なのだけど」
朝霧グループの社長夫人であるから、真奈美義伯母さんはお祖母様から厄除けの護符は頂いていたと言う。
それは、身につけていてもおかしくはない、ペンダント型をしていた。
喜代さんの助けを借りて外したペンダントは、トップ部分が雫の型をしていた水晶だった。
しかし、その水晶はひびが入り、触れただけで瓦解した。
恐らく、形代となり真奈美義伯母さんを護ってくれたと分かる。
お役目、ご苦労様です。
感謝と浄めの念を乗せて、漂う神水の中に入れ、無に還した。
「喜代さん、真奈美義伯母さんを休ませてあげて。珠洲ちゃんは、念の為に神水で結界を構築してあげて」
「はい、承知致しました」
「では、下がらせて頂きます」
喜代さんと珠洲ちゃんに支えられて、真奈美義伯母さんを寝室に運んで貰う。
悪影響はないけど、体力は随分と消耗しているので、充分に休んで貰わないとならない。
明日は、弔問客は一切お断りして貰うのも、告げておいた。
では、次に篠宮家側に戻ろう。
危険が排除された室内は、戸惑う悠斗さんの周りに巧君と司君が側に寄り、触れないけどもいると認識できる厳の姿に、驚いていた。
さて、我が家の双子ちゃんはといえば。
和威さんに抱き寄せられ、うつらうつらしている。
まあね。
幼児には、熟睡時間な訳だからね。
初めて見るワンコに興味津々だけども、悪意は排除されたし、眠気の方が勝るしで、目蓋が落ちていく。
少し和むわ。
「なぎ君ともえちゃんは、ねんねしようね。もう、悪いのはいなくなったから、安心してねんねよ」
「「……あい。おやしゅみ、にゃしゃい」」
なぎともえの頬を撫でると、こてんと熟睡に入った。
力が抜けた身体を、和威さんが絶妙な腕裁きで確保して、二人して隣室のお布団に寝かせた。
まだ、悠斗お義兄さんや恵美お義姉さんとは、お話しないとならないからね。
今日は、皆で和室を占拠しましょう。
彩月さんに隣室に控えて貰い、半分だけ襖を閉めておく。
「琴ちゃん。このワンコ、お父さんの味方なの?」
「さっきの、変なの食べちゃったけど。ワンコは大丈夫なの?」
「うん、正確には食べたのではなく、噛み千切って分解したの。それで、本体から離れたモノは、朝霧邸に施されている悪いモノを浄める力によって消えたの。だから、ワンコには何も影響がないから、大丈夫よ」
巧君と司君はワンコを気遣い、優しい言葉を尋ねてきた。
穢れに満ちていた姿から掛け離れた本性に戻ったワンコの姿に、撫でようとして空を切る手にどうして良いか判断が鈍っている悠斗さんは、眉を潜めている。
「悠兄貴が犬を飼っていた記憶はなかったけど。実家に犬小屋があったから、昔は飼っていたんだろうとは思っていたな」
「厳は、僕が飼っていた犬ではないよ。正確には、お祖父さんがお山から預かったお犬様と、面倒を見ていたんだ。ただ、お祖父さんに一番懐いていた垠、康治兄さんに懐いていた雁、雅博兄さんに懐いていた釿の四匹がいた。だけど、釿は雅博兄さんが上京した年に、厳は僕が上京した年にお山に還ったと言われた。垠はお祖父さんが亡くなった年に、雁は康治兄さんが結婚した年に、お山に還ったとされた。今一、理解してなかったのだけど……」
「お山から預かったお犬様は、多分ですが媛神様から篠宮家を守護せんと遣わされた神使、神様の眷属なのでしょう。そして、雅博お義兄さんと悠斗お義兄さんがお山から離れていくのにあわせて、肉体をお山に還し、守護霊としてお義兄さん達に付いてきたんですね」
「じゃあ、臣叔父さんと和叔父さんのワンコはいないの?」
巧君の素朴な疑問に、悠斗さんは表情をしかめた。
「隆臣には、琿がいた筈だ。ただ、和威にはいない」
「確かに、俺の幼い頃にはお犬様はいなかったな」
うーん。
暴露していいのかなぁ。
和威さんにお犬様がいない理由に、心当たりがありまくりなのですよ。
当主の康治お義兄さんが説明しないのを、私が話していいものか。
悩むなぁ。
いや、仲間外れにされていた訳ではないのだよね。
これは、巫女に就任して分かった事実なだけに、教えていいのかが分からない。
わふっ。
ん?
今、うちのワンコの鳴き声がしたぞ。
そうして、ほわっと私の神気に触れる気配がした。
これは、了解を得たと取っていいのかな。
ならば、話しましょう。
「和威さん」
「ん?」
「和威さんの幼い頃に、お犬様がいなかった理由は、我が家の双子ちゃんにあります」
「なぎともえ?」
「そうです。媛神様は、和威さんの子供が因縁ある双子だと未来を見ていたのだと思われます。だから、その双子を守護する為に、敢えて和威さんの幼少期にお犬様をつけないで、その分の因果律、えーと双子ちゃんに干渉出来る権能、この場合は理由を後付けする意味を作ったんです。篠宮家の双子は禁忌として、双子の妹を虐待して幼い命を奪い、富を得ようとする輩から守護する目的として、和威さんの幼少期にお犬様をつけれなかったお詫びの意味で、禁忌の因襲を無くそうとされたんです。そうして、時期を計らって、我が家にお犬様を派遣してきださった。おまけで、人材もつけてね」
「それは、いちと、司郎の事か?」
わふっ。
今度は、間近にワンコの鳴き声がして、漸く廊下に控えていた我が家のワンコと頭を下げている司郎君に気が付いた。
和威さんの表情は、またもや驚愕している。
逆に、悠斗さんは納得がいったと晴れた表情である。
篠宮家の末っ子に、お犬様がいない。
お義兄さん達は、その事態に沈黙して和威さんに悟らせないように苦心されていただろう。
私が双子を産んで、因襲に捕らわれていた親戚から、お犬様がいない末っ子の嫁だからとか言われていた意味が、数年経って漸く理解できたわ。
当時は、何の意味があるのか分からなかったのだよね。
あれは、媛神様の加護がない末っ子だと悪口言われていたんだ。
まあ、その言った親戚は篠宮のお義母さんと康治さんに見つかり、本家の出禁になったけど。
和威さんも、お犬様の意味を知らないで過ごしていたと思う。
だから、いちが篠宮家に歓迎されて迎えられたのも。
お義母さんがことのほか喜び、司郎君を養子にしても良いとまで言いはなったのも、お犬様と言う媛神様の加護が与えられたからなのだろうね。
「司郎?」
「先程、琴子様が述べられた通りでございます。いちは、本来なら和威様が幼少期に与えられるお犬様でございます」
「いや、司郎。病院は抜け出して来たのか。お前は、頭を強打して精密検査が必要だと言われたんだぞ」
「和威様を騙していたのは、心苦しいものがございましたが。この身は、媛神様の座するお山にて、一度は朽ち果てた身。媛神様のお計らいで、再び生を享受する運びになりました故に、多少の怪我や病気には耐性がございます」
「ぶっちゃけちゃうと、司郎君には篠宮家以上の媛神様の加護があるので、人並み以上に頑健で、詳しく調べられたら困るのよね」
「琴子様が、おっしゃる通りでございます」
「分かりました。その辺りは、お祖父様の名を借りて対処します」
「ご負担をお掛けして、申し訳ございません」
深々と頭を床につけんばかりな司郎君だ。
けれどもね。
司郎君は、もう我が家の家族の一員なのだから、堂々とありがとうございますで、いいんだよ。
ほら、和威さんも怪我の具合を、心配している。
恐る恐る、頭の包帯を気にしながら、体調を計りかねている。
その隣で、主人の役に立ち、名誉の負傷をした司郎君を、いちは誇らしげにワンと鳴いた。




