トゥレット障害者の半生
この作品を読んでもらうことで、少しはトゥレット障害とそれを抱えながら生きる人間というものを知ってもらう機会になればと思います。
命はどこからやってくるのだろう。
生きるということはなんだろう。
僕はなぜ生きているのか、なぜ命があるのか・・・
今でもときどき考えることがある。
生きている意味。
そんなものはない。
生きていること自体が生きている意味。
そんなことはとうにわかりきっている。
しかしたまに考えてしまう。
僕はなぜ生きているのかと。
トゥレット障害。
僕の40数年間の人生で、これからも続く人生で苦しめられている障害。
何万人に一人という障害らしい。
稀な障害といってもいい。
最近になって難病指定されたらしいが、遅すぎる。
同時に強迫神経症やADHD、パニック障害、躁鬱病、睡眠障害。
精神疾患のオンパレード。
トゥレット障害は発達障害ということを最近知った。
おもにチック症というのが症状の一つ。
音声チックと運動チック。
これがでるのがトゥレット障害。
はたからみたらキチガイ。
この障害によって僕の人生の大半が彩られている。
生きていることが地獄だった。
なぜこの障害になったのか。
どうして僕が障害者になったのか。
今でも自分の体を、精神を恨むことがある。
今は医学が発展し、日本にもトゥレット障害というものが入ってきた。
僕が発症したころはトゥレットのトの字もはいってきてなかった。
病院にいってもチック症とだけ判断された。
ただの心の病と思われていた。
実際は脳神経の障害。
発達障害。
過度なストレスによって発病するらしい。
原因はまったくわからない。
治療法もわからない。
ただ薬で症状を緩和するだけ。
今の医学ではそれしか方法はないらしい。
僕が薬を飲み始めたのが。約15年前。
それ以前は、薬は飲んでなかった。
というよりトゥレット専門医というものがいなかった。
実際いたらしいが、それほど話題にならずに、知らなかったというのが正しい。
トゥレット障害が日本に入っていたのは平成2年くらいという話。
そのころ日本に細々と日本トゥレット協会というものが誕生したらしい。
そのころ知っていれば随分楽だったかもしれない。
早期の治療を施せたのかもと思う。
トゥレット研究が日本で細々と行われ始めたのはもう少し前らしいが、外来お病院というものは限定的いしかなかった。
ちなみに欧米ではすでに1972年にはトゥレット協会が誕生し、トゥレット障害というものは一般的に知られているという話である。
ほんとかどうかは欧米にいったことがないのでわからないが。
日本の精神医療がどれだけ遅れているかよくわかる事例の一つである。
トゥレット障害は、いまだに小児科扱い。
大人のトゥレット外来は存在しない。
発達障害は子供のもの。
これが日本の認識である。
大人の発達障害の専門外来はない。
日本は精神医療の後進国といってもいい。
こんな日本に生まれたから、僕は苦しんだのかとも考えてしまう。
とにかく僕の人生はこのトゥレット障害というものと歩んできた人生であるといってもいい。
この障害とどう付き合うか、どう向き合っていくか、そんな人生だった。
これからもそういう人生だろう
これからの人生どういうものが待ち受けているのかわからない。
ただ僕の人生を語る上でトゥレット障害、発達障害というものは外せない。
40数年間の地獄。
いや、これからまだ続いていくかもしれない。
しかし僕は生きている。
だから僕は書き記そうと思う。
僕という人間の半生を。
今トゥレットに苦しんでいる人に、発達障害に悩む人に・・・
1972年5月26日。
僕は生まれた。
生まれたというより、生まれたのに死んでいた。
正確には半分死んでいたということらしい。
生まれたとき未熟児だった。
それも片手に乗るくらい小さかったらしい。
肺に水が生まれたときに溜まっていたという話である。
当時の医者は親にこういったらしい。
「諦めてください。」
僕は思う。
このとき死んでいれば、生まれなければ、こんなに苦しい人生を歩まなくてよかったかもしれないと。
なぜこのとき生かしたのだろう。
なぜこのとき死なせてくれなかったのだろう。
いまだに恨めしく思うこともある。
ただ僕は生まれた。
半分死にながら。
このとき僕を生かしたんのは祖父であるということらしい。
病院を転々とし、当時の最新の医療で生かされたらしい。
父はなにをしていたのか。
それは証言がまちまちでさだかではない。
ただ自分の子供が生き死にしているときに、旅行に行っていたやら、酒を飲みサッカーの試合をみていたやら・・・
いまだに父というものがよくわからないが、この時点で僕の父の神経というのを疑ってしまう。
ただこのとき僕は生まれた。
子供のころは入退院を繰り返す病弱な子供だったらしい。
生まれたのは栃木の益子という町で生まれたらしい。
ほどなくして、東京の府中に転居した。
昔ながらの長屋。
貧乏であったが、暖かかった。
子供というのは、特に赤ちゃんというものは母親に抱きしめられて、そして甘えて成長するもの。
しかし僕の母は違った。
母は権威というものに弱い。
当時の看護師さんがこんなことを言ったらしい。
「家に子供をおいておくと駄々甘えになって死んでしまう」
と。
その看護師がなぜこのようなことを言ったのかはわからない。
現代の子育ての常識からはかけ離れた、馬鹿げた発言であると思う。
しかし母が盲信した。
0歳児保育というもので、すぐに保育園に入れられた。
僕が知っているのは母の温もりではなく、保育士さんの温もりだけだった。
物心つくまではよく覚えてないが、物心ついたころは、保育園は楽しかった記憶がある。
鍵っ子で母も父も仕事人間であったが、家庭はまだ暖かかった。
ただ幼児期の僕の行動は今にして思えば異常行動を起こしていた。
同級生の女の子に興味を持ち、裸にして遊んでいた。
母親に甘えられないSOSサイン。
それがこの行動に現れていた。
女の子もそれが普通と捉えている子が多かった。
かなり異常である。
甘えたいさかりの時期に保育園で育っているのだから、そのようなことが起こるのは今にして思えば当たり前だと思う。
しかし当時の母というものは仕事一辺倒で子供というのはそういうものだった。
偽りの仮面を子供ながらに付けて、疑似的に生まれた暖かさ、そんな家庭で育った。
小学生になっても学童に入れられ、鍵っ子として育っていた。
僕が覚えているのは母の味ではなく、学童で作った油揚げお味噌汁の味である。
それが今でも大好物。
子供の頃に味わう母の味というものを覚えていない。
これを毒親と一刀両断するのは簡単だが、そういう時代背景である。
そうとも断じること出来なかったと思う。
そして転機が訪れた。
小学校2年生に上がるときに東京の多摩市に越した。
両親が長屋から一軒家を、マイホームを買ったのである。
自分の部屋ができると無邪気に喜んでいたりもしたが、当時の友達との別れは辛かった記憶ある。
多摩市引っ越して、最初から友達作り。
当時ベットタウンとして開発されていた多摩ニュータウンは色々な人が引っ越してきた。
僕が通った小学校でも引っ越し組が多数いた。
近くに同じような境遇の子供達がたくさんいたので、寂しくはなかった。
一からの友達作りもスムーズにいった。
しかしこの引っ越しが僕の心にかなり影響を、ストレスを与えていたことは大人になってわかった。
この引っ越しがなければ・・・
今、思う。
多摩市に引っ越して剣道を無理やり習わされた。
数学教室なども無理やりいかされた。
そもそも勉強のできない子供だった。
自分の興味のあるものは瞬時に記憶するのに、勉強だけはできなかった。
というか勉強という、強いられるものが嫌いでならなかった。
例を書こう。
子供の頃、車が好きだった。
なぜ好きになったのかはわからない。
しかし好きだった。
街で見かけた車の車種を、瞬時に覚え、記憶していた。
しかし学校の勉強というものはまったくできなく、先生を悩ませていた。
もともと落ち着きのない子供、と言われていたが興味の持てないものに対しては、徹底的に拒絶していた。
このあたりからであろうか。
ADHDの症状が出始めていたのは。
テストでは当たり前に成績が悪かった。
0点を取るのが常。
常に勉強しろ、やれば出来るといわれていたが、机に向かったところで、まったく集中できなかった。
学校で通り一辺倒に教えられるものが苦手でならなかった。
学校の授業、また数学教室での勉強。
時間に拘束され、強いられる。
どうしても苦手だった。
しかし、一度興味を持つと、驚異的な記憶力を発揮した。
興味のないものには、見向きもしなかった。
後で知ったが、これが所謂ADHDそのものの症状であった。
そして母がだんだんおかしくなってきた頃である。
剣道に行くのが、数学教室に行くのが嫌で嫌でしょうがなかった。
母にやめたいと何度も訴えたが、聞いてはもらえなかった。
子供ながらに聞いてもらえないならとボイコットした。
そして母の行動は異常を逸していた。
僕に反省文を書かせ、その先生にじかに持っていかせるという行為だった。
恐らくこのあたりからだろう。
僕の心のストレスが爆発寸前になったのは。
小学3年生。
チックが発病した。
と同時にADHDの症状も酷くなっていた。
理由はわからない。
チックが突然出始めた。
考えうるに、子供の頃の甘えられなかった記憶。
そして無理やりにやらされていた習い事。
学校の勉強や、引っ越しによる不慣れな環境。
色々な要因で出始めたのだと思う。
子供心にはストレスだったのだ。
そのときはささいなものだった。
顔面をくしゃくしゃにしてみたり、鼻をしょっちゅうほじったり、目をぱちぱちさせたり、首を振ってみたり。
運動チックの初期症状だった。
しかし母は、
「何、顔面神経痛やっているの!」
と笑い話くらいにしかしなかった。
子供のSOSサインをまったく無視していた。
もちろん知識がなかったのもあると思うが、子供の異常行動を完全に無視されていた。
その無視された行動がさらにストレスを呼んだのだろうと今にして思う。
そしてストレスの最大の引き金になった中学受験。
5年生の時にやはり無理やり塾に入れたられた。
中学受験などしたくはなかった。
しかし親の意向に逆らえるはずはなく嫌々行っていた。
もちろんADHD持ちであるがゆえに勉強なども集中できず、親に内緒で塾をサボったりしていた。
成績は最悪だった。
そして家ではその成績の悪さを責められた。
もともとやる気がないのである。
成績などあがる気配すらあるわけがない。
しかし、子供の意見など完全無視。
成績が全て。
私立の中学に入れることが全て。
友達と遊びたくとも遊べない。
塾に行くことが最優先。
ストレスはどんどん加速していった。
チックもこのころだんだん酷くなっていった。
しかし母はそんなことは完全に無視だった。
この頃、とある漫画に興味を持った。
車の漫画である。
もともとの車好きが高じて、そこに書かれていることを瞬時に記憶していた。
小学生で車の構造を理解した。
そしてより車のことを知りたいと思うようになった。
そして夢を持った。
車の整備士かレーサーになりたいと。
そしてその漫画を少ないお小遣いで買い集めた。
しかしそれが母に見つかり、
「こんな無駄なもの買って!」
と全て捨てられた。
しかし読みたいものは読みたい。
勉強はまったく興味はなかったが、車は興味がある。
塾に行かずに、本屋でその漫画を立ち読み。
そしてこっそりと買い、部屋で隠して持っていた。
勉強をする振りをして、机に向かい、その漫画ばかり読んでいた。
見つかったらまた捨てられる。
その恐怖しかなかった。
そしてそのストレスからチックの症状がだんだんと悪化していった。
ただ、まだ初期の運動チックが多少悪化した程度。
母は変な癖程度に思っていたらしい。
「その変な癖やめなさい!」
ばかり言っていた。
そして常に「
「勉強しろ!」
しか言わずに、僕が興味を持ったものは無視されていた。
また学校に図工という授業がある。
版画の授業があった。
版画。
絵を書いて、木を掘る。
そして墨を塗り、紙に転写。
その作業が楽しかった。
物作りというものが好きになった。
当時あるアニメのプラモデルが大流行した。
もちろん僕もそれに嵌り、たくさん作った。
技術は下手であったが、作るのが楽しかった。
そして、なんの奇跡か、僕の住まう市の展覧会に、僕の版画が展覧された。
学校代表として。
才能がある。
発想が面白いということであった。
しかし親はそれを褒めることをしなかった。
その才能を伸ばすこともしなかった。
あくまで勉強。
普通に良い成績を取り、普通に学校に、塾に行くことを求めた。
塾に行き、良い学校に入り、エリートサラリーマン。
ただそれだけを求められた。
僕の希望や夢、そして才能は無視された。
勉強が全て。
勉強出来ない子供は使えない子供。
それが親の論理だった。
そのころである。
僕自身が体に違和感を覚えたのは。
母に訴えても気のせいで終わった。
しかしあまりに身体の変調がすぎたので、親に無理やりお金をもらい、自分で勝手に病院にいった。
結果、肺炎。
入院一歩手前だった。
そこまで母は僕という存在を無視し続けた。
一歩手前になって、慌てて国立病院にいったのを覚えている。
一か月の自宅療養。
それが、無視し続けた結果だった。
もちろん学校のことも遅れる。
塾の勉強さえも遅れる。
母は僕の肺炎の苦しみ。
チックの苦しみなど理解せず、成績、成績ばかりだった。
中学受験当日などは風邪を引き、高熱をだしていた。
しかし母は無理やり受験に行かせた。
絶対安静なのに、である。
このころから母が毒親と化してきた。
もともと毒親だったのかもしれない。
しかしエスカレートしたのはこの受験がきっかけであったように思う。
結果発表当日、僕はどうせ落ちているに決まっていると思い友達の家に遊びに行っていた。
しかし、まぐれか偶然か受かっていた。
それも父が余計なお世話で結果発表などを見に行ったりしたからわかった。
そのとき母は完全に諦めムードであった。
そのまま結果など見に行かなければ、前途ある未来があったのかもしれない。
父の余計な行動のおかげで、その後待ち受ける地獄の扉が開いた。
私立の中学に入学。
それも男子校。
ある組織作りの達人が書いていたのをおぼえている。
男子ばかりいる組織は気が狂う。
そこに女性をいれると組織として円滑に動くと。
男子校なぞ最悪の学校である。
そんな中にぶち込まれた
監獄に入れられたようなものだった。
また一から友達作り。
ストレス度合は加速していった。
小学校の友人たちと別れなければならなかった。
そんな子供の心の寂しさなどは、親は無視である。
自分たちの思い通りに、自分のロボのように動けば満足であったのだと思う。
子供の意志なぞ、なかったも同然であった。
中学校は中間、期末などの試験がある。
好きで行った学校ではない。
勉強などもやる気はなかった。
進学校であるがゆえ、レベルが高かった。
しかし、まぐれ当たりで入った私立である。
勉強などついていけるわけない。
ましてやADHDである。
自分の興味があるのもにしか集中が続かない。
結果成績は最悪のビリ。
その成績を同級生に見られた。
そしていじめが始まった。
成績の悪さを、頭の悪さと勘違いする馬鹿どもにいじめられた。
先生にも親にも言えなかった。
それがストレス度合を加速度的にしていった。
そして中学2年生。
僕はトゥレット障害になった。
原因はわからない。
どういうきっかけでそうなったのか、まったくわからない。
だが、突然酷いチックがでた。
もともと、チックは持っていたが、それほど酷いものではなかった。
しかし中学2年生の初夏くらいのころである。
音声チックがでた。
「わっー」
とか
「はっ!」
とか叫んでいたり、足で床を踏み鳴らしたり、肘で机をたたいたり。
やめたくてもやめられなかった。
端からみたらキチガイも同然だった。
家中で暴れまわりもした。
なんとなく思い出す。
この頃家に古いとは言え、テレビが二台あった。
どういう理由かは、わからないが、テレビを見るのは30分という規則が家にあった。
しかし学校で友達などと話しをする際、テレビを見ていなければ、話しについていけない。
親に隠れてテレビを見ていた。
当時流行りの番組。
学校ではその話題で持ち切り。
みなければ、友達なんてできない。
だから隠れてみた。
家に自由にテレビを見る権利などなかった。
勉強をしろ、という義務しかなかった。
義務があるなら権利があるはずなのに、それが我が家には存在しなかった。
ある日、隠れてみていたテレビが見ようとしたらなかった。
勝手に捨てられていた。
「あんたが隠れて勝手に見るから!」
と言われた。
子供心にショックだった。
これで学校では話がついていけない。
どうすればよい。
親に抗議した。
しかしそんなことは知らない。
お前が悪い。
テレビなど見るな。
それが親の論理だった。
それがきっかけといえば、きっかけかもしれない。
その頃を境に急激にチックが悪化していったのは。
もちろんそんなチック症状である。
いじめが加速度的に悪化していった。
「バウバウ」
とチックを学校でも、帰りの駅前の人の往来でもマネされ、変なあだ名をつけられ、気持ち悪いものと見られた。
成績ももちろん最悪のまま。
トゥレットがあって、勉強など手につくわけがない。
成績、トゥレット、両方でいじめが加速度的にひどくなった。
学校の先生はというと、それを見て見ぬふり。
放置されていた。
家でも気持ち悪いものと見られた。
むりやり、
「やめなさい!!」
と怒られ、
暴れていると、なにもいわず無言のプレッシャーを与えに、僕の部屋の前にずっと立っていたりした。
どこにいても地獄でしかなかった。
僕の居場所などどこにもなかった。
なんど自殺を考えたかわからない。
実行も何度もしようと思った。
でも勇気がなかった。
死ぬというのが、存在がなくなるというのが怖かった。
だから死ねなかった。
逃げ場所なんてなかった。
家でも外でも差別の対象。
地獄でしかなかった。
電車に乗れば、どんな満員電車でも、僕のところだけ空いていた。
まわりの大人は僕を気持ちの悪いものを見るような目でみていた。
親は僕と一緒に電車に乗るのを嫌がり、別の車両に乗っていた。
一緒にでかけているのに他人だった。
僕を守ってくれる人など誰もいなかった。
そんな地獄が3年間続いた。
ある日のこと。
母が大病を患い入院したことがあった。
ちょうどそれも、中学生の頃だったと思う。
家には祖母が代わりに来ていた。
祖母は僕に甘かった。
母がいないストレスとプレッシャーから解放された。
そう感じた。
母が死ぬかもしれない。
そんな大病にも関わらず、まったく悲しくなかった。
自由にテレビを見、祖母に甘え、自由に過ごした。
ある意味、家が唯一天国だった瞬間であった。
逆に母などこのまま死ねばよいとすら思っていた。
父は仕事で家にはほとんど帰ってこなかった。
だから祖母と二人。
その間だけは子供として、本当の子供として自由にふるまえた。
母が退院したとき、自由がなくなった。
そう感じた。
まったくうれしくなかった。
僕にとっては母とはそういう存在でしかなかった。
中学3年生になるとチック症状がより酷さを増した。
見るに見かねた母が無理やり精神病院に僕を連れて行った。
それもろくに調べもせずに。
精神病院の大半がやぶである。
これはのちに医者の娘さんと付き合うことがあり、精神病院の精神科というものが、藪医者ばかりだと知ったから言える。
やぶでない精神科は数少ない。
僕が連れて行かれた精神病院ももちろんやぶ。
母がろくに調べもせずにつれて行った近くの精神病院であった。
チック症。
こころの病。
そんな診断だった。
トゥレット障害が日本に入ってきてないころゆえ致し方ないともいえるが、もっとちゃんと調べれば、トゥレット専門医ともいわずとも、それなりの病院にいけたかもしれない。
しかし母はそんな手間は一切せず、近いし大きいからという理由だけでそこを選んだ。
薬漬けにされた。
薬漬けにされたあげく、わけのわからない脳波検査。
トゥレットは脳神経の病である。
そんななものでわかるわけがない。
脳波に異常はでない。
それなのに母は僕の脳波に異常がないことを確かめると、完全に安堵して、薬まかせにした。
薬漬けの日々。
トゥレットがよくなるどころか、悪化をたどる一方だった。
音声チックの奇声、運動チックによって暴れる。
それに加え、自傷行為もでていた。
リストカットまではしなかったが、自分を殴るという行為。
そして傷ができたら、そこをさらに悪化するまで弄る。
そんな自傷行為が頻繁にでていた。
僕は薬の呪縛から離れるべく、薬を絶った。
病院にもいかなくなった。
ただこのときの診断が成人したのちに役に立つ時がきたのは後の話。
私立の中学といってもエスカレータ式ではない。
成績が悪ければ退学である。
無理やり家庭教師をつけられた。
もちろんトゥレット症状など無視したまま。
ADHDに加え、あらゆる精神疾患がでてきたころである。
爪を噛む。鼻をほじる。床を踏み鳴らす。肘で机を叩く。
また自分の顔を殴る等々。
強迫神経症の症状が合併してでてきていた。
勉強など手に付くわけがない。
家庭教師を困らせた。
そんな僕を親は完全に見て見ぬふり。
あくまで僕が悪いと断じた。
しかしここでもまぐれあたりというのか運がいいのか悪いのか、その中学の高等部に行けてしまったのである。
嫌々ながらであったが。
ここでふつうの高校受験をして、公立に行かせてくれてば、また違った、軌道修正ができたかもしれない。
しかし、結局はその学校の高等部に入るはめになった。
地獄の日々は続く一方だった。
高等部になってから共学に学校はなったが、僕は男子クラス。
結局男子校と同じ。
いじめと差別はさらに悪化した。
家でも精神的虐待。
外を出歩こうなら、大人たちからの気持ちわるいものを見るような目。
どこにも居場所がない。
逃げ場がない。
僕を守ってくれるものはどこにもなかった。
ある程度のルックスを持った女子であれば少女買春などに逃げたかもしれない。
女の子であれば逃げ場はある。
男に逃げればいい。
ある程度のルックスを持つ女子は気楽なものであると思うこともある。
それが嫌々でもなんでも逃げ場があるのだから。
しかし僕は男。
ルックスもよくない。
逃げ場なんてなかった。
作ることもできなかった。
だから僕は高校に入ったときに思った。
強くならなければ。
強い自分にならなければいじめも差別もない。
暴力には暴力を。
力には力を。
自分を鍛え、逃げない、立ち向かう、強い心と体を持つ。
それしかないと思った。
だから鍛えた。
格闘技を習った。
徹底的な肉体改造。
修練につぐ修練。
素手で人を殺せる。
そんな自分になる。
それが目標だった。
もちろん勉強はおろそか。
というか勉強などトゥレットの悪化とともに手もつかなくなっていた。
学校でのいじめなど無視。
差別など無視。
徹底的に鍛え上げた。
しかし僕は心が優しすぎるといわれた。
確かにそうかもしれない。
普通の人など簡単に、ただ形だけヤンキーをしているチャライ連中など一ひねりできるくらいの力を持った。
しかしそれができなかった。
なすがまま。
力を持っても行使することができなかった。
もちろん格闘技の先生に喧嘩に使ってはいけないといわれていたこともある。
だが暴力といういじめに対して僕に力は行使できなかった。
高校は留年した。
勉強なぞできるわけがない。
まぐれあたりで進学したのである。
当然の結果と言える。
留年し、共学クラスになった。
共学クラスの利点は女子がいること。
トゥレットで気持ち悪いと思われたくなかった。
必死に我慢した。
しかし出るものはしょうがない。
結局いじめの対象。
僕が鍛えていることもあって暴力のいじめが加速度的にましていった。
学校などそんな僕を見て見ぬふりをしていた。
親も留年した僕などに無関心だった。
僕は力の行使ができなかった。
そんな連中をぶっ倒す力は持っていた。
しかしそれを行使するのが怖かった。
罪意識、といえばいいのかもしれない。
この力を行使して殺してしまったら。
そんなことを考え、暴力に耐えていた。
そのころ母はなにをトチ狂ったのか、僕のトゥレットは霊に取りつかれているせいだとわけのわからないことをいい、変な除霊をさせられた。
もちろんそんなもので、よくなるのだったら苦しむことはない。
そして催眠療法などもさせられた。
催眠でトゥレットを抑え込めばと思ったらしい。
そんなもので、トゥレットが治るなら苦労しない。
どれも利きはしなかった。
最後にたどりついたのが、カウンセリング。
民間でやっているものだった。
それさえ話を聞き、よくわからない催眠的なことをやられるだけである。
治るわけがない。
しかしそのカウンセリングが一つの転機になった。
その頃僕は学校が本当に嫌でたまらなかった。
知恵をある程度つけていた僕は学校に行くふりをして、よくサボった。
半分不登校になっていた。
学校に行けばいじめられる。
家にいても虐待を受ける。
よく外の喫茶店でぼーっとすることがままあった。
犯罪にも手を染めた。
たんに万引きであるが、それで学校を停学になった。
学校中に噂は広まり、いじめがより酷くなっていた。
そんな中カウンセリングの先生が言った一言が救いになった。
「学校いくだけが全てじゃないよ。」
大検というものを勧められた。
希望の光が見えたような気がした。
もちろん即決で決めた。
学校などやめて大検に行こうと。
母は権威に弱い。
カウンセリングの先生がおっしゃるのならいうことで承諾された。
僕は学校に見切りをつけた。
朝学校に行き、すぐに早退した。
「出席日数が・・・」
などと先生はいっていたが知ったことではなかった。
学校をやめる。
大検に行く。
それだけが希望。
そして心が楽になった。
暴力に対するいじめにも対応できるようになっていた。
蹴られたら、格闘技の本当の蹴りを見せた。
言われたことが、
「鍛えていると全然違う・・・」
いじめがなくなった瞬間であった。
力を手に入れた僕は力を行使することによっていじめを克服した。
そして、次は精神の頭脳を鍛える。
親の屁理屈。
親のいいなり。
親に論理。
そんなものに負けない頭脳。
論理的で相手をつねに論破できるだけの知識と知恵。
それを持つことに集中した。
本をたくさん読んだ。
本の虫と化した。
もちろん体を鍛えることもやめなかった。
文武両道と言えば聞こえはいいが、それが自分を守る、誰も守ってもらえないなら、逃げ道がないなら、自分を強くする。
頭も体も。
それが僕の答えだった。
高校を辞める頃にはいじめはすっかりなくなっていた。
逆になんでやめるのかと言われたくらいであった。
そんなの知ったことではない。
早く辞めたい。
大検に行きたい。
それだけだった。
そして学校をやめた。
大検の予備校に18歳の時から通いだした。
いろんな人がいて、いろんな友人ができた。
もちろんトゥレットで差別やいじめなどない世界だった。
僕のようにどもりで学校にいけず、大検にきた子もいた。
逆に僕のような人間は、大検にくる不良と一般的に呼ばれる人たちから守られた。
とても仲間意識が強かった。
一例をあげよう。
僕が電車の中で大検の友人と一緒に帰ったときのこと。
僕のチックを見た、前に座っていたちゃらちゃらした不良もどきが
「ヘドバンしてやがる!気持ち悪い!」
と馬鹿にしてこそこそしゃべっていた。
僕はなにも言えずに黙って我慢していた。
友人が、
「どうした?」
と聞いてきたが、なんでもないと返事をした。
その前の席の阿呆どもが駅でおり、そしてその後に彼は気づいた。
そして言われた。
「言えよ。水臭いな。友達が馬鹿にされて黙っていられるか!ぶっとばしてやる!」
と。
彼らちゃらちゃらした不良は駅で降りてしまったため、ぶっとばすことはできなかったが、彼らは、大検でであった人々はそんな気持ちのいい人ばかりだった。
僕に居場所ができたと思った。
だから授業がなくても予備校に顔を出した。
友人に会った。
僕自身その当時は人間不信に陥り、人に声をかけられなかった。
しかし彼らは積極的に僕に声をかけてきた。
だから友人が、友達がたくさんできた。
なくした青春を取り戻した感じだった。
彼らは一般的には不良と呼ばれる人たち。
しかし中に入ってわかる彼らの暖かさ。
決して不良なんかでなく、仲間意識が強く、その当時の社会に憤りを感じていただけであった。
当時、高校中退率9万人と言われた。
過去最高最悪と。
学校というものが問題視された。
社会問題となっていた。
軒並み大検の予備校が立ち、ある種大検バブル的な感じであった。
しかしその当時の大人はいった。
「今の子供は我慢気がない」
と。
子供たちのせいにされた。
自分たちの責任から目をそらし、子供がすべて悪だと断じた。
結果、その後学級崩壊、学校崩壊、高校中退率11万人となっていった。
それでも大人たちはそれを見て見ぬふりをしていった。
全て子供たちが悪いと。
今の社会はどうだろう?
そういう子たちは逃げ場を探し、少女は買春をし、少年は逃げ場がなく犯罪をする。
毒親がはびこり、多くのこども達が犠牲になっている。
当時の大人たちが目をそむけた、子供たちのせいにした、その末路がこれである。
当時、ちゃんと子供たちに向き合っていたら?
なぜ高校を中退する子が多いのか、ちゃんと社会政策として学校というものを見直していたらこうはならなかったと思う。
そして今も大人は言う。
買春や犯罪をする子供たちをキチガイだと。
子供たちが悪いと。
これからの世の中もっと被害に会う子供たちが増えていくだろう。
それでも大人は見て見ぬふりをするのだろうか?
僕はいい加減自分たちを顧みろといいたい。
それらの大人と呼ばれる連中は団塊の世代とバブル世代の連中であるが。
彼らが世の中を、子供たちを狂わしてる現実に目を向けなければまだまだこのような被害にあう、逃げ場のない、逃げ場を探す子供たちにあふれるだろう。
僕はあえて予測する。
これからの社会、子供たちに希望のない暗黒の社会がもっとやってくると。
少女買春や少年犯罪はもっと多発していくだろうと。
ちなみに僕は学校崩壊や学級崩壊という言葉がでなかったころ、大検の予備校のディベートの授業でこういったことがある。
「このまま進めば、大人たちが自分たちの責任から目をそらし続けるかぎり学校は崩壊するだろう」
と。
結果その通りになった。
だからあえて言おう。
このまま進めば学校学級どころか社会構造を支える子供たちが犠牲になり、社会というものが崩壊すると。
話がそれたので元に戻すことにしよう。
僕の大検時代の話。
当時は充実していた。
だから車の免許もとり、バイトもした。
バイトをするよりも、なくした青春を取り戻したかった一身で、友達とも積極的に遊んだ。
バイトをサボることも多かった。
正確には僕にマッチするバイトがなかった。
サボったときの母は鬼のようだった。
しつように、ストーカーのように僕の居所も突き止め、僕が恥をかくことなぞ知ったことではないというように、外出さきで怒鳴られた。
また、それがストレスで、チックが酷くなる要因になった。
最悪の毒親。
それが母の姿だった。
そして父は仕事に酒におぼれ、家で暴力をふるった。
家が荒れた。
父も母も毒親と化していた。
だから家にいるのが嫌だった。
家には帰ったが、親がいない、親が寝ているときか、仕事にいっているときしか帰らなかった。
友人と遊び歩いていた。
もちろんマッチするバイトも見つけた。
ゴルフの蹴球のバイトだったが、それは大変だったが長続きした。
車の免許をとり、ボロイ中古の車を買い、よくそれでドライブしていた。
家にいるのが嫌だったから。
友人たちともよく出かけた。
とても楽しかった日々が続いた。
当時僕は友達にこういわれたことがある。
「であった当時は心が凍りのようになっていたね」
と。
大検に入った当時は人を信用してなかった。
友達という感覚もなかった。
人間は所詮差別するクズだと思っていた。
しかし大検でであった友人たちがその心を溶かしてくれた。
トゥレットの症状も友達たちのおかげで緩和していった。
親はまったくの役立たずであった。
いろんなバイトを経験した。
引っ越しに宅配。立ち食いそば屋など。
とても充実していた。
大検に要した時間は4年。
楽しかったので勉強をするというより遊びにいっていた感じである。
だから4年もかかった。
21歳の時に大検にすべて合格した。
楽しかった大検の日々が終わりを告げた。
大検といっても今の制度と違い、あくまで大学入学資格。
大検ととっただけでは中卒と同じ扱い。
だからそのうえの専門学校なり大学なりにいかねばならなかった。
受験勉強の始まりでる。
しかし大検に受かったのは夏。
そこから勉強しても受かるわけがない。
もちろん大学受験には失敗した。
そして母に言われた言葉である。
「働かないものを食わせることなんかするか!働け!嫌なら出ていけ!」
鬼、毒、まさにそんな親だった。
僕には当時は目標があった。
歴史と車の整備に興味があり、その両方をかなえる大学が存在することを知ってそこにどうしても行きたかった。
しかし母は再度の受験を、
「金がない!!」
の一言ですませて、再度の受験をさせてはもらえなかった。
そして、
「働け!出ていけ!」
しか言わなかった。
僕は22歳のときに引きこもりになった。
なにがしたいか、なにができるかわからなくなっていた。
正常な判断能力が母のプレッシャーでできなくなっていた。
半年間引きこもった。
半年後、親に反抗した。
無理やり予備校の願書を持ってきて、入学届けを済まして、親に叩きつけた。
あとは無視。
所詮世間体しか気にしない母である。
しぶしぶ払ったらしい。
そしてやはり夏から勉強し、大学受験に臨んだ。
しかし勉強3か月で受かるわけがない。
やはり大学受験に失敗した。
当時のチューターさんのこう聞かれた。
「もう一年やってみる?」
僕が行きたかった大学はそれほどレベルが、偏差値が高い大学ではなかった。
一年きっちり勉強すれば受かる。
そんな大学だった。
だからチューターさんもそれを勧めた。
しかし母は違った。
「無駄な金使って!働け!出ていけ!」
それしかなかった。
その当時僕の欲しかった言葉は、
「何年かかってもいい。行きたい大学にいきな。もう一年がんばってみな。」
ただこの一言が欲しかった。
しかし現実は、
「働け!!働けないなら出ていけ!!」
これだけ。
僕は自分がやりたいこと、やりたかったこと、全てなくした。
正常な判断できなかった。
母の怒号が毎日頭に鳴り響いていた。
そして受験できないとチューターさんに言った。
すでに正常判断能力ないのである。
中卒ではどこも雇ってもらえない。
なんとかしなければ。
頭はそれでいっぱいだった。
判断がつかないまま。自分の本当にやりたかったことを見失ったまま専門学校を探した。
そしてビジネス系の専門学校に無理やり入学届けをだした。
そこに行きたかったからではない。
即戦力として働くため。
親のプレッシャーがそうさせた。
大検時代に充実した毎日がトゥレットをかなり緩和して、だいぶおさまっていたのだが、この時期はプレッシャーで再度悪化いていた。
全ては母のせいだった。
後に思う。
母がこのとき正常な判断を、毒としてふるまわなければ、母の今の苦労、報いはなかったのだが。
母は今大変苦労している。
僕にお金を払い続けている。
大学受験より高くついているだろう。
このときぼくが欲しかったたった一言があれば大学に行っていただろう。
そして塾の講師なり学校の先生なり、または整備士なりになってちゃんと社会生活を送っていたと思う。
しかしそれができなくなった。
このときの判断を間違ったから。
今母は僕に贖罪という形でお金を払い続けている。
一生、母は生きている間払い続けるだろう。
自業自得とはこのことである。
しかしそれも裏切られた。
今現在は生活保護という形で僕は生きている。
誰からの援助も助けもなく。
親とは絶縁した。
ある意味親と絶縁したことで肩の荷は降りた。
親が親をしない。
最後の最後まで毒。
自己弁護と自己保身。
そして自己都合。
それしか考えない親。
そんなものは親ではないと思う。
子供のためにどれだけ命を削れるか。
それが親。
だからこそ、それに答えて親孝行する。
無償の愛なんてない。
逆を返せば、親の無償の愛があるからこそ、親を大事にするだと思う。
ないのに大事にはできない。
親からの生活支援は打ち切られ、絶望の中での生活保護。
ある意味よかったかもしれない。
余計な柵がなくなって。
自分の親というものが、親というのがどういう存在か、また学ぶ機会があった。
だから僕は今苦しい生活事情でも後悔はしていない。
すこし余談がすぎた。
この話はまたあとで詳しく記そうと思う。
話は戻る。
専門学校の入学にも金はかかる。
バイトで学費を返すという条件のもと専門学校に入った。
別に行きたかった専門学校ではない。
焦って決めた、働くための学校だった。
このときの僕はまた人間不信。
人間が嫌いになっていた。
引っ込み思案になり、誰とも口を利かなかった。
身体を鍛えることはやめていなかったが。
そして頭を鍛えることもやめてはいなかった。
読書を大量にし、知識と知恵をため込んだ。
孤独は人を強くするというが、この引きこもりのとき僕は強くなった。
専門学校入学。
僕は一念発起した。
変わろうと。
僕自身が変わらなければなにも動かないと。
もっと積極的に人間にかかわっていこうと。
そして強い自分になろうと思った。
より強く、より折れない精神に。
ひたすら強い人間になろうと思った。
誰にも負けない強い人間。
知識も知恵も暴力も。
専門学校入る直前、徹底的に鍛えた。
鍛えてから、入学した。
トゥレット症状を強い精神力で抑え込んだ。
そして世界がまた変わった。
まずバイト探し。
新宿の立ち食いそば屋でアルバイトをした。
同年代が多くい、最初は大変だったが楽しかった。
このころ思った。
仕事はなにをするかというより、人間なのだと。
このころであった人たちとは今でも付き合いがある。
充実したバイト生活だった。
専門学校はまずオリエンテーションのときに近くにいる人に真っ先に声をかけた。
強い自分、頼りになる自分。
そういうペルソナをつけて。
トゥレットを抑え込みふつうの人としてふるまった。
学校が始まり、道化を演じた。
面白い、頼りになる兄貴分。
それが僕だった。
そのおかげか友達はたくさんできた。
初めての彼女もできた。
学校にアルバイト。
勉強といっても資格を取るだけの勉強。
義務教育や高校と違って、仕事のための勉強。
ある意味やりがいはあった。
無理やり決めて行ったところではあるが、充実した毎日を送っていた。
トゥレットの症状もこの時期はほとんど緩和していた。
親は僕がちゃんとバイトしている。
働いているということで、なにも言ってこなかった。
所詮は働けば、お金を稼いでくればなにもいわない人たちである。
というかお金にしか興味のない親である。
働いてればいい。
僕に無関心な親。
それがそのときの親の姿。
そういえば思い出す。
僕は親に褒められたことが一回もない。
嘘をつき、騙されたことは何回もあったが。
昔の話。
小学校のときに剣道の大会である順位をとったらラジコンを買ってくれるという約束をした。
その順位をとったが、知らぬ存ぜぬで、買ってはくれなかった。
中学入学のときも合格したらコンポを買ってくれる。
受験を頑張ればコンポを買うという約束だった。
反故にしされ、無視された。
どんなに頑張っても、どんなに努力して結果をだしても一切褒めてもらえない。
逆に人前では馬鹿にされた。
出来の悪い、出来損ないの子と。
子供を平気で騙し、自分の利益にしかならないことしかやらない。
それが僕の親だ。
専門学校の頃は完全に親とは隔絶した生活を送っていた。
学校とバイト。
充実していたので、家は夜遅くに帰り、親がいないときに家を出る。
親とは一切口を利かない。
そんな生活だった。
家は居心地が悪かった。
安心できる場所ではなかった。
僕の居場所が学校とバイト先だった。
だから仕事もないのにバイト先にいったりもした。
そしてバイト先で遊んですごしていた。
学校では彼女も友達もいたおかげで、楽しい青春時代をすごいていた。
失ったものを取り戻すがごとく貪欲に青春していた。
成績は微妙だったが、楽しかった。
しかし、その頃の僕は傲慢になっていた。
頼られる自分。
面白い自分。
頭のいい自分。
強い自分。
そんなペルソナをつけていたせいか、それが自分と勘違いし、傲慢になった。
その結果、彼女に振られた。
振られたとき彼女に酷い言葉をかけた。
今でも後悔する。
人を傷つけるのが嫌いな僕が、エゴに支配されて人を、女の子を傷つけてしまった。
ただその反面友人関係。
特にバイト先の友人関係はより充実していった。
毎日のようにみんなで酒場に繰り出し飲みにいっていた。
トゥレットには睡眠が重要なのであるが、若さが、活力が、そしてなにより充実した日々がそれを補った。
家にはほとんど帰っていなかった。
飲んでは朝帰り。
そして少し寝て学校に行き、バイト。
また飲みに行く。
そんな生活が続いた。
だが、専門学校は2年生。
就職活動が始める。
とにかく働かなければならない。
そうマインドコントロールされていた。
というより強迫を親にされていた。
懸命に最初は就活をした。
しかしどこも落とされた。
特に自分がチック症を持っているというと必ず落とされた。
学校で資格もいくつかとった。
だがなにも役にはたたなかった。
ひたすら面接の日々。
でも希望だけは捨てていなかった。
頑張っていれば報われる。
そう信じて就活した。
その頃、バイトで働いた自分のお金で、自分の部屋にテレビを買った。
親となるべく顔を合わせないためであった。
しかし。母親は言った。
「こんな無駄なもの買って!」
テレビのアンテナが、
「邪魔!」
と怒鳴られ引きちぎられていた。
自分の汗水流し働いたお金で買ったものさえ否定された。
母自身が気に入らないという理由で。
最低の人間だと思った。
僕はしかたなく外つけのアンテナを買い、ノイズだらけのテレビを見ていた。
この一件以来、完全に親とは心が離れた。
そして就活を止める事件が起きた。
交通事故。
車の運転に調子になっていた。
雨の日の運転でスリップをしてしまい、生きるか死ぬかの事故を起こした。
顔面18針縫った。
手首も折れた。
奇跡的に助かったが、この後の人生を見ると、このときなぜ死なせてくれなかったのかと神様を恨む気持ちでいっぱいである。
この事故で自宅療養が続いた。
ほぼ寝たきり。
就活のチャンスを逃がした。
怪我が治り、学校に復帰したころは就活するにはギリギリだった。
焦った。
このまま就職浪人だったら・・・
親の恐怖がまた頭によぎった。
チックを持っていることをひた隠し、面接を受け続けた。
このころ親ストレス、そして就活のストレスで、一時期おさまっていたチックが再発した。
だんだんと酷くなっていっていた。
なんとか精神力で押さえていたという状況であった。
就活も終盤戦。
なんとか一社内定をもらった。
そのときは心の底から安堵した。
その会社がラック企業だとわかったのはあとになってのこと。
とにかく就職きまり、あとは遊ぶのみ。
そう頭を切り替え、徹底的に遊んだ。
みんなと飲みに行った。
毎日のように飲み歩いていた。
バイト先の友人の家を転々とし、遊びほけていた。
家にはほとんど帰らなかった。
そのおかげで卒業後も学校で補修を受けなければならなかったが、苦ではなかった。
色々あったが、楽しい学校とバイト生活。
そんな2年間だった。
社会に出た。
就職した。
それがまた転機になった。
そして僕の暗黒の人生第二章の始まりとなった。
最初は営業職という肩書で入社した。
正社員という話だった。
しかし、その会社はいつまでもバイト扱い。
給料だけは固定給の安月給。
そして残業をひたすらさせた。
印刷会社だったのだが、印刷は一蓮托生などとわけのわからない文言で、僕は仕事が終わっても、他の人が終わってないからという理由で退社はゆるされなかった。
残業代がでるわけでもないのに。
しかし家では、親はそれがさも当たり前かのように、僕に無関心でいた。
銭を稼いでいるから、働いているからそれでいいと。
どんなにブラックだろうが、働いればそれでよし。
会社でのストレス。
そして無理な残業。
さらに家のストレス。
僕のチックは徐々にというか急激に悪化していった。
チックが悪化するとともに会社でまた差別にあった。
頭をバンバン叩くチックと、つばをぺっぺっと吐くチックがでた。
会社の社長にそのバンバンやめろ!と怒鳴られた。
つばを吐くことを気持ち悪がられた。
もちろん常人からしたら気持ちの悪い行為だと思う。
しかしそういう症状なのである。
やめようにも辞められるわけがない。
自分自身でもどうにもならない。
自分でも自分が気持ち悪い。
症状を抑えようとすればするほど悪化して症状がでる。
それの繰り返し。
会社がどんどん居心地が悪くなった。
もともと居心地のいい会社ではなかったが、より会社に居場所がなくなった。
このままこの会社にいれば気が狂う。
そう思った。
そして会社は僕が営業職で入社したはずなのにいつのまにか、僕の意向も聞かず、工場勤務。
それもバイト扱い。
そして入社歓迎会では僕は社長の隣に強引に座らされ、馬鹿にされる、チックを笑いの種にされる、差別の対象として扱われた。
ほんとうにこのままここにいたら気が狂う。
その強迫観念が僕を支配した。
早くこの会社を辞めなければ。
それでいっぱいになった。
誰にも相談する人などいなかった。
逃げ場所なんてなかった。
僕の話など聞いてくれる人などいなかった。
三か月。
会社に辞表を叩きつけ、やめた。
そしてそこからが地獄の社会人生活のはじまりでもあった。
今にして思う。
よく死ななかったなと。
なんど自殺する機会があったかもしれない。
それでもなんとか生き抜いた。
生きなきゃ。
それだけ思っていた。
死んだら、僕を馬鹿に差別した連中に負けてしまう。
親に負ける。
それだけが僕の支えだった。
会社を辞めても家に居場所はなかった。
「なぜ辞めた!!」
そればかりを責められる日々。
早く働かなくては。
焦りだけが強くなっていた。
毎日のように求人広告や雑誌をみた。
とにかく働く。
自分のやりたいことではなく、やらねばならぬこと。
チックの症状の酷さは相変わらずだった。
しかしそれで就活をやめるわけにはいかない。
ひたすら面接の毎日。
家にいるときは毎日履歴書を書いていた。
なんとか大手厨房機器会社に就職が決まった。
「こんどはいいところであってくれるといいな」
期待だけはあった。
ふたを開けてみると、同年代などいなくおっさんとおばさんばかり。
駒のように扱われた。
荷物運びとして。
そしてルートセールスという話だったのに、新規顧客をとってこい。
飛び込みしてこいと、まったく面接と違うことを言われた。
できない僕はハブにされた。
汚い車、冷房もついていないゴキブリのでるような車で移動させられた。
最悪だった。
自分たちは早く帰るくせに、僕には居残るように言われた。
また残業代もつかない残業の日々。
ブラックだった。
最終的には法律を盾にとられ、きてもこなくてもいい扱い。
一か月後にはやめて。
そしていやがらせ。
少しでも営業にでようとすると、無駄なハンコ押しをさせられ、自分からやめるように仕向けられた。
そんな日々が半年続いた。
限界だった。
チックももちろん気持ち悪がられた。
ここにも僕の居場所はなかった。
いやがらせに、いじめに耐えながら仕事する、雑用をすることは限界だった。
だから辞めた。
社会にでたとき大人はいじめなんてしないだろうと勘違いしていた。
大人のいじめのほうが子供より陰湿で酷かった。
特にその頃上を牛耳っていたのは団塊にバブル。
最低の世代。
日本をよくしたなどと豪語しているが、現状の日本を、廃頽する日本を作ったやつら。
日本をダメにしてきた人たち。
働いてなんぼ、金稼いでなんぼ。
自分たちは楽をするが、人は苦労しろ。
そんな世代の集まり。
僕はそんな社会になじめなかった。
そしてまた転職。
今度はいつ辞めさせられてもいいように労働基準法を徹底的に学んでから臨んだ。
理論武装した。
チックも隠した。
そして印刷会社の営業に決まった。
もちろんチックに対するいじめがあった。
そこもブラック。
最悪の場所だった。
なにをされたか覚えてないほどひどかった。
最終的には解雇勧告。
仕事ができないから。
そんな理由だった。
そんな理由では解雇理由には当たらないことは勉強していた。
法律をたてにとり、ハローワークに訴えた。
そして法律違反ということで、力と頭で数十万のお金を解雇手当にもらった。
鍛えなければ、強くならねば生きていけない。
弱い者は死ね。
それが社会だと学んだ。
だから強くあった。
徹底的に頭を鍛えた。
法律を学んだ。
会社に負けない自分を作った。
理論で徹底的に武装した。
そのころチックは最悪に一途をたどっていた。
不眠症がでた。
家でも眠ることができなかった。
強迫神経症も酷かった。
自傷行為の繰り返し。
運動に音声チック。
苦しかった。
しかし親はそんな僕を知らぬふり。
働いてない僕を軽蔑の眼差しでみていた。
僕は考えた。
どうしたらいいか。
お金は大量にある。
どうすれば自分に合った仕事にであうか。
正直迷走していた。
本当に自分がしたかった仕事はある。
車と歴史が好きだった。
車の専門学校に行き整備士の資格。
また大学に行き教職や研究者。
それが夢。
所詮夢。
金を出すのは親。
親がそんなものは無駄、働けといえば従うしかない。
僕は今あるお金でできること、なにをすればいいのか必死に考えた。
専門学校の頃DTPという仕事はどうかと勧められたことがあった。
それを思い出し、今一度それを学ぶべくそういう学校に入学を申し込んだ。
三か月で習得できる。
それを信じた。
会社を解雇になってもらったお金はそれに使った。
今思えばもっと使い道があったのかもしれない。
しかし追い詰められて、迷走していた自分に正式な答えなど導きだせなかった。
夢は夢。
やりたことなどさせてもらえる環境ではなかった。
働かないものは出ていけ。
金をかせげないものはいらないもの。
そんな団塊の思考が親を支配していた。
だから迷走していてもやるしかなかった。
逃げ場なんてなかったから。
学校に通い勉強した。
DTPを学んだ。
基礎知識だけであったが。
充実なんてしてなかった。
人間性は希薄だった。
学べればいい。
次の就職につながればいい。
それだけ。
それだけのために通った。
身体はとうに限界を超えていた。
睡眠障害、チック、強迫神経症、ADHD、躁鬱病・・・
朝起きられない。
出かけられない。
身体が、精神が悲鳴を上げていた。
しかし食うにはやらなければならない。
無理やり学校行き、就活した。
そして学校が終わり、DTP会社に勤めたがブラックの嵐だった。
法律を合法的に使い解雇の連続。
何社も面接を受け落ちまくった。
履歴書は何枚かいたかわからない。
何社落ちたかわからない。
何社解雇になったかわからない。
ひたすら身体に鞭をうち就活と働くのを繰り返し。
解雇理由は技術がないからということだったが、それは建前。
チックが、トゥレットが気持ち悪かったから。
身体も精神もぼろぼろ。
躁鬱の繰り返し。
会社などまともにいけるわけがない。
すでに壊れた精神と身体だった。
身体と心をごまかし、ごまかし行っていた。
とある会社では残業代などでず、24時間働かされた。
朝に会社に行き、帰るのは次の日の朝。
そしてまた昼には会社に。
そんな日々もあった。
精神も体もボロボロだった。
限界だった。
ハローワークに通うのも苦痛だった。
だんだん就職と就職の間隔が長くなっていった。
だんだんと引きこもるようになった。
夕方まで寝て。家を出、親が寝た頃家に帰る。
そして親が起きたらねる。
外にでてもお金はない。
ただぶらぶらと歩きまわる。
ただ歩く。
そんな日々だった。
居場所なんてどこにもなかった。
逃げ場もなかった。
話を聞いてくれる人もいない。
誰も助けてくれない。
ただ漫然とした地獄が続いた。
何度死のうかと思った。
死ねば楽になる。
死ぬ。
そればかり考えていた。
親に顔を合わせれば、働かない僕を責める一方。
僕の体調など考えてはくれていなかった。
働けば正義。
それ以外はいらない。
それが僕の家。
ある日父親にいったことがある。
責められる僕はある日反抗してこういった。
「私立の中学にいれたことが失敗だったじゃないか!あんたたちのせいだ!」
と。
かえってきた答えが、
「あー失敗だったよ、それがどうした。」
反省もなにもない。
開き直り。
唖然となった。
こいつらほんとの馬鹿だと思った。
そして親を完全に憎むようになった。
とうに親を憎しみの対象としかみてなかったが、それが完全になった。
ごはんを食べさせてくれるから。
少しは慈悲の心はあった。
それがなくなった。
こいつらいつか殺す。
老後の面倒などしらん。
そう考えるようになっていた。
僕にとって親は親でなくなった。
あくまで他人。
ただの同居人。
それ以外のなにものでもなかった。
チックはどんどん酷くなり家に籠る日々がどんどん多くなった。
夜中は外をただ歩き、深夜は部屋の中で、一人でぼっとしている。
昼間は寝て入る。
そんな毎日。
就活もうまくいかない。
なにをやってもうまくいかない。
生きることが地獄でしかなかった。
家をでたかったが、金がない。
家にいるしかなかった。
逃げ場なんてどこにもなかった。
チックを助けてくれる、僕の現状を助けてくれる人などいなかった。
強くあろうとしても、無駄だった。
どんなにあがいても、強くあろうとしても挫かれた。
死ぬ。
これしか頭になかった。
どうすれば死ねるのか。
どうやれば死ぬのか。
死ぬとはなんなのか。
それしか考えてなかった。
死に頭が支配されていた。
生きる希望なんてなにもなかった。
友達は一人いたが、そんな話ができる友達ではなかった。
ただ彼といると気分転換になった。
だから彼の家によく遊びにいっていた。
他に友達などいなかった。
いなくなったというべきか。
裏切られる。
信用などしても結局裏切られて、恩を仇で返されておしまい。
それが僕の人に対する認識。
人間なんて信用してなかった。
大検時代の友達はそれぞれの道に進んだ。
僕が連絡をつけてある程度は繋がっていたが、僕が連絡をしなければ、連絡などなかった。
僕は忘れられた人。
自然と消滅していった。
いくら当時偉そうなことを言っていた人たちも結局その程度かと認識した。
口だけ。
今が楽しければそれでいい。
そんな連中だと思った。
専門学校時代の友達もそうだ。
僕から連絡しなければ連絡なし。
希薄だった。
一人専門学校から社会人にかけて付き合っていた友達はいたが、結局裏切られた。
そいつの人生の半分を僕が決めたのに。
恩を仇で返された。
そいつの話をしよう。
あるとき僕が二社目を辞めさせられたときのこと。
そいつも同じ二社目を辞めた。
就活では苦労していたので意気投合していた。
僕はその頃積極的に専門学校時代の就労科の先生に相談していた。
次のいい会社はないか。
なんか紹介してもらえるようなとこはないか。
彼はなにもしていなかった。
ただ家でのんべんだらりとしていただけ。
その先生に積極的に働きかけたのに、先生がよい就職先を紹介したのは僕ではなく、ただのんべんだらりと過ごしている彼だった。
僕はそうとは知らず、先生に相談し、ハローワークに足蹴もなく通い詰めていた。
彼はその紹介された会社に決まり、僕はハローワークで見つけたブラック企業に。
その話を知ったとき先生に裏切られたと思った。
一番信用していた人に裏切られた。
ショックだった。
もうその先生は頼らない。
自分の力でなんとかする。
そう決意した。
結局、努力なんて無意味と思った。
裏切られておしまい。
なんのための相談だったのか。
結局その先生には僕は鬱陶しかっただけ。
その先生に彼のことも相談していた。
他人なのに。
その先生は彼を選んだ。
酷い仕打ちを受けたと思った。
より人間不信になった。
そして僕はそのブラック企業を解雇。
その彼は自分のエゴでその会社を辞めた。
しかしその会社でスキルを身に着けた彼であった。
次の就活。
大手企業を見つけた。
彼も誘った。
しかし彼はしぶって面接にいかないと言っていた。
なんとか説得し、彼をその会社の面接に連れて行った。
スキルの差が出た。
彼が先生に紹介された会社でつけたスキルによって彼は合格。
僕はスキルがないから不合格。
その先生によって、その先生の差別によって努力していた僕は地獄、なにもしていない彼は天国だった。
その後彼に僕のストレスの発散に付き合ってもらおうと、別にそこの会社を紹介した、その会社に無理やりでも面接を受けさせて、うまくいった彼に恩を返せというわけではないが、少し愚痴を聞いてもらいたかった。
ちょうど大晦日。
街はわいわいとにぎやかだった。
その中馬鹿騒ぎをすれば気分が晴れると思った。
しかし彼はうっとうしそうに、
「こんなバカさわぎくだらない」
「家でのんびりしたい」
とエゴ丸出しのことを言われた。
僕に付き合うのが面倒ということである。
自分の人生うまくいったからそれでいい。
それまで彼を導いてきた僕なぞどうでもいいということだった。
彼には学生時代もかなり目をかけていた。
面倒を見ていた。
色々な相談にのり解決していた。
彼が生命保険にはいってないということで相談されたときも、僕の知り合いのかなり良い生命保険を紹介した。
そのすべてを、恩を否定した、
仇で返された。
最悪の大晦日。
年越しの音を一人帰りの電車の中で聞いた。
心が冷えきった。
その後彼とは連絡をとっていない。
という彼からは20年たった今も連絡はこない。
風の便りによるとその会社でうまくいっているらしい。
その会社は僕が無理やりでも彼のためにと面接を受けさせた会社なのに。
僕は引きこもりのニート。
就転職を繰り返し身体も精神もボロボロになったキチガイ。
彼は僕のおかげで成功者。
成功したら縁を切られた。
だから僕も縁を切った。
少しでも良心とか常識とかある人なら電話でもかけて礼の一言でもあるだろう。
しかし20年たった今も音信普通。
僕はこいつにこいつのためになにをしてやったのだと思った。
彼は、こういう人間は最低の人間だ。
ごみクズ以下の豚だ。
恩義すら感じられない人間は死んだ方がましだと思う。
人間の常識すらない。
彼に対する僕の思い。
その彼をひいきした先生への思い。
だから僕は友達なんていらない。
裏切られるなら一人でいい。
孤独のほうがいいと思った。
所詮は人間というものは裏切るいきもの。
男も女も裏切る生き物。
そう認識した。
僕が唯一気分転換できる友人は一人だけ。
その彼は恩に恩を返してくれる、立派な人だった。
だから今でも付き合いがある。
僕が連絡しなくても連絡をくれる。
いいやつである。
しかし、その彼には僕の苦悩は話せなかった。
彼はいいやつだったから。
そのいいやつに僕の愚痴など聞いてもらって気分を害してもらいたくなった。
僕なりの気遣い。
だから話せなかった。
だから僕の友人は今でも彼一人である。
友達がいない。
それはある意味本当であり、少し違う。
気分転換できるやつが一人いたから。
しかし相談や愚痴を聞いてくれる、僕の逃げ道になってくれる人はいなかった。
結局孤独だった。
孤独、孤立、そんなものが僕を支配していた。
ただ漫然と死を考えて生きる。
そんな毎日。
生きているのがつらかった。
しかし死ねなかった。
どっちにも転べない。
精神は、心は死んでいるのに、肉体はある。
そんな状態だった。
生きる意味、生きていることの意味。
そんなものを失っていた。
意味すら見いだせなかった。
なぜ僕は生きているのか。
なぜ死なないのか。
どうすれば楽になれるのか。
そんなことばかり考えていた。
そんな中転機がまた訪れた。
引きこもりニートに。
チックが酷く、社会にもでられず、身も心もボロボロ。
睡眠障害で寝ることもできず、強迫神経症で自分を傷つけ、躁鬱で気分障害。
ただ街を歩き、夜起き、昼休む。
漫然とした、ただ生きている、心臓が動いているから生きている、そんな状態。
そういう中でたまたま見かけた新聞の記事。
それが僕の転機だった。
新聞にはトゥレット障害の記事が載っていた。
小さくではあったが。
それまでは僕はただのチック症だと思っていた。
なにもできない僕自身が悪い。
怠け心が悪い。
僕が全て悪。
そう認識していた。
心がすさんでいたのも結局僕の努力不足。
そう思っていた。
しかしそのトゥレットの記事は違った。
脳神経の病。
治ることのない先天的な病気。
そしてそこには日本トゥレット協会の連絡先と、のちに僕の主治医になる先生の話が記載されていた。
藁をもつかむ気持ちだった。
僕がこの病なら、この先生を頼ればなんとかなるかもしれない。
社会に復帰できるかもしれない。
そう思った。
少しだけ希望が見えた瞬間だった。
記事をみて、数日後日本トゥレット協会に連絡した。
日本トゥレット協会は発足したて。
まだNPO法人にもなっていない小さな協会だった。
高木さんという協会長が電話にでた。
子供がトゥレット障害ということだった。
高木さんは僕の話を一生懸命聞いてくれた。
そして僕を励ましてくれた。
心が救われた気がした。
そしてトゥレットを専門的に見ている病院を2つ紹介してくれた。
生きている意味など、生きていることなどわかりはしなかったが、心が少しだけ前を向いた。
なんとかなるかもしれない。
社会という場に適応できる人間になれるかもしれない。
ちゃんと働けるかもしれない。
少し希望が見えた。
高木さんのお子さんもトゥレット専門医にかかりかなり症状が落ち着いているという。
そして前向きに生きているという。
だから僕もできるかもしれない。
そこにかかれば僕もまだ生きていけるかもしれない。
そう思った。
29歳の頃であった。
さっそく一つの病院に連絡した。
そこは小児科だった。
大人が小児科にかかるのは抵抗感があったが、希望が見えたのである。
逃すわけにはいかない。
どんな恥も捨てるべき。
もともと高木さんの話だと現在のトゥレット医院は小児科しかないらしい。
大人のトゥレットを見てくれる医院はないと。
小児のときにちゃんと適切な治療を施せば、大人になったときに社会生活には支障がでないらしい
僕は子供の頃適切な治療を受けていなかったという証明になった。
そして日本のトゥレット医療がどれだけ遅れているかという現状を知った。
大人のトゥレットで苦しんでいる人は僕以外にもいるという現実がわかった。
日本の精神医療は後進国である。
欧米に比べ20年は遅れている。
そんな現実を知った。
だから小児科しかない。
現在でも発達障害は子供の病気と認識されている。
発達障害の治療も子供優先。
子供はクローズアップされているが、大人の発達障害は見て見ぬふりをされている。
日本はどれだけ遅れていのか・・・
呆れる一方である。
病院に電話すると親を連れてくるように言われた。
なぜ親か。
結局は親に、幼児期に小児期にどういうことをしてきたのか。
それが知りたいということらしい。
原因は不明だが、発症には親の要因がかなりあるらしい。
親の話を聞いて、親から治す。
それがその小児科のスタンスだった。
早速母にそのことを伝えたが、返っていた答えは、
「仕事があるのに無理に決まっている。いけるわけがない」
だった。
行く気もない。
子供のことなどどうでもいい。
自分が可愛い。
自分はめんどうをこうむりたくない。
自分の邪魔をするな。
トゥレットは自分のせいではない。
お前のせいだ。
あくまで責任逃れ。
僕のことなど一ミリも考えない。
自己保身ばかり。
言い訳ばかり。
お金が大事。
仕事が大事。
自分の邪魔をするものは排除。
子供のトゥレットなどには興味など一切ない。
働かない、金を稼いでこない僕には興味などない。
金を稼ぐから、働くから家にいさせる。
都合のいい道具。
僕は母にとってはそういう存在らしい。
それが僕の母。
父はそもそも無関心。
自分は関係ない。
子供になにも悪いことなどしていない。
自分を顧みず、酒におぼれ、酔って暴れる。
僕など最初からどうでもいい。
それば僕の父。
僕は途方に暮れた。
最後の希望にもう一つの大学病院に連絡した。
その先生はトゥレット研究の権威だった。
先生に直接アプローチした。
アポなしで。
先生は話を聞き、親はいらないといった。
親がいればもっと状況や治療法がわかるのだが、その状況ではしかないということらしい。
先生はとにかく予約を取り病院くるようにと言ってくれた。
少し希望が見えた。
なんとか親に病院代を懇願した。
親は渋り文句をいいながら最低限のお金をだした。
あくまで金の亡者。
それが親の姿
最低だと思ったが、このころは親を恨む気持ちでいっぱいだった。
利用できればいい。
利用価値がなくなれば、殺せばいい。
そう思っていた。
いくばくかのお金を持ちさっそく病院いった。
先生に直接対面したときにこういわれた。
「トゥレットを治してなにがしたいの?」
と。
僕は通常の社会生活が送りたいと答えた。
そして言われた言葉は、
トゥレット障害は、緩和はできるが治らないということ。
そして通常の社会生活など現状では無理ということ。
少し、いやだいぶ休養の時間の時間が必要だということ。
そして僕の症状を聞き、トゥレット障害と断定した。
僕はこのときはじめてトゥレット障害者になった。
トゥレットを緩和してもまともな社会生活は送れない。
目の前が真っ暗になった。
絶望した。
社会生活まともに送れる。
トゥレットが治る。
それだけが希望だったのに無理と言われた。
僕は希望をまた失った。
しかし先生は熱心に話を聞いてくれた。
打開策こそだせなかったが、ある程度の緩和はできるからということで、薬を処方された。
先生は薬物治療があまり好ましくないというスタンスだった。
最低限トゥレットに聞く薬と、トゥレットにとって睡眠と休養が大事ということで、睡眠導入剤、そして躁鬱薬。
あとは強迫神経症をおさえる薬。
それだけをだしてくれた。
トゥレットに利く薬といっても特効薬ではない。
他の用途に作られた薬がトゥレット緩和に効き目があった。
だから今はそれを多用しているというだけらしい。
利く人と利かない人がいる。
とにかく、4種類の薬。
それ以上はだせない。
その薬を色々変え、自分に会う薬を見つける。
それが先生の方針だった。
まず薬を処方して飲む。
僕のトゥレットの治療の日々が始まった。
先生の論文を読む機会があった。
トゥレット障害は数万人に一人割合ででる難病らしい。
幼児期に発病し、適切な治療を施さないと大人なってから症状が悪化するということ。
そして社会生活ができなくなるということを知った。
幼児期に適切な治療を施せば、20歳前後に治る可能性が高いらしい。
僕が子供ころ、心霊治療、鍼灸、催眠療法・・・
全部無駄であったということを知った。
親はろくに調べもしないで、自律神経がおかしいだけと断じて、そんな無駄なことをやっていた。
子供のころ。
少なくとも高校時代に適切な治療を受けられていたのなら。
僕はこの親の元に生まれて心から後悔した。
こんなことなら、生まれたとき半分死んでいたなら、そのまま放置して死なせてくれればよかったのに。
そう心から思った。
ある日のこと。
まだ先生に出会う前。
テレビでADHDの特集をやっていた。
症状が完全に僕に当てはまっていた。
それを母に伝えると、
「そんなことあるわけがない」
と一蹴された。
しかし蓋をあけてみたら、トゥレットはADHDと強迫神経症を併発するということらしい。
結局僕はADHDであったと証明された。
そして強迫神経症を持ち、二次障害により躁鬱病、二極性障害を持った。
統合神経失調症も併発。
パニック障害も併発していた。
これでは生きて生きようがない。
治療に専念するしかない。
それが僕の状態だった。
そしてそんなことは親は無関心。
調べもしないし、聞く耳すら持ってなかった。
勝手に病院いってとっとと治せ。
そして働け。
金を稼げ。
働けないものはいらない。
出ていけ。
それが母だった。
最低の毒親。
心から両親を恨んだ。
こいつらが死ねば保険金が入る。
僕が楽になる。
とっとと死ね。
それが僕の気持ちだった。
初めて先生に会い、その帰りは途方に暮れていた。
治らない。
社会生活が送れない。
休養が必要。
そんなことを言われても、それを許してくれる家庭ではない。
働かないものは食うな。
家にいるな。
精神障害だかなんだか知らん。
それが僕の家。
家を出たかったが金がない。
逃げたかった。
しかし逃げ場などない。
働くしか生活できない。
病院にもいけない。
治療もできない。
匿ってくれる人などいない。
助けてくれる人などいない。
全部自分で解決しなければ、戦わなければならない。
自分でしょいこんでいかねばならない。
重い荷物。
障害という重い枷
誰も頼れない。
自分の力、それが全て。
強く、より強く。
強くあらねば生きていけない。
僕病院からの帰りの道、街を放浪しながら職を探した。
何の宛てもなかったが、なにか働ける場所はないか。
足を棒にして探した。
当時は求人情報誌くらいしか求人の探し方がなかった。
正社員では到底働けない。
フリーター。
29歳にもなってフリーター。
心が沈んだ。
やりたいことがあってフリーターをやっているならいいだろう。
しかし僕は働けないから。
でも働くしかないから。
病院に行くお金を稼がねばならぬから。
ボロボロの心身を酷使しなければならない。
どんな状態でも立って、そして戦っていかなければ生きていけない。
家は安息の場所ではない。
だから必死に街を徘徊した。
ふと目にとまった広告がそのときあった。
新宿という街を徘徊しているときである。
とある喫茶店。
アルバイト募集と張られていた。
中を覗くと学生バイトがいた。
僕は躊躇した。
29歳の僕が、障害を抱える僕が雇ってもらえるだろうか。
働けるだろうか。
学生バイトにこんなおっさんが受け入れられるであろうか。
何回も店の前を行ったり来たり。
そして広告を見て悩んだ。
悩み、往復の繰り返し。
正直怖かった。
働くということが怖かった。
「怖い。」
これで逃げるわけにはいかない。
やらなければ生きていけないのだから。
僕が女性なら身体を売って生計を立てる。
そんなこともできただろう。
というかやっていただろう。
実際に少女買春や風俗、AVなどにでている人達にはこんな人もいると思う。
女性はどうやっても生きていける。
ある種女性を食い物にと言われるが、そうしか生きられない人達もいる。
需要と供給の一致。
だからなりたっている。
それを責めるのはナンセンスというものだ。
僕が女性でなかったから。
そしてそれなりのルックスを持ってなかったから。
だからふつうに働くしかない。
それしか選択肢がない。
トゥレットを隠して、健常者のふりして働くしかない。
そんな世の中。
生きていることが息苦しい。
なぜ生きているのか。
そして働かなければならないのか。
さんざん悩んだ。
悩んだ末、意を決しその喫茶店に連絡した。
即面接。
もちろんトゥレットは隠した。
そのとき僕はまだやれるのではないかという錯覚をしていた。
いやそう思いたかっただけ。
まだふつうの人のように働ける。
頑張れる。
そう思いたかった。
だから朝のシフトにいれてもらった。
そして喫茶店に雇われた。
朝早く起き、働く。
普通のことである。
僕もできると信じやった。
喫茶店の朝は早い。
早起きしなければならない。
電車は始発。
約8時間の労働。
普通に働くのと変わりはない。
僕自身はできる。
そう勘違いしていた。
トゥレットの治療を始めたばかりである。
薬がなじむのに時間がかかる。
まだ自分に合う薬を探している最中。
というか始めたばかり。
心身ともに精神疾患でボロボロの状態である。
勤まるわけがない。
でもできる。
僕はできる。
そう信じてやるしかなかった。
一か月。
一か月は頑張った。
しかし結局は今までのツケが出た。
朝起きられない。
夜眠れない。
睡眠導入剤があってなかった。
トゥレットの薬もまだ安定してなかった。
トゥレットが酷くなり始めた。
遅刻ギリギリの連続。
遅刻も何度もした。
身体がついていかなかった。
僕の体はふつうに働くのに限界がきていた。
僕自身が自覚した。
無理だと。
しかし働かないとどうにもならない。
家にはいられない。
さんざん悩んだあげく、労働時間が短い夜からのシフトに切り替えた。
シフトに切り替える相談をマスターに持ちかけたとき、夜は学生バイトがいっぱいで入れないといわれた。
辞めるしかない。
やはり僕のような障害者は居場所がない。
結局働くのは無理。
でもそれをわかって、理解してくれる親ではない。
目の前が真っ暗になり、諦めかけた。
その時ある学生バイトの女の子が、自分がシフトを減らす予定だからそこに入ればといっていきた。
助け舟。
ほんとうに僕は首の皮一枚でつながった感じがした。
おかげで夜のシフトに移れた。
週一日のバイト。
それしか働けなかった。
でもそれで満足だった。
もちろん収入など少ない。
週一日では趣味などももてるわけがない。
バイト以外の日は街を放浪する日々。
家には親と顔を合わせないように帰っていた。
顔を合わせれば文句、愚痴、そればかり言われるから。
アルバイトは楽しかった。
週一日とはいえ、学生は定期試験などがある。
そういう日は臨時に多く働けた。
夜にいるマスターもいい人だった。
学生バイトもあまり僕を差別はしなかった。
居心地がよかった。
だから懸命に働いた。
夕方5時から夜の11時まで。
少ない時間だったが充実していた。
夕飯はもっぱら外食。
家で食べる気になれなかった。
トゥレットと診断される前に街を放浪していたときもそう。
家では夕飯を食べなかった。
顔を合わせれば、必ず文句を言われるから。
「なぜ働かない!!」
「家でだらだらとばかり!」
これが常套句。
僕の障害など考えもしていなかった。
働くもの。
稼ぐものが正義。
余談である。
少し昔の話。
僕は結構料理が好きであった。
自分で作り食べる。
自炊という行為は嫌いではなかった。
親は仕事で家にいない。
帰ってきては、
「飯くらい自分で用意しろ!!」
と怒鳴っていた。
だから自炊をしていた。
ある日、自信作のカレーを作った。
家族に食べてもらおうといっぱい作った。
母にカレーを作ったことを報告するといわれた言葉は、
「こんなごみみたいなまずいもの食えるか!!」
ショックだった。
一生懸命家族のために作ったのに食べてもらえなかった。
僕自身で全部食べた。
残った鍋を置いておくと、
「こんな邪魔なもの置いておくな!!」
とまた怒鳴られた。
料理は愛情というが、この人には愛情の欠片すらないと思った。
子供の自尊心を自分のエゴで奪う、
それが母。
最低な人間。
そして母はいう。
「子供を育てるのは初めてだから」
完全な言い訳。
自己正当化。
自分が絶対に正しい。
自分は間違っていない。
直す気などさらさらない。
自分が全て。
子供など自分の道具。
自分の命令を聞かない子はいらない。
それが僕の母の姿。
だれでも子供を育てるのは初めてである。
子供が生まれるというのはそういうことだ。
でも立派に親をやっている人はたくさんいる。
しかし母は言う。
「初めてだからわからない」
自己正当化の達人。
言い訳の達人。
僕の中で母はそう映った。
そして思った。
ならなぜ子供を作った。
なぜ生んだ。
なぜ生かした。
自分で勝手にやっておいてなにを言っている。
結局自分の快楽で勝手に子供を作っただけ。
そしてできたから生んだ。
その子は自分の道具。
毒親の典型である。
母は世の中を、そういう人間を否定していたが、己も一緒ではないか。
くだらない自己弁護の数々。
僕は思う。
こういう人間が親をしているから。
親になるべく資格のない人間が親をしている。
図体だけでかく、生殖能力があるから、できたから子供を産む。
子供が子供を育てている。
だから毒親というものはなくならないのだと。
成熟した人間。
そういったものにならなければならない。
親になるなら親の資格がいる。
親は子供を自由にすることができるが、子供は親を選べない。
だから親は親になったら親をしなければならない。
だのにしないものばかり。
そして子供が非行にはしれば、その子が悪い。
親を顧みず。
親がやってきた、大人がやってきたことなどまったく顧みず。
そんな連鎖の世界だからいまだに少女買春や子供の犯罪がなくならないのである。
そのことに誰がいつ気づくか。
今の政治家。
社会。
それではだめだろう。
結局はいつも犠牲になるのは子供たち。
そんな心に傷を抱えた子供たちが大人になっていく。
そして連鎖が起こる。
誰かが止めなければならない。
だけど誰もとめようとしない。
僕がトゥレットを発症した時代。
今から30年前から何にも変わらない社会。
これから30年後も変わらないと思う。
だから僕自身は、僕だけはそうならない。
そう心から思う。
余談が過ぎた。
話を元に戻すことにしよう。
喫茶店のバイトをしつつ、医者に通った。
薬の調整の繰り返し。
一か月に一回の病院。
正直病院は遠かったが、そこしかトゥレットを見られるとこがない。
だから通った。
そして薬の処方。
どの薬が合うか。
毎回薬の量、種類を変えている。
ある種、僕はモルモットではないかと思ったこともある。
トゥレットの治療が確立されていないから致し方ないのだが、なんとなく実験動物。
それがトゥレット治療を受けている僕の気持ちだった。
薬物治療だけではトゥレットはよくならない。
環境をよく、ストレスを軽減しなければトゥレットは緩和しない。
僕の症状は薬で多少は緩和状態に向かっていたが、家にいるかぎりは完全には良い状態にはならない。
だからバイトもないのに、意味もなくバイト先に遊びに行っていた。
どこにも僕の居場所がなかったから。
もちろんバイト先でもトゥレットはでた。
しかしバイト先はそれを差別しなかった。
というより、夜番のマスターが差別をしなかった。
だから他の学生バイトが差別できるはずがない。
それゆえに居心地がよかった。
僕の居場所、という感覚はなかったが、唯一の逃げ場。
それがバイト先だった。
どこにも行くとこがない。
行く場所がない。
そんなときバイト先に行っていた。
ただバイト先で珈琲を飲んで、マスターと話す。
たまに学生バイトをからかう。
楽しかった。
学生バイトばかりである。
僕は頼れるお兄さんという仮面をつけていた。
だからあくまで相談相手。
週一回のバイトでお金は全然なかった。
学生のほうがもっていた。
でも気に入られるために。
頼れるお兄さんを演じるためにいろいろ奢った。
苦ではなかった。
その姿。
その仮面。
それをつけていれば、僕が逃げられる場所があったから。
だから仮面をつけ続けた。
家にずっといるより楽。
家なんかにいたら気が狂う。
だから僕はそうした。
そうするしかなかった。
30に近い僕である。
そんな仮面を演じなければ学生はついてこない。
僕に居場所はない。
家にいるよりずっとまし。
親と顔を突き合わせているよりまし。
親にトゥレットで差別される。
文句や愚痴ばかりをきかされる。
収入の少ない僕をいじめる。
そんな環境よりよほど自分のお金がなくなろうが、みんなに奢り、頼れるお兄さんを演じている方が楽。
お金はないが逃げ場がある。
だから演じた。
演じ続けるしかなかった。
学生たちは僕の情報を全く知らない。
僕は語らない。
語ったところで誰にも相手にされない。
みんなが興味あるのは僕のつけた仮面。
だから仮面をつけ、相談にのり、奢り続けた。
みんなの期待に応えた。
それしか僕自身の存在意義がなかったから。
そのレッテルをなくしてしまえば、僕はただのキチガイのおっさん。
だから演じた。
演じるしか僕の居場所はない。
演じない自分を受け入れてくれる場所はどこにもない。
これは専門学校時代に学んだことである。
だから演じた。
演じていたほうが楽だから。
バイト先へ遊びにいき、夜の街を徘徊し、夜中家に帰る。
そして親が仕事に行ったときに寝る。
帰ってくるまえにまた外にでる。
街を徘徊する。
バイト先に遊びに行くか、働きにいく。
そんな毎日。
それが1年半ほど続いた。
トゥレットの治療はというと、正直お金がない。
頼れるお兄さんを演じているかぎりお金がない。
でも演じるしかない。
親は頼れない。
親はたかが病院代を出すのも面倒くさそうに断る。
平身低頭して頭をさげないと病院代はくれない。
僕の、子供のことなのに他人事。
20歳を過ぎたら大人。
親は干渉する必要なし。
というか他人。
トゥレットは親のせいでなったのに、知らん顔。
だから病院にはいった。
でも処方箋だけもらって薬は飲まなかった。
というより飲めなかった。
薬が買えなかった。
そんなお金はもってなかった。
自分の症状を抑えるより、逃げ場所を確保する。
それが重要事項だった。
だからそちらにお金をつかった。
正直身体はつらかった。
なんのために病院にいっているのかわからない。
だけどそうするしか僕が生きていく道はなかった。
街を徘徊しているとき、このまま道に飛び込めば死ねるか。
何度も考えた。
でもできなかった。
勇気がなかったから。
必死こいて血反吐吐いて生きるしかなかった。
中学からこの頃まで、いやその先もだが家は僕の部屋は荒れていた。
壁は傷と破壊された後がたくさんあった。
トゥレットで苦しい。
死のうと刃物をもっても死ねない。
ただ壁を殴り、壁を壊す。
刃物を壁に付き刺す。
そんな行為の繰り返し。
気が狂う。
家というのはそんな存在でしかなかった。
部屋の中でしかトゥレットの症状はだせない。
それ以外でだすと監視の目。
たとえばリビングでトゥレットだす。
そうすると怒られた。
文句を言われた。
だから切れた。
口論になる。
そして本棚のガラスを破壊した。
そういったストレスのせいで、風呂でトゥレットがでる。
暴れる。
親はうるさいといわんばかりに風呂の外からにらんでくる。
だから風呂おドアを破壊したこともあった。
そしてそれは全部僕のせい。
自分たちはなにも悪くない。
チックがでる僕が悪い。
チックがうるさい。
自分達の邪魔はするな。
お前は自分達の愚痴と文句だけを聞いていればいい。
父は酒に酔って帰ってきては暴力。
母は仕事から帰ってきては愚痴や文句ばかり。
そして僕を非難し責める。
お前が悪い。
全ての悪はお前だと。
死を。
死ぬことを毎日考えていた。
死んだら人間どうなるか。
死んだら楽なるのか。
死とはなんだ。
そんなことばかり考えていた。
考えすぎて眠ることのできない日々もあった。
死に取りつかれていた。
生きる希望がなかったから。
どこにいても演じなければならない。
演じない僕はただのキチガイ。
だから演じた。
外では演じ、家では部屋から一歩もでない引きこもり。
そんな生活。
しかし喫茶店の改装があった。
今いる従業員は全員解雇。
そう通達された。
実際あとで聞いた話ではあるが、オーナーという人が、店を近代的に、人員を若くしたかったらしい。
体のいいリストラであった。
残って気に入られたものだけが、外装後も働いていたらしい。
僕は気に入られてなかった。
いいお兄さんを演じても。
ただ奢ってくれる人、
金ずる。
それが僕の喫茶店での存在。
だから僕はいらなかった。
一年半の演じた生活は終わった。
強制的に終わらされた。
改装後には雇わない。
30過ぎたおっさんはいらない。
トゥレットをもっているキチガイはいらない。
喫茶店の若い人達はそう思っていた。
僕というものは、所詮はただの金ずるにすぎなかった。
どちらにしてもあとで知った話である。
その時点では知る由もなし。
僕は居場所が、逃げ場がなくなった。
そのときはそう感じた。
また新しい逃げ場を作るしかない。
必死に考えた。
また街の徘徊の日々だった。
お金もない。
家にもいれない。
かろうじて病院にはいっていたが、薬は飲めない。
買えない。
そんなお金はない。
どうしたらいいかわからなかった。
ただ街を徘徊するしか僕に選択肢はなかった。
死ねなかったから。
たまたま近くに中古の本屋があった。
そこに入り浸った。
そこで立ち読みをし、閉店になったらコンビニなど転々と。
そんな日々の繰り返しだった。
ある日、その中古本屋で見かけたバイト募集の広告。
そこの本屋は大手中古店で貴金属から服など色々扱っていた。
目に止まったのは貴金属の中古買い取り販売のバイト募集。
何回もその店の前をうろうろした。
募集広告をなんども見た。
また不安だった。
そこの大手中古店は学生バイトが多い。
僕のような30過ぎの人間なんて雇ってもらえるだろうか。
なんども考えた。
考え抜いたあげく、その店に電話した。
面接はすぐに決まった。
面接時僕は自分がトゥレットをあることを正直にいった。
これで雇ってもらえなかったらそれまでだと思った。
しかし、その時の店長は逆にトゥレットを寛大に受け止めてくれた。
数日後合格の電話。
そこで働くことになった。
しかし前途多難。
その店はよく店長が変わる。
そして学生バイトが多い。
僕のような30過ぎの新人は扱いづらかったと思う。
20代そこそこのやつにいじめに近いものを受けた。
僕自身精神障害者。
いじめに対するトラウマがよみがえった。
無理をしてバイトにいっていたが、パニック障害がまた引き起こされようとした。
どうしたらいい。
どうすればいい。
職を無くしてしまえば、また徘徊の日々。
そのころ週4程度で入っていたため、やっと病院の薬も飲めるようになっていた。
薬を飲んで、少し症状は落ち着いていた。
まだ自分にマッチングした薬ではなかったが。
薬が切れる恐怖。
お金が無くなる恐怖。
しかし、バイト先にも居づらい。
悩んだあげく店長に相談した。
辞めたいと。
その時の店長はとてもいい人だった。
僕の真意を悟ってくれたらしく、学生バイト達に聞き込みをし、元凶をつかんでいた。
そして僕という人間を受け入れてくれた。
そのいじめの主犯者はバイトを辞めさせられた。
おかげでバイト先が働きやすい環境に変化した。
僕は無心で働いた。
懸命に技術を覚え、また新人が入ってきたら積極的に声をかけた。
みんなが和になって楽しく働けるように。
しかしそんな時期は短かった。
また店長が変わった。
それ以降の店長は贔屓でしか人を判断しない人であった。
昇格制。
それがバイト先にあった。
贔屓でしかみられない店長は僕の頑張りではなく、自分の気に入った人間のみを昇格していった。
僕は気に入られていなかった。
あくまで底辺。
それでもいずれいいことがあると信じ僕は頑張った。
店長がころころ変わった。
どの店長も自分のお気に入りを昇格させていった。
僕はどの店長にも気に入られなかった。
昇格がされない。
頑張ってもなにも帰ってこない。
なぜ僕は店のために懸命に頑張っているのだろう。
なぜこんなに頑張る必要があるのだろう。
だんだんと疑問に思ってきた。
この店で働く意義を自分の中に見失った。
そのころシフトは8時間程度の勤務を何回か入れられていた。
トゥレットもだんだん薬がマッチングしていき症状が軽くなっていた。
僕はまた社会復帰できるのではと思った。
もちろん錯覚にしか過ぎなかったのだが。
その頃は思った。
フリーターではなく、正式に社会人に。
頑張ってもなにもかえってこないバイトより、社会人に。
収入が増えるし、また親に、世間に認められる人間になれるのではないか。
そう思った。
その店で我慢し続けて働き続けること1年半ほど。
僕は思い切ってハローワークを訪ねた。
職業訓練学校。
僕には技術がない。
資格がない。
こんな人間がまず雇われるわけがない。
技術を身に着けなければ。
そう思った。
なにをしたいか。
なにをするべきか。
わからなかった。
なにがむいているのか。
僕自身可能性を潰されてきたゆえ、自分の適性が見えなかった。
悩んだあげく、昔DTPという仕事をしていた関係からWEBデザイナーコースというものを選んだ。
そして職業訓練学校に申し込んだ。
試験がある。
合格しなければ入れない。
過去の問題集を見れば、僕が苦手だった学生の頃の勉強。
でもやるしかない。
そう思った。
過去の問題集を買い、わからないとこは中学レベルの参考書を買い、必死に勉強した。
もちろんバイトもあったからその間を縫って。
その経験が自分の自身になった。
また社会でやれると。
試験は見事合格できた。
職業訓練学校に通う。
それができた。
アルバイトをしながら学校に通う。
ちょっとした学生気分だった。
学校の仲間もいい人が多かった。
すぐに仲良くなれた。
僕のトゥレットも差別されなかった。
だから学校とバイトの両立。
僕にできるのかと思いつつ、懸命に頑張った。
しかし僕の心身は精神科の先生が言っていたように限界にきていた。
二束のわらじ。
そんなことができる身体ではなかった。
だんだん学校にいけなくなった。
朝が起きられなくなった。
バイトで消耗した心身に、学校の早起きがついていけなかった。
学校は三か月制だったが、2か月目でリタイアをせざるをえなかった。
またフリーター。
それも頑張っても評価されないフリーター。
どうしたらいいかわからなかった。
その頃職業訓練学校のみんなは僕のことを気遣ってくれていた。
学校にこなくても遊びに誘ってくれた。
その間はとても楽しかった。
その縁で、とある女性と知り合い付き合うことになった。
ただその女性は精神疾患の持ち主であった。
精神疾患者同士の恋愛。
その子は依存傾向が強く、僕に依存された。
僕は恋愛経験が少ない。
というより一人しかいない。
その子は僕より恋愛経験が多い。
そして僕とは違う精神疾患。
その子への対処に困った。
振り回されつつも、バイトの日々。
正直疲れて行った。
そしてある日アルバイト先から言われたこと。
店長の意に沿わない。
気に入らない。
そんな理由。
それだけの理由で解雇になった。
1年半以上も頑張り、店に貢献してきたのにもかかわらず。
僕の頑張りはいったいなんだったのか。
その店で一番技術があるのが僕だった。
だのに評価されない。
店長の意に沿わない。
社会人として一般的なことを。
新人がいたら輪になじめるように声をかける。
それが気に入らない。
なにをしていても気に入らない。
難癖である。
店長次第であるが、ここもブラック企業かと認識した。
また露頭に迷った。
しかしその頃はたとえ精神疾患。
振り回す子といえ相談できる相手がいた。
だから相談した。
どうしたらいい。
どうすればいい。
僕は迷宮に迷い込み判断能力がなかったから。
求人雑誌を彼女の家に持ち、彼女を頼った。
彼女は社会経験がなかった。
いいとこのお嬢様だった。
社会経験なぞなくとも生きていける家庭だった。
そんな彼女でも僕は藁をもすがる気持ちでアドバイスを真摯に聞いた。
派遣。
それが彼女の選択だった。
僕自身は派遣労働というものがわかっていなかった。
彼女も派遣というものがわかってなかった。
単に目についた派遣の文字。
募集広告。
彼女は安易に、
「これやってみたら」
といった。
当時僕は判断能力が欠如していた。
働けるならなんでもよかった。
彼女もいる。
病院もある。
生活がる。
生きなければならない。
働かなければ価値はない。
家という存在は僕の安息の場所ではない。
だから、派遣を選んだ。
選ばざるしかなかった。
正直派遣労働というものが理解できていない。
わからない中でもやらなければお金にならない。
生活ができない。
彼女を幸せにすることもできない。
追いつめられていた。
だからやるしかなかった。
初めての派遣。
よくわからないまま飛び込んだ。
紹介されたのは大手企業のコールセンター。
料金未払いの請求の係。
断るという選択肢が僕にはなかった。
できなかった。
とにかく働かなければ生きている価値などないと思っていたから。
不安だらけの中、初日を迎えた。
業務を見て、僕にはできない。
そう思った。
でもやめるわけにはいかない。
どうにかしなければ。
なんとか乗り越えなければ。
その一心だった。
しかし現実は過酷だった。
彼女に振り回され、仕事でストレスを抱え、限界に達していた僕の心身はおかしくなった。
トゥレットが酷くなった。
夜も彼女の電話で眠れない。
昼は仕事。
終わったら彼女の家へ。
そんな生活。
無理に無理を重ねた。
心身がついていかない。
トゥレットは睡眠がとても重要である。
しかし彼女に阻害されて眠れない。
睡眠不足で起きられない。
トゥレットもひどくなっていく。
職場環境も悪かった。
そもそも料金の請求と名だけはいいが、脅しである。
料金の払えないものに、無理やり払えという仕事。
僕にはそんな仕事は向いていない。
不向きの仕事を無理やりやっていた。
体にも心にも負担がかかりすぎ、これ以上は働けない。
そう判断せざるをえなかった。
契約更新の日、僕はこの仕事を断った。
それから派遣を転々とする日々が始まった。
もともと心身ともに限界に達していた。
彼女に振り回され、仕事中でも電話やメール。
仕事が終われば彼女の家。
やっと家に帰れたと思えば、また彼女の電話の相手。
安息の時間というものがなかった。
彼女は僕がトゥレット障害者ということを理解していなかった。
理解しようともしなかった。
自分勝手に僕を振り回した。
仕事が休みのときも呼び出された。
僕は休養がほしかった。
休養したかった。
しかし休養する時間さえ与えてもらえなかった。
正直別れたいと何度も思った。
でもいいだせなかった。
彼女の精神疾患は理解できる。
彼女の生い立ちも理解できる。
彼女の支えにならなければならない。
強迫観念のように思っていた。
そんな状態で仕事がまともにできるわけがない。
朝は起きられず、遅刻ギリギリ。
なんとか仕事をこなしても彼女の家へ。
パニック障害が併発した。
でも言い訳なんかできる家ではないし、そんな彼女ではない。
頼れる僕。
そんな仮面を演じなければならなかった。
演じても心身はついてこない。
会社に行けない。
というか行けなくなった。
何度となくそんな状態の連続。
幾度派遣を変えて、職場を変えても彼女という枷があるかぎり、僕は安心して働くことができなかった。
どんどんひどくなるパニック障害。
そしてトゥレット。
そんな中、ある日彼女はいわゆる二重人格になった。
人格が入れ替わる。
初めてみた。
しかし僕は自分がトゥレットということを知ってから精神疾患について勉強していた。
彼女の二重人格は医者には治せなかった。
その原因すらわかってなかったから。
だから僕が治した。
いわゆる催眠療法をもちいた方法で。
僕が過去トゥレットの治療で催眠療法にかかっていたときの経験が役に立った。
彼女の親は医師だった。
医師だったにも関わらず、打つ手は僕が治してから。
とっくに治っていたのに精神病院に入院させた。
また余談ではあるが、日本の精神科は遅れている。
欧米の20年は遅れている。
日本の精神疾患への知識は後進国なみである。
これは報道やテレビをみればわかる。
いまだに発達障害。
それも大人の発達障害は報道されない。
政府の対策も目に見える障害ばかりで、目に見えない障害に対しては、なんの政策もうたない。
僕はいま障害年金をもらっているが、これは運がよかっただけ。
世の中には障害年金すらもらえず、苦しんでいる発達障害者がごまんといる。
それに対し、そのこと自体みないふりがされている。
弱いものは死ね。
それがこの日本という社会の実態。
そして精神科医はやぶ医者ばかり。
9割がやぶといっていい。
薬を出して終わり。
薬を大量に飲ましておけばそれでいい。
わずか3分もかからずに診療が終わる。
障害者は相談や話を聞いてもらいたいのに、面倒くさそうに、
「はい、薬」
それで終わりである。
僕の主治医は薬を出すのを嫌った珍しい先生だった。
僕はよい先生に会えたと思う。
しかし世の中は違う。
薬を出して薬漬けにして、廃人どうようにする。
それが精神科の実態。
彼女の病院に付き添ったことがあった。
その医者もそういう医者だった。
薬の効能を十分に理解せず、彼女を薬漬けの廃人にしていた。
そして極め付けが彼女の父親の台詞。
彼女の父は大学病院で内科医をしていたが、
「内科はめんどくさいから、精神科に変わろうかな」
僕は開いた口がふさがらなかった。
精神科というものはそういうレベルでしか判断されないのかと。
正直彼女がかわいそうになった。
しかし医者というものはプライドが高いのか自分が絶対だと思っているらしい。
自分が一番正しいと。
彼女の、自分の子供のことを全然考えず、自分の勝手な判断で治療を行っていた。
彼女の親もまた毒親であった。
そして日本の精神科の現状を改めて認識させられた。
医者の逃げ場。
それが精神科。
やぶ医者しかいないはずである。
だから日本における、精神疾患の患者の認識の遅れがある。
理解されない発達障害が多く、その人達は苦労している。
後で書くが、日本の障害年金制度もかなりおかしい。
このせいで、どれだけ苦労している精神疾患患者が多いことか。
国が理解していないのであれば、企業だって理解が進むわけがない。
大人の発達障碍者は居場所がない。
それが日本の現状である。
話を戻そう。
彼女は入院したが、僕には安息の日々はこなかった。
毎日のように病院に呼び出された。
そのころは仕事がなかったから就活に専念したかった。
しかし彼女のわがままはそれを許してくれなかった。
お金もなかった。
家にいれば、働け、働けという強迫。
外にでれば、彼女の病院へ。
その間をぬって就活。
僕の安息はどこにあると思った。
でも頑張るしかない。
彼女がいるなら頑張る。
それが男というものと勝手に思い込んでいた。
というか思いこまされていた。
働かない、お金のない男に女はついてこない。
女性は地位、名誉、名声、お金、そしてルックスについていく生き物。
人間性や性格など後回しという生き物である。
そうではないという人もいるとおもうが、それが現実である。
僕自身はこういう女性しか会ったことがない。
これを女性蔑視というなら、あなたは精神疾患を抱えた、お金のない働くことのできない男を、実家暮らしの30過ぎの男を彼氏にしますか?とアンケートを取ってみたらいい。
現実がわかる。
だから僕は彼女に存在価値を認めてもらうために必死に就活した。
そして働いた。
本来は主治医に言われた通り、休養が必要だったにも関わらず。
そのころの親は最悪に和をかけて最悪だった。
僕は薬がないとトゥレットが落ち着かない。
そして眠れない。
しかし、仕事がある。
病院は平日しかやっていない。
僕はその日はなるべく休みを取って病院に行っていたが、どうしてもいけない日があった。
そのころは薬だけでももらえるシステムだった。
だから親に頼んだ。
母親の答えは、
「仕事があるのにいけるか」
であった。
子供の、僕のことなどまったく考えてない発言であった。
なんとか頼みこみ、薬だけでもと病院行ってもらったが、とってきたのは薬ではなく処方箋のみ。
「これでいいんでしょ」
開き直られた。
薬がなければならないのに処方箋だけでどうなるという話である。
仕事終わり。
薬局など等がしまっている時間。
僕の薬は大手薬局でしか取り扱っていない。
その日の夜は必至になって薬局を探した。
しかし僕の薬はどこも取り扱ってないか、しまっていた。
母親は、
「いいじゃない一日くらい薬がなくたって」
と能天気に、というか他人事のようにいった。
僕にとってどれだけ薬が重要かわかっていなかった。
もちろん主治医にもあってきてはいない。
心のなかで、こいつは使えない、人間の屑だと思った。
その日は眠れない。
トゥレットが酷いまま一日を過ごした。
次の日は会社を休まざるをえなかった。
薬をなんとかとりにいき、薬を飲み安静にしていた。
それが原因で派遣を解雇になった。
母親はお前が悪い。
それだけだった。
自分に責任はない。
あくまで自分がすべて。
自分が正しい。
解雇になったお前が悪い。
薬くらいなくても、一日眠れなくても、トゥレットが酷くても会社に行け。
それが母親だった。
彼女と母親に振り回され、派遣を転々とする日々が2年近く続いた。
正直疲れ果てていた。
死にたい。
それがそのときの僕の思いだった。
また死に支配されそうになった。
そしてとある派遣に勤めていたとき、僕はパニック障害が最悪になった。
電車に乗れなくなった。
彼女にも会いにいけなくなった。
だから会社を辞めざるを得なかった。
そのことを彼女に伝えると、
「経済力のない男はいや、別れる」
と言われた。
自分勝手な言い分で振られた。
散々振り回して、僕の心身をぼろぼろにした挙句の果てに。
しかしその反面やっと解放されたとも思った。
これでゆっくり休養ができる。
仕事に対して、集中できる。
パニック障害の治療に専念できると。
彼女との別れはまったく悲しくなかった。
逆にうれしかった。
とっとと気分を切り替え、自分の治療と次の就活に打ち込んだ。
彼女のことなどとっくに忘れた。
そのおかげか、人間に運というものがあるのならそれが戻ってきた感じがあった。
数か月引きこもり。
無料の就活雑誌を取ってきては眺める日々が続いた。
その間僕は治療に専念した。
パニック障害の治療。
トゥレットの鎮静化。
睡眠の質を上げること。
色々やった。
すでに親、特に母親という存在は無視した。
いないもの、それが僕のスタンスだった。
部屋に籠り、安静にし、ただ就活雑誌を眺める。
そんな日常だった。
そんなときある会社の募集が目に止まった。
コールセンターのオープニングスタッフ。
かなり大きな会社だった。
正直今までの経験上迷った。
コールセンターにはトラウマがあった。
だからコールセンターでまた働くことに抵抗があった。
一週間は迷った。
その募集の期限ギリギリまで迷った。
コールセンターには正直自信がない。
また同じことの繰り返しかもしれない。
心身はだんだん状態が良くなってきていたが、またトゥレットが酷くなるかもしれない。
恐怖があった。
悩んだあげく、意を決しそこに電話をした。
帰ってきた返事が、
「いまから面接にこられますか?」
履歴書もなにも用意していない。
正直戸惑った。
しかしここで行かなければチャンスを逃す。
なぜかそう思った。
「行けます」
と返事をし、電話を切った後即履歴書を書き面接会場に向かった。
面接は簡易的なものだった。
今までの経歴等を尋ねられるだけ。
簡単な数分の面接だった。
何人もの人が面接に来ていた。
条件の良い、大企業での面接。
それも正社員ではないが、直接雇用であった。
それは人気の高い求人になったはずである。
僕は合格する気がしなかった。
面接でも手ごたえが感じられなかった。
また落ちた。
そんな気持ちで家路についた。
数日後電話がかかってきた。
内定の電話だった。
僕は拍子抜けした。
あまりにあっさり合格してしまったので、素っ頓狂な返事で返してしまった。
「いついつからきてください」
僕はただはいといい、期待と不安の中でその会社が始まる日を、最初の出社日を準備しながらまった。
そして初日。
オリエンテーションだった。
そこには百人近くの同僚がいた、
こんな中でやっていけるのか。
僕は不安になった。
すみっこのほうに座り、話を聞いた。
皆知らない人ばかり。
昼など簡易的にすまし、ただ一人でいた。
帰り路、喫煙所があったのでたばこをふかしていた。
その会社が入っているビルは多くの会社が入っている。
色んな人が行きかい、色んな人が喫煙所を利用していた。
僕はただ、一人でたばこをふかしていた。
そんなときにいきなり話かけられた。
同じ会社の人。
同じ新人。
戸惑いながらも話した。
話しているうちにどんどん同僚が集まってきた。
知らない間に自己紹介。
そして連絡先の交換。
一緒に途中まで帰る人もいた。
僕の中でなにがどうしたのか理解するのに時間がかかった。
ただ嵐のような一日が過ぎ、家で疲れた体を休めた。
次の日。
会社に行く途中で話しかけられた。
同僚だった。
そしてその人と一緒に会社に。
途中喫煙所でたばこをその人とふかしていると、次々と同僚が集まってきた。
なんだか学生時代に戻った、僕にはそんな学生時代はないに等しいが、いわば専門学校の頃に戻った感覚があった。
そして昼ごはんにも誘われた。
最初三カ月は研修ということもあり、休憩時間もあった。
まるで学生のようにみんなで集まり、たべった。
僕がトゥレットをあることも話した。
みんなそれがどうしたという顔をしていた。
差別。
そんなものから無縁の社会だった。
僕が初めて、社会にでて初めて味わう充実した日々の始まりだった。
仕事が楽しい。
そういうわけではなかった。
ただ、同僚や上司がいい人ばかりだった。
みんな中が良かった。
だから僕は会社に行けた。
行きたかった。
みんなに会うために。
その頃、以前の彼女のストレスが急激に体に出た。
帯状疱疹。
体中が痒く、ぶつぶつが蕁麻疹のようにでた。
僕はそれでも会社に行った。
行きたかった。
みんなに会いたかった。
それだけ会社が楽しかった。
初めて会社が楽しいとい思えた。
だから休みたくなかった。
親は帯状疱疹がでていても知らぬふり。
だから自力で治そうと皮膚科に行ったり、薬を塗ったりと色々治すために試行錯誤していた。
そんな時、会社の上司が僕の異常に気付いた。
また首になるのか、また責められるのか。
そんな恐怖が頭によぎったが、上司の言葉は今までのどの会社の人間とも違った。
「そんなになるまで会社にくるなよ。ちゃんと休んで治してからこないと。一週間くらい休んでいいのだぞ。」
だった。
僕はあっけにとられた。
そんな言葉をかけてくれる人間をみたことが、社会にでて一人もであったことがない。
ただどんな状態でも働け。
熱でもなんでも会社にきて働け。
そうでないやつはクビ。
そんな人間ばかり、そんな会社ばかり見ていた。
だから晴天の霹靂だった。
逆に上司に聞いてしまった。
「休んでいいですか?」
と。
上司は不思議そうな顔をして、
「当たりまえだろ。体調悪いなら休んでいいに決まっている」
と言われてしまった。
というか強引に治るまで休めとまで言われてしまった。
僕は涙が出そうになった。
こんな言葉をかけてくれる会社に出会えたことに心から感謝した。
そして次の日から許可をもらい、帯状疱疹の治療に専念した。
皮膚科でも薬でもどうにも治らなかった。
だからとにかく休む。
寝るということを重点的に行った。
自然治癒を待った。
そのおかげか、一カ月ほどかかったが、皮膚が脱皮したように全部剥げ、後は綺麗に治った。
会社には一週間程度で行ったのであるが。
ある意味一週間程度であまり治ってない状態で行ったことに上司には別の意味で呆れられてしまった。
でもそれが心地よかった。
初めて、社会にでて運が向いてきた。
そう実感した。
会社が楽しい。
仕事が楽しい。
初めてそう思えた。
同僚にも恵まれ、友達がいっぱいできた。
会社の帰りには良く、みんなで飲みにいったりもした。
心の底から楽しかった。
今までの自分が帯状疱疹で脱皮した。
そんな感じがした。
プライベートも充実した。
そのころパソコンを買い、SNSに没頭した。
仮想空間でのコンタクト。
そしてリアルなコンタクト。
どちらも充実していた。
仮想空間では僕はHNに応じたキャラを演じ、みんなを楽しませた。
たくさんのコメントがついた。
家に帰ればパソコンを開いてSNSに没頭した。
会社に行けば、同僚と飲みにいった。
その同僚を誘い、同じSNSの中でも交流した。
ひたすら充実した日々だった。
そんな日々が数カ月続いた。
そんなとき、ふと彼女が欲しいなどと思った。
充実していたから思えた。
しかし現実そんな女性などいなかった。
だから冗談めかしてSNSで彼女が欲しいーなどと書き込んだりもした。
SNSの仲間からはお約束とみられ、笑いを取っていた。
それでよかった。
それが楽しかった。
十数年来の友人ともよくコンタクトを取り遊んでいた。
そんな日々が楽しかった。
実家でも僕が働いているのをいいことに口を出してこなかった。
だから初めて生きていることが楽しいと思えた。
ただ冗談から生まれた駒ではないが、彼女が欲しいと連呼する僕に声をかけてきた女の子がSNSでいた。
最初は何かの冗談かと思った。
なんのけないメッセージのやりとり。
それが続くとおもっていたのだが・・・
「会いましょう。」
ということになった。
僕は狐につままれたようになった。
会う?
僕に?
なんの意図があって?
最初は半信半疑だった。
が、話の流れか会う日取りが決まってしまった。
そして現在の嫁さんに会うことになるのだがそれはまた別の話。
今の嫁とは約10年ほど一緒にいる。
彼女が僕の近くい引っ越してきたこと。
そのおかげで最悪の家から逃げた。
やっと逃げることができた。
当時そう安心いていた。
しかし彼女にもいろいろ問題があった。
彼女も僕と同じ発達障害持ち。
そして虐待による二次障害を持っていた。
彼女との生活は一言では語れない。
ほんとうに色んな事がある。
現在進行形である。
ただ僕は大事な家族であり、最大の理解者だと思っている。
そんな彼女との生活はまた機会があれば別の話しで書こうと思う。
ただあまりに無理がたたりすぎて会社は辞めざるをえなかった。
彼女に、
「もう限界です」
とだけ言った。
彼女がトゥレットをどこまで理解していたのかは、わからない。
しかし、彼女は、
「もう働かなくていいよ」
と言ってくれた
やっと療養の生活ができる。
主治医の先生に言われた、
「トゥレットはまず休むこと」
これが実践できた。
しかし彼女も発達障害。
そして虐待などの二次障害を持っていた。
彼女も普通に働くことが困難だった。
それゆえ、今は生活保護と障害年金で生活いている。
親の毒からは一切離れた。
というか親から僕は見捨てられた。
母親はファイナンシャルプランナーという仕事をしている。
僕や妻を保険にかけ、それを自己都合で解約するなどお手の物。
そのお金で僕に援助を、人生をぼろぼろにした責任と取るどころか、自分だけ贅沢三昧な生活をしている。
僕はぼろ団地に。
親は僕の保険を勝手に解約し、そのお金で良い家電製品を買ったり、家をリフォームしたりしている。
最初は保険をたてに援助を申し入れ、無理やり援助をさせていた。
しかし使い込んだとしか思えない贅沢三昧。
突然援助は止めると言われた。
保険はどうした?
これからどう生きていったらいい?
何度尋ねても無視を決め込まれた。
トゥレット障害の人々がどういう生活を送っているか、調べろともいったことがある。
それも調べもしないで、知らぬ、存ぜぬ、私には関係ない。
そして援助は絶たれた。
一方的に。
保険のことをたずね、家のリフォームするお金はどこからでているのか。
なんど尋ねても、
「いろいろ整理して、あとは借金」
の一点張り。
生活保護ときにケアワーカーの方にこの話をしたら、借金ではできないし、話の筋がおかしいことを指摘された。
やはり僕らの保険金を使い込んだ証拠であるとしか思えない。
あくまで金。
金がすべて。
自分の利益だけしか考えていない
自分が困っているときは人に助けを求めるくせに、子供が困っても知らない。
まさに毒親の典型。
しかし、生活保護をもらうことで、こんな人間とはやっと縁がすっぱり切れた。
もはやこの人たちがどうなろうと知ったことではない。
現実を見ろ。
そんな言葉がある。
現実は残酷。
この親がよく言っていた言葉であるが、一番現実をみていなかった人々でもある。
妻は一時的に介護の仕事をしていた時期がある。
だから現実を知っている。
子に見捨てられた親がどんな末路を辿るか。
妻はそんな老人たちをたくさん見てきた
だから知っている。
子に見捨てられた親の末路を。
僕の親と呼ばれた人々はこれから地獄を味わうだろう。
そんなこと僕の知ったことではない。
やったことには責任がつきまとう。
それも親と呼ばれた人達がいっていたこと。
ならば、自分たちの死も責任をもってやってもらいたい。
僕すでに関係のない人だから。
ここまで僕の半生を書き記してきた。
僕自身思う。
よく生きているなと。
絶望に追いつめられながら、それでも生きている。
なぜ生きているか?
それは心臓が動いているからにすぎないが。
しかし思う。
詰んだ、という言葉がある。
僕も人生詰んだと思うことが多々ある。
何度も詰んだと、人生終わったと絶望した状況があった。
これからもあるだろう。
しかしそこで諦めたらほんとうに詰んでしまう。
詰んだ先に、終わったと思った先こそ、人間の本当の力が発揮されるのだと思う。
詰んだという状況。
その先に手を伸ばす。
手を伸ばせば、必ずなにかある。
希望とまではいわないが、生きていく術。
生きていくなにか。
詰んだ先にこそある。
だから諦めたらダメだと思う。
諦めない。
なんどでもあがく。
あがいて、あがいて、あがき続ける。
そうすればその先になにかある。
だから、僕はあがこうと思う。
この先また試練だらけであっても。
道端に咲く花は、踏んでも摘まれても、また花を咲かす。
だから僕は野の花でいい。
どんなこともあきらめない。
命が尽きるまで生きる。
生きることでなにがあるかはわからない。
でも生きる。
生きようと思う。
生きていればいいことある。
そんな幻想はいだいていない。
生きているということ自体に意味があるのだと思う。
死ななない。
どんな絶望的な状況でも生きる。
だからことなにかある。
なにかあるかわからないが、絶対になにかある。
だから生きる。
生きるというのは難しい。
そして苦しいこと。
しかし人生において、長い人生の中では楽しいことも、苦しいこともたくさんあっての人生。
だから生きる。
一瞬でみれば、楽しいことしかない人もいるだろう。
苦しいことしかない人もいるだろう。
僕自身四十数年、苦しいことしかない。
しかし、一瞬、一瞬では楽しいこともあった。
だから諦めない。
命が尽きるときに、いい人生だったと思って死にたい。
だから生きつづけようと思う。
最後に・・・
毒親による虐待や、トゥレットで苦しむ人に。
こんな僕でも。
人間の底辺を生きていても、生きている。
毎日毎日辛いことだらけ。
でも楽しいこともたまにある。
だから死んではだめだ。
逃げたいときは逃げていい。
逃げ場所があるなら逃げる。
逃げることは決して恥ではない。
逃げてもなにしても生きているということが大事。
だから、生きよう。
命尽きるまで。
ここに書かれてることは一部フィクションですが、ほぼ事実に基づいてます。
こういう半生を生きた人間がいるということを知っていただけたら幸いです。
壮絶は半生を生き、それでも生き抜いている人間がいることを知っていただきたく思います。
人間死は簡単ですが、しかし生きていればなにかあるということを感じ取っていただけたらと思います。