24話 図書室の出来事
ルディが城を発った日の夜更け。
天窓から月光が惜しみなく図書室へと降り注ぎ、手燭をつけていなくても明るい。月光が書棚に並べられた本に淡く当たり幻想的な空間を作り出していた。
夜の図書室は誰も近寄らない。
寝静まった時間は、昼と違い外からの音がなにひとつ聞こえない。
アカリは本を広げ、読み慣れない文字を必死に目で追った。書かれている内容は、レフィール王国の政治と経済が建国時から時系列になっている。
毎晩図書室へ足を運んでは、せっせと読んでいた本で、やっと近年の項に辿り着くことができた。
ローラとアカリが入れ替わりをしていた頃。双子王子を教育していた師から、学ぶにはとても良い本だと教えてもらった日から少しずつ読み始めていた。
アメリがこのままルディの婚約者となり、婚姻を結ぶとなったら、きっと必要になる。聞かれる前に、自国のことを知ろうと。
「そこでなにをしているのかしら?」
アカリはびくりと肩を揺らし、声がした方へ顔を上げる。
図書室の入り口で、扇を片手に簡素なナイトドレスを着た王妃が立っていた。
慌てて椅子から立ち上がる。その拍子に膝の上に置いていた本が床に落ちて、大きな音を立てた。
「すいません!」
拾い上げて、腕の中に隠した。なにを読んでいるか知られたくない。女官として城に務めるアカリには関係のないものだ。
薄暗い図書館でも、王妃には関係ない。
アカリが隠した本のタイトルを探し当てると、嘲笑った。
「いまの貴女にその本は必要ないものでなくて?」
このまま一時的な女官として働いた後、村へ戻ることになると、暗に言われたような気がした。きっと、言っているのだろう。
アカリは悔しさにぐっと奥歯を噛みしめた。言い返す言葉がなにも出てこない。
当初、図書室でこの本を見つけた時、アメリ様が尋ねられた時のためにと、言い訳のように自身に言い聞かせていた。
そう、言えばいいと口を開くのに、出てくるのは乾いた空気だけで、言葉にならない。
――しかし、本当は分かっているのだ。アメリがアカリへ問うてくることはまずない。
アメリはウルマリー王国の王女。近隣国の経済や歴史はアカリより詳しい。だからこの本を読む理由にならない。
アカリが読んでいる理由。それは――。
「あたし――わたくしの勉学の為です」
この本を取られてしまわないように、ギュッと胸に抱き込んだ。
ルディの隣に立ちたい。
そう願ったのは、ローラと共に族に囚われ、ルディらに助けられた時だった。その帰り道だった。心身ともに疲労した姉妹を双子は馬車で連れ帰った。
その道中、意識朦朧とするアカリを、誰にも渡さないと意思表示するかのように、膝の上で横抱きにされたまま、背中に回った両腕がアカリを離さなかった。
凄く嬉しくて、思わずルディの服を掴んで、意識を手放した。
「読んだところでなにに役立つと? 貴女はただの平民。アメリ様が必要ないと言えば直ぐにでも村へ帰す準備は出来ていますのよ?」
アメリが望んでアカリは城に居られるのであって、要らないと、言われたらいるべき場所を失う。
要らないと言われないように、仕事を頑張るが、要らないと言われるのは時間の問題でもあるような気がしてならない。
要らないと言われて、帰らないといけなくなったとしたら。アカリは素直に頷けない。
村に帰りたくない。
アカリの居場所はデニレローエ村にない。
ローラのいない家は寂しい。かと言ってミルリィーネの家は居づらい。
「わたしは、帰りません。アメリ様にいらないと言われて素直に帰ることは出来ません。わたしの居場所は――」
「ここではありません。ルディラスには既に相手がおりますわ」
ルディの隣だと言う言葉を打ち消される。聞きたくもないと、王妃は扇を広げた。
明らかな拒絶に、アカリの僅かな希望は打ちのめされた。
王妃は空いた距離を詰め、力の緩んだアカリの腕から本を奪い取った。あまりの早業に本を追いかけて伸びたアカリの手を、閉じた扇で叩かれた。痛みに手を引っ込めた隙に本棚へ戻してしまう。
「いつまでもズルズルとここにいるから、そんな淡い期待を持たせてしまうのですわ」
厳しい言葉に、アカリはなにを言われたのか理解出来ないでいる間に王妃はアカリの前に立った。コツコツと床を叩くヒールの音がやけに大きく響く。
アカリを見下ろす王妃の瞳は、怒りを宿していた。
「即刻出て行きなさい。貴女はここに要らないわ」
怒りを買ってしまったと気がついたときにはすでに遅かった。
退城を言い渡した王妃は、アカリを引きずり、図書室の前で待機させていた兵へ突き出す。
図書室に王妃以外の人間がいたのかと一瞬驚く。女官の服装に、すぐに狼狽えた表情を引き締め、敬礼した。
夜更けに無理な頼まれごとをされたのだろうと思ったらしい。
「どうされましたか?」
二人のうちの一人が王妃へ問う。女官が図書室で王妃と出会うことは稀でない。王妃は図書室の本が好きでよくこの部屋に出入りしている。
図書室の本を探しにきた者と出くわすことは多々ある。
「この娘を城の外へ。今後一切城内への出入りを禁じますわ」
「お、王妃様! お待ちください!」
アカリは全身から血が一気に引く。青ざめた顔で王妃を引き止めようと、手を伸ばすが、その手は兵に阻まれた。
「貴女に呼び止める権利はありません。なにをなさっているの、早く連れて行って頂戴」
アカリは兵に後ろからしがみつかれ、身動きが取れない。
王妃はもう一人の兵を連れ立って通路を歩き去っていく後ろ姿をただ見送ることしかできない。
暴れたところでアカリの力が男の人に敵うわけもない。
(どうしよう。残れなくなっちゃった。わたは、ここに……)
いなくてはならないのに。
兵にひきづられ、自室として与えられている部屋に押し込められる。最後の悪あがきをしないよう部屋のドアは開けられたままに、退城の支度をする羽目になった。
(ルディ!)
今朝出立した馬に跨る後ろ姿を思い浮かべて叫ぶ。
どうしたらいいのか、止まった思考回路ではなにも答えを導き出せないまま。
アカリは女官の服から着替えると、唯一許された王城の外套に身を包み、城を追い出された。
背後で無情にも閉められる閉門と鍵の音に、咄嗟に振り返った。
「あの、ルディラス殿下に伝言を!」
アカリを外に出した門兵と、終始アカリについた兵が嫌そうに振り向く。
取り合うつもりはなく、背を向けてしまった。
けれど、アカリは叫んだ。
もう、城に残れなくなってしまった。
王妃の言うように、王城にいれば、という一縷の望みを持っていた。アカリの小さな望みを見抜いた王妃は、その願いを許してくれなかった。相手がいる王子に懸想する女官は城に必要ない。
アカリの頬を外気で冷やされた冷たい涙が流れていく。
まさか、夜も更けた時間に追い出されてしまうなんて。
「殿下の幸せな未来を願っています」
ぽろりと流れ落ちた涙を拭くこともしないで、アカリはその場にしばし立ち尽くしていた。
門兵らが嫌そうな顔でこちらの様子を伺っている。交代にきた門兵へ事情を話し、面倒な……とこぼす声が聞こえる。
いつまでもそうしていたところで門が開けられるわけでなく。
アカリは朝焼けとともに城下へ足を向けた。